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 とんだ騒動に発展してしまった朝見は、「後ほどゆっくり語らえばよい」というイェラインの親切な言葉でその場はおさめられて終わり、今アルドゥインは紅晶殿内の居室で不機嫌そうに椅子に腰掛けていた。
 その正面には先程はしゃぎすぎてしまったことを自分でも認めていたのと、兄にとってどうやら自分の登場は、兄を気絶寸前にまで追いやるほどに歓迎されざるものだったらしいと気付いて何となく気まずい様子のヒュラスが座っている。
 兄弟二人きりで積もる思い出話でも、と気を利かせたのか、セリュンジェは姿を消しており、女官や侍従たちも入ってこなかった。アルドゥインは一言も発さなかったし、ヒュラスは兄より先に喋りだしてはいけないと遠慮していたおかげで、控えの間はますます広く、がらんとして感じられた。
「……元気だったか」
「はい」
 ようやっと口を開いたアルドゥインは、ぼそりと尋ねた。だがまたそれきり、重苦しい沈黙が続いた。
「兄上」
 思い切ってヒュラスは尋ねてみた。
「兄上が身分を隠してメビウスに仕官されていると知らず、明かしてしまったことはお詫びいたします。それに先程は立場も弁えず大げさに騒ぎ立てたこともお詫びいたします。ですが……僕はそんなにもご迷惑でしたか?」
「迷惑なんて、そんなことはないさ。ヒュラスはいつだって俺の大切な弟だ」
 アルドゥインは困ったように微笑んで見せた。
「ヒュラスを疎ましく思っているとか、そういうことではないんだが、俺にとって、ラストニアでの過去はもう無いものなんだ。それだけは判ってほしい。でも……俺がどう決意し、何を言っても、やはり過去は捨てきれるものじゃないんだな」
「兄上の仰りたいことは、何となく判ります」
 神妙な面持ちでヒュラスは言った。アルドゥインはまた顔を伏せて、膝の上で組んだ指先を見つめていた。
「迷惑というなら、お前のほうにこそ済まないと思っている。嫡男としての責務を全て捨てて、お前に押し付けたのは俺のわがままだったから。こうして出会ったのも、考えてみればお前に謝るためにヤナスがお計らい下さった事なのかもしれない」
「ご自分の命がかかっていたのですから、仕方ないことです。僕が兄上の立場だったら、やはりあの時に国を出ていたと思います。でなければ兄上はきっと叔母様たちに殺されていました」
「お前には何事もなかったか?」
「ええ。ラストニアを継ぐ兄上がいなければ、僕はヴィラモント公を継ぐだけ、それは叔母様たちには関係のないことですから。ですが今度は叔母様たちの間で反目しあうようになりましてね。愚かな事です――兄上を追い落とすために手を組んでいたものが、次の日にはお互いを蹴落とすのに躍起になって」
「聞いたところでは、メイシー叔母様の親類を養子に迎えたとか」
「ええ。ギース陛下も、あんな騒ぎまで引き起こした叔母様たちの子供を迎える気にはなれなかったのでしょうね。ユルサン殿下といって、メイシー叔母様の兄上のご子息です。叔父様は、今度は何事もないように常々目を光らせておいでです。――兄上の時に、それくらい気をつけていてくださっていれば、とは思いましたけれども。まあとにかく、僕には何事も起こりませんでした」
「――ところで」
 重い気持ちを振り切るように、アルドゥインは顔を上げた。
「父上や母上は、もう俺のことは諦めておいでか」
「三年は方々に人をやって探させておられましたけれども……。我が子というのにはかけがえはありませんが、家を継ぐべき息子はもう一人、僕がおりましたからね。今では、僕もそうでしたけれど、生きていれば、どこかで幸せになっていればと、それだけを願っています。これだけは父上のために申し上げておかなければなりませんが、父上が最初、兄上を探そうとなさらなかったのは、兄上を見捨てたのではなくて、ほんの一時のことだと思っていたからなんです。それが一ヶ月経っても戻られないので初めて慌てたというような次第で」
「戻る気がないのに、見つかるようなことをするわけがないからな」
「今年になってから、メビウスに兄上と同じ名前の将軍が就任したと聞いて、まさかとは思っていましたが」
 アルドゥインは薄く微笑んだ。
「そうだな。隠していても、名前は流れるか」
「兄上がお望みなら、父上たちには内密にしておきますが」
「いや、父上と母上を安心させてさしあげてくれ。俺がラストニアに戻ることはないが、明かしたとて叔母たちに命を狙われることはもうないだろう」
「判りました」
「クラリスはどうしている?」
「姉上は一昨年に、テヴナン・カトピレス騎士伯と結婚しました」
 ヒュラスは嬉しげな笑みを浮かべた。
「……カトピレスといえば、ラストニアの港湾警備をしている家だろう?」
 もうおぼろげになってしまった記憶をたどり、アルドゥインは確かめた。どうやら彼の記憶は間違っていなかったようだ。
「ええ、そうです。テヴナン殿は港湾警備隊の隊長をなさっておいでです。ご存じなかったでしょうが、去年、兄上は伯父になったんですよ」
 予想はできていたことだったので、アルドゥインはさして驚かなかった。
「甥か?」
「姪です。名前はレモンド。とても可愛らしい子ですよ」
「判ってはいても、クラリスが母親、というのはあまり想像できないよ。十六歳の時しか覚えていないからな。……ヒュラスも、もう二十一だろう。そろそろ結婚話くらいは出ているんじゃないか?」
 とたんにヒュラスは顔を赤くした。異性の話が出ると突然うろたえるとか、奥手なところは、どうやらこの兄弟に共通する特徴らしかった。
「その……十六のときに婚約は、したのですけれど……。結婚はまだ……」
「どこの姫だ? もしかして、ルシウス伯のところのイピゲネイア姫か」
「なぜお判りになるんですか」
 びっくりしてヒュラスは叫んだ。
「んー、まあその……勘かな」
 アルドゥインは言葉を濁したが、ヒュラスの相手になったイピゲネイアの姉、オフェリアと彼との縁談をそのルシウス伯が推していたのを知っていたからであった。上が駄目なら下を持ってくるだろうというのは容易に想像がついた。それに、自分や弟妹の相手になりそうな貴族の子女くらいは嫌でも把握していた。
「結婚はいつごろか、もう決まっているのか?」
「イピゲネイアが成人したら、ということで」
 沿海州の成人年齢は十八である。アルドゥインは記憶を手繰って、イピゲネイアの年齢が幾つだったのかを思い出そうとした。
「それなら来年あたりか。おめでとう。その時には知らせてくれ。何か祝いの品を贈らせてもらうよ」
「ありがとうございます」
 ヒュラスは顔を赤らめたまま頭をちょっと下げた。
「それで兄上には、決まった方は?」
「俺には、そんな話はないよ」
 アルドゥインは慌てて首を振り、手まで盛大に顔の前で振ってみせた。その言葉を信じていない様子で、ヒュラスは兄の顔を覗きこんだ。
「そうですか?……弟の僕が申し上げるのもなんですが、兄上はとても見目良いし、地位もおありだから、お相手を探そうと思えば事欠くまいと思いますけれど」
「俺は忙しいんだ」
「兄上は、女性のことは苦手でしたね」
 誤魔化そうとしたのだが、さすがに血を分けた弟だけあって、ヒュラスには見抜かれていたようだ。
「ヒュラス、頼むから、間違っても父上にそういうことを言うなよ。俺のためとか称してどこの姫君を押し付けられるかわからん」
「そういうことがありそうならお知らせするし、できるだけお止めしますよ」
 勝手得たるようにヒュラスは笑った。そうして話が弾むうちに、二人の間を隔てていた七年の空白も、何とはなしのよそよそしさも、いつのまにか消えていた。何と言ってもヒュラスはアルドゥインにとって大切な弟であり、彼に全ての責任を押し付けて出奔してしまったという後ろめたさこそあれ、悪感情など持っていなかったし、ヒュラスにとってアルドゥインの出奔は致し方なかったこととして受け止められ、彼自身は尊敬すべき愛する兄であったのだ。
 二人はもともと非常に仲の良い兄弟だったので、アルドゥインのほうがそのようにして打ち解けてしまうと、昔の親密さがあっというまに戻ってきた。二人はともに、七年の間何が起こり、何を経験したのかを互いに語り合い、時が過ぎるのも忘れてしまった。
 ラガシュ伯の昼餐会に招待されていたヒュラスに、従者がそろそろ行かなければ遅れてしまうと告げにきたので、やっと二人はいいかげん話を切り上げる頃合いになったことを知った。
「それでは、兄上。夕刻のパーティーでまたお会いしましょう」
「ああ。それじゃあな」
 ヒュラスが出て行くと、見計らったようにセリュンジェが入ってきた。彼は一応周りに人がいないことを確かめてから、いつものくだけた調子で喋りはじめた。
「ずいぶん話が弾んでたみたいだな。最初は気絶しそうになってたのに」
「あんなに大騒ぎされるとは思ってなかったからな」
「――にしても」
 アルドゥインを横目で見上げながら、セリュンジェは呟くように言った。その声には悲哀に似たものがかすかににじんでいた。
「前からお前はただ者じゃないとは思ってたけど、まさか出自までただ者じゃなかったとはな。ヴィラモント公爵家っていや、沿海州じゃ名門中の名門だろう?」
 傭兵仲間であったはずのアルドゥインがわずか五ヶ月ばかりで将軍にまで出世したことで、セリュンジェは取り残されたような、友人の出世を喜んでいいのか悲しんでいいのかわからない複雑な感情を抱いていたのだ。それが更に、生まれからして彼とは全く違う世界の人間であったと知った衝撃は大きかった。
 彼の心中に何やら葛藤があるらしいと気付いて、アルドゥインは眉を寄せた。
「すまない、セリュ」
「何も謝ることじゃねえよ。ただ――なんと言えばいいのかな。そう、すごく驚いたんだ。そりゃアルは頭もいいし、言葉遣いも慣れてるから、貴族のご落胤か、末裔じゃねえかな、とは思ってたけど」
 今度はセリュンジェがアルドゥインを元気付けるように言ったが、アルドゥインは沈痛な面持ちになった。
「親友のセリュにも、剣を捧げた陛下にも、本当のことを言わなかったのは確かだ。それは謝るべきだろう。後で陛下にも謝罪申し上げる」
「だから、謝ることじゃねえってば。だってアル、お前はその身分のせいで殺されかけたんだ、どこでだって身分を隠さずにはいられなかったんだろう? それぐらい、俺にだって判るよ。陛下だってお判りになるさ。陛下の方がお前の立場に近い方なんだから。それに……最初からアルの出自を知ってたら俺、ディオン閣下の所に連れて行こうなんて思わなかったぜ」
 最後の台詞に、アルドゥインは笑った。

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