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     それは永い時でした
     少なくともわたしにとっては
     この永い、果てのない闇の中に
     わたしはようやくあなたを見いだし
     あなたはわたしを見いだしました
              ――エウリュピデス
                 「オルフェ」より




     第二楽章 アルボラーダ




 トーナメントの前日には、盛大なパーティーが行われる。トーナメントは、元来は集団決闘の性格を持っていたものであるが、それが次第に祝い事の余興や鍛錬が目的の競技に変わっていき、それとともに手順が儀式化していったのである。現在では武術好きのイェライン帝が年に一度、マナ・サーラの月にオルテアで大規模なトーナメント大会を開催している。
 三日間に亘って行われるこの武術大会には集団騎馬試合と、剣や槍など武器を定めない個人戦の二種類があり、前者には主に五大騎士団の将軍や五大船団の提督、各地の諸侯らが参加し、後者には軍内の腕自慢が参加する。また、これは海軍のみの催しであったが、オルテアの森に作られた人工池に船を浮かべて模擬海戦を行うこともある。
 騎馬試合の出場者たちは未婚ならばそれぞれ意中の貴婦人や恋人のスカーフの色を標章にするので、貴婦人たちも誰を応援するか、誰にスカーフを渡すかで大いに争ったりそれを話題にして楽しむのであった。
 前夜祭というべきパーティーは夕方からであったので、午前中は普段と変わらず公務がある。軍人とはいえアルドゥインも皇帝の謁見に同席しなければならないので、朝は早かった。
 その日結局アルドゥインとサラキュールがそれぞれの寝室に引き取ったのは真夜中を過ぎていたので、いつもどおりの時間に起きるのは辛いことであった。が、だからといって子供のように蒲団の中でぐずぐずしているわけにもいかなかった。着替えと洗顔を済ませて食堂に行くと、同じくらいの時間に目を覚ましたらしいサラキュールもすぐに入ってきた。彼のほうも、いくぶんか眠そうな顔をしていた。
「お早う、サラキュール。よく眠れたか?」
「お早う。あれからすぐに寝たが、やはり寝足りぬ」
 欠伸をしながらサラキュールはアルドゥインの隣に座った。彼らが席に着くと、すぐに給仕が熱い茶の入ったポットと朝食を銀のワゴンに載せて持ってきた。軽く焼き目を付けたパンの薄切りと、えんどう豆のポタージュ、サラダ、卵とハムを一緒に焼いたものが今朝の献立だった。
「夕食はともかく、おぬしは朝からよく食べるのだな」
 低血圧なのか食が進まない様子でパンにバターだけを塗って齧っていたサラキュールは、正反対に旺盛な食欲を見せているアルドゥインをちらりと見て言った。口に入れたばかりだった卵を飲み込んでから、アルドゥインは答えた。
「俺から言わせれば、朝に食べないっていうのが理解できん」
 沿海州では朝と昼にたっぷりと食べて夕食は軽め、というのが一般的であったから、内陸の食習慣とは正反対であった。これもアルドゥインは、どうしようもない文化の違いとして受け止めていた。
「食べきれないなら、俺が食べるけど」
「そうか。ならお願いしたい」
 サラキュールは遠慮なく、手を着けずにいたポタージュの皿をアルドゥインの前に移動させた。
「ところで、今日の朝見には出席するのか」
「ああ。四ヶ月ぶりの伺候だし、沿海州からの使節も一緒に、新しく大使になった挨拶に来ておるから、紹介をせねばならぬ」
「沿海州の何処だ?」
「ラストニアだ」
「ラストニアか……」
 ふとアルドゥインの表情がかげったが、サラキュールは気付かずに続けた。
「新大使の名は……」
 しばらく記憶を探るように目を宙に泳がせていたが、サラキュールはやがてアルドゥインに視線を戻した。
「思い出した。ヒュラス・ヴィラモントだ」
「何だって?」
 アルドゥインはいきなり素っ頓狂な大声を上げた。あまり突然だったので、サラキュールまでびっくりして声を出してしまった。彼らのそばに控えていた給仕も驚いて飛び上がりかけた。
「な、何だおぬし、そんなに驚くことか?」
 サラキュールを驚かせてしまったことに気付いて、アルドゥインは慌てた。しかし何をどう言ったらよいものやら判らずに、何か言いかけてはもごもごと止めてしまった。それが余計に彼の不審を煽っているのには気付かなかった。
「ヒュラス・ヴィラモントと聞いただけで、何をそんなに慌てるのだ。おぬしはアスキアで何かやらかしたのか?」
「後ろめたい事なんかしてない!」
 思い切り怪訝な視線を叩きつけられて、アルドゥインは我にもなく憤慨した。
「では何なのだ」
「ちょっと知ってる名前なだけだ」
「そうか?」
「……」
 アルドゥインは途端に不機嫌そうに口をつぐんでしまった。
(俺の弟だ、なんて言えるものか)
 それを明かすことは、今までひた隠しにしてきた過去と出自を明かすことに他ならなくなる。アルドゥインの沈黙をどう受け取ったのか、サラキュールは短く息をついて呆れたように言った。
「言いたくないことなら無理に聞き出したりはせぬよ」
 それきり会話もなく、おそらくは彼の祖父がやきもきしながら待っているはずだったので、サラキュールは朝食を済ませると早々に宿に戻っていった。彼を見送ってから、アルドゥインは心からの盛大なため息をついた。
「ヒュラスが来てるのか……」
 何も知らないまま朝見に出て、ばったりと出会って驚くよりは、今知っていたほうがましだったかもしれないが、しかし気分は重かった。部屋に戻っても、出かける準備をする手ははかどらない。
(いくら俺は死んだことになっているといっても、生きていると判ったらまたあれこれと問題が起こるだろうな……その上俺はメビウスで紅玉将軍になっちまってるわけで……。ヒュラスが嫡男になったのに、まさか戻ってきて家を継げ、なんてことはないと思うけれど……あの叔母たちがどう出てくるんだか……)
 国の重鎮になればなるほど、過去の自分を知っている人間と出会う確率は否応なしに高くなっていくのだ、ということを、今の今まで彼はすっかり忘れていた。ここが故郷と遠く離れたメビウスであったので気にすることもなかったが、それでも沿海州と国交があるかぎり、いつかは訪れただろうことだったのだ。
「アルドゥイン様?」
「え、あ」
 振り返ると、心配そうな顔をしたレーナがいた。
「セリュンジェ小隊長がお迎えにあがっておられます。ただいま玄関でお待ちいただいておりますが、もう少しお待ちいただくように申しましょうか」
「ああ、すまない。それには及ばない。すぐに行く」
 アルドゥインは物思いを振り切るように頭を軽く振り、歩き出した。セリュンジェは今も紅玉騎士団に所属していたが、アルドゥインに剣を捧げて騎士になったので、一緒に剣を捧げたジョーンたちともども所属は四番隊に変わっていた。
「おはようございます、将軍閣下」
 階段を下りてくるアルドゥインに気付いて、セリュンジェは笑顔で敬礼した。
「おはよう、セリュ」
「なんだあ? 元気がないな」
 あっという間にくだけた口調に戻って、セリュンジェが言った。
「昨日からサラキュール・ド・ラ・アルマンド殿が来ていて、泊まっていったんだ。それで一晩中話をしていたから」
「寝不足か」
「ああ」
 セリュンジェはすぐに納得した。
 オルテア城に着いてから、朝見までの間に書類提出などの細々とした雑務を終え、アルドゥインは控えの間に戻ってきた。セリュンジェは護衛として謁見の間に入ることを許される身分になっていたので一緒にいて、アルドゥインがそわそわしているのに気付いた。セリュンジェは不思議そうな顔をして彼の顔を覗きこんだ。
「おいおい、どうしたんだよアルドゥイン。お前さん、まさか四ヶ月目の今頃になって緊張してるなんて事じゃないだろうな」
「いや……今から抜けるってわけには……いかないよな」
 アルドゥインは何とも言えぬしおたれたような、困ったような表情を浮かべた。セリュンジェはびっくりした。まさか責任感の強い彼がそんなことを言い出すとは思っていなかったので。
「ばか言っちゃいけねえよ。お前、自分が軍部の重鎮だってわかってるのか? それともどうした、頭でも痛くなったのか」
「そういうわけじゃない」
「だったらずる休みにしかならねえぞ」
「いやまあ……そりゃそうかもしれないが……」
「全く、世話の焼ける将軍様だな」
 セリュンジェはぶつくさ言いながら彼の背を押した。かなり気の進まない様子だったが、アルドゥインは仕方なく謁見の間へと入っていった。すでに歴々が居並び、後は使節を迎え入れるだけとなっている。彼は自分の立ち位置についたが、それでも何やら不安そうであった。
 そうこうしているうちに、沿海州使節が拍手とともに迎えられて入ってきた。拍手が鳴り止むと、ラストニア使節が前に進み出てイェラインに礼をした。すらりとしたなかなかの美丈夫で、同国人だからかアルドゥインにどことなく似通っていた。
「この度ラストニア使節に就任いたしましたヒュラス・ヴィラモントと申します。この度は新任の挨拶を申し上げるため、かくは沿海州よりまかり越して参りました。以後よしなにお頼み申し上げます」
 口上を述べて、ヒュラスは軽く膝を折り、他国の王への礼をした。イェラインはにっこりと笑って頷いた。
「それは、むろん。遠き沿海州よりよくはるばる参られた。これなる紅玉将軍は貴殿と同じくラストニアはアスキアが出身の地である。故郷を離れて久しきこと、夕刻の宴には故郷の話など聞かせてやってはくれぬだろうか」
「それはもちろん、喜んで」
 ヒュラスは言いながら、イェラインの指した辺りに目をやった。その目が驚いたように大きく見開かれる。
「あ……兄上?」
 彼の大声が、広間に響きわたった。
 驚愕したのはヒュラスだけではなかった。その場にいた全員が、彼の発した言葉に耳を疑った。アルドゥインだけは今更隠れたりするわけにもいかず、片手で口許を覆って、もう片方の手を顔の前で否定的に振った。
「いや、人違いだ。俺には貴方のような弟は……」
「何を仰っているんです、兄上!」
 ヒュラスは叫んだ。彼の顔に最初浮かんでいた驚きの表情はすぐに消え、代わりに溢れんばかりの懐かしさをたたえた笑顔に変わった。自分が新任挨拶に他国の宮廷に参上している身であることもすっかり忘れて、ヒュラスはアルドゥインに駆け寄った。
 アルドゥインが逃げる暇や隙もあらばこそ、次の瞬間にはアルドゥインはヒュラスに荒っぽく肩を抱きしめられ、確かめるように肩や腕のあちこちを触られていた。
「あ、あの、朝見が……」
 アルドゥインの控えめな制止など耳に入っておらぬようで、ヒュラスは感涙に潤んだ瞳で兄を見上げた。その感情表現の開けっぴろげさや、長らく生き別れていた兄に寄せるひたむきな愛情にあふれた態度にはソレールと共通するものがあった。ソレールを見てアルドゥインが弟のようだと思ったのも無理からぬところであった。
「ああ、すっかりご立派になられて……。でも、たとえ七年経っていようと、実の兄を見間違うはずがあるものですか! それとも兄上は、僕のことをお忘れですか? あんなに可愛がって下さった弟を?」
「何と、アルドゥインは貴殿の兄だったのか」
 イェラインが身を乗り出してきた。アルドゥインは進退窮まるところに来ていた。否定しようにもこれほどきっぱり言われてしまってはどうしようもない。セリュンジェはやっと納得がいった。
(弟が来てたから、アルの奴嫌がってたのか? それにしても何で顔を合わせるのが嫌だって言うんだ。普通なら喜びそうなもんだが)
 そう考えてから、ペルジア遠征の際にアルドゥインがもらした昔の話を思い出した。
(家の跡目争いが原因で故郷を捨てたみたいな事を言ってたな……。って、待てよ! この使節の兄貴がアルってことは、アルは……)
 セリュンジェの考えを引き取ったようなイェラインの声が、半ば茫然自失のていのアルドゥインの耳に飛び込んできた。
「ということはアルドゥイン……そなたはヴィラモント公爵の……」
 しかしアルドゥインの頭は真っ白になってしまっていて、イェラインが何を言ったのか、ヒュラスが何かを言ったようだがそれすらも、すでに知覚の外にあった。

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