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     夏は来ぬ
     ものみなすべて輝く
     夏は来ぬ
     緑に茂れる木の間より
     娘らは手に手を取りて踊る
           ――オルテアの夏祭の歌




     第一楽章 夏の間奏曲




 光ヶ丘を正面に臨む窓からは、オルテア城のすがたがよく見えた。光ヶ丘は一面の濃い緑に覆われ、冬の間どことなくくすんだ印象のあったオルテアには今、色彩と光が満ちている。手前には庭に生い茂る木々。うららかな午後の陽射しが、草葉の緑をきらめかせる。窓辺に置かれた壺に生けられた黄色のルーニアの花びらが、つと吹き込んできた風に揺れた。
 アルドゥインは広げた書類に伏せていた顔を上げてオルテア城を眺め、ちょっとため息をついた。その様子は、事情を知らぬものには紅玉騎士団一万を束ねる若き将軍の、何か重大な物思いに見えたかもしれないが、実際のところそこにいるのは片思いの恋に悩める青年であった。
「アルドゥイン様」
 彼の憂鬱な物思いは、控えめなノックの音で破られた。
「何だ?」
 入ってきたのは、執事のカラマンであった。もともとリュシアンに仕えていて、引き続いて公邸の雑事一切を取り仕切っている。彼は四十も半ばの非常に真面目な男であった。大分白髪が増えて後退してきた髪をぴったりと後ろへなでつけ、二つに分かれた口髭の先をぴんと跳ねさせているのが何だか面白かった。最初一介の傭兵として出会った時から、彼ほど片眼鏡が似合う男もそうそういない、とアルドゥインは密かに思っていた。
「ご来客でございます。只今応接室でお待ちいただいておりますが、いかがなさいますか。お仕事の途中でしたならば、そのように申し上げてお帰りいただきますか? それともお待たせいたしますか」
「いや、すぐ行くよ」
 アルドゥインは何の気なしにくるくると回していた羽ペンをペン立てに戻して立ち上がった。仕事といってもどうせ手に付かなかったので、人に会ったほうがまだしも生産的であった。
「で、誰が来たんだ。ロランド殿か、ベルトラン殿か?」
 カラマンの横について歩きながら、アルドゥインは尋ねた。だがカラマンは片眉を上げて彼を見て、首を振った。
「びっくりさせたいのでお教えするなとおっしゃられましたもので、申し上げるわけにはまいりません」
「カラマン、お前さあ……」
「何か?」
「いいや、何でもない」
 普通客人のそんな頼みをきくとは思われないが、カラマンは妙なところで律儀な男でもあった。階下の応接室の前で、カラマンが扉を叩いた。
「失礼いたします」
「お待たせいたしました……あ!」
 客人とカラマンの目論見はみごとに当たったようだった。そこで彼を待っていた相手に、アルドゥインはつい大声を上げてしまった。
「御無沙汰しておる、アルドゥイン殿。突然押しかけた無礼はお詫び申そう」
 その若く秀麗な外見におそろしく似合わない古臭い喋り方とともにディヴァンから立ち上がり、片頬に笑みを浮かべて右手を差し出したのは、誰あろう海軍大元帥サラキュール・ド・ラ・アルマンドその人であった。泡を食ってカラマンを振り返ると、彼もしてやったりと言いたげな笑みを浮かべていた。
「それでは失礼いたします、アルドゥイン様」
「ああ、いや、その……サラキュール殿には、息災であらせられたか?」
 サラキュールに何となくつられて変なしゃべり方になりながら、アルドゥインは握手を交わした。
「こちらは変わりない。アルドゥイン殿もお変わりなき様子、安心した」
「あ……はあ……」
 四月に会ったときと変わらずサラキュールは皮肉っぽいものごしで淡々としていた。アルドゥインの狼狽振りを見るに見かねたのか、サラキュールの後ろに控えていた従者が呟いた。主人と年はそう変わらない、濃い栗色の髪の青年である。
「サラキュール様、紅玉将軍閣下に失礼ではありませんか。驚かすのはお止しになった方がいいと申し上げたのに」
「そんな事は気にしておりませんよ。……驚きましたが」
 アルドゥインはやや硬い笑みを浮かべて返した。
「ほら見ろ。将軍殿はこんな事で怒るような狭量な方ではないわ。おぬしは口うるさいのが玉に瑕だ、ジークフリート」
 サラキュールが従者をちょっと振り返って言った。
「してアルマンド殿、今日はどのようなご用向きで? 貴殿がこのオルテアにいらっしゃるとは珍しいことですが」
「明後日のトーナメントに私も出席することになっておるのでな。用向きと言っても大したことは無い。同じ陛下の一軍を預かる身として、貴殿とはもう少しよく知り合いたいと思ったのだ。ヌファールの月に会ったときにはろくに話もしておらぬだろう」
(そんな理由でか)
 アルドゥインは内心呆れかけたが、しかし将軍どうしが友好を深めておこうと考えること自体は何もおかしいことではなかったし、理に適ったことであったので、確かに急な話ではあったがすぐに納得した。
「そのような事でわざわざ御足労くださったとはかたじけない。ご連絡くだされば俺からお訪ね申し上げたのに」
「そのような面倒は好かぬのでな」
 サラキュールは肩をすくめた。まだ彼にアーフェル水の一杯も出していないことに気付いて、アルドゥインは呼び鈴を鳴らした。すぐに女中が入ってきた。
「アルマンド殿、飲み物は何がよろしいかな」
「できれば茶を所望したいが、よろしいか?」
「レーナ、お茶を頼む。従者どのの分もな」
「かしこまりました」
 レーナは一礼して出ていった。
「私になど、お気遣いは無用ですのに」
「まあよいではないか、人の好意は受けておけ」
 恐縮するジークフリートに、サラキュールはのんびりと言った。こんなマイペースの主人に仕えている彼に、アルドゥインは他人事ながら同情した。それから自分が立ちっぱなしであったことに気付いて、膝くらいの高さのテーブルを挟んでサラキュールの正面に腰掛けた。
 何を話してよいのか判らないアルドゥインの代わりに、サラキュールが口を開いた。リュシアンの客として何度か訪れたこともあったのだろうが、この屋敷の主人が彼であるかのようなくつろぎぶりであった。
「貴殿、メビウスに来て何ヶ月になる?」
「去年のヤナスの月からですから……九ヶ月になります。でもすぐに遠征が入りましたから、実際には八ヶ月と少しといったところですか」
「メビウスの暮らしには慣れられたか」
「だいぶ勝手が飲み込めてきましたが、まだ時々戸惑うこともありますね」
「さもあろうな。まあ、北方の領地など与えられなくて貴殿には幸いだったな。メビウスの夏など、貴殿には夏とも思えぬだろう」
「そのようなこともございませんが――。アルマンド殿の御領地は北方でしたね」
「ああ。リナイスの月になっても暖炉に火を入れたくなるときなどある。私には何ということもないが」
 サラキュールはあっさりと言ったが、それも南方育ちのアルドゥインには信じがたい話であった。
「……」
「だが今は航海にはうってつけの時期だ」
 航海、と聞いてアルドゥインの目がにわかに輝いた。
「俺は北方の海をあまり知らぬのですが、北ミリア海にはどんな魚がいますか? 珊瑚は見られますか?」
「珊瑚? いや、あれは南方にしか育たぬのではないか」
「そうですか」
「では貴殿、狼魚というのはご存じか」
 海の話になると、急にサラキュールは同じように目を輝かせて身を乗り出してきた。
「残念ながら知りません。どういう魚ですか」
「浅瀬の海底の岩場に転がっておって、岩のような形をしている魚だ。それが名の由来なのだが、魚のくせに狼のような牙を持っておってな。これが凶暴なのだ。素潜りなどしていて知らずに近づくと噛まれる」
「そのような魚は沿海州にはおりませんね。アルマンド殿、噛まれたことがおありなのですか」
「子供の頃に一度。二度としたい体験ではないな」
「でしょうね。俺も……」
 そこへ、レーナが命じられた茶を持って入ってきたので、二人の会話はいったん途切れた。レーナは卓の上に二人のティーカップを置き、立ったままのジークフリートにはそのまま手渡した。
「それで、さっきの話を続けてもらえぬか」
 サラキュールが話を再開しようとしたのを、アルドゥインはちょっと遮って彼の肩越しにジークフリートを見やった。
「何だ?」
「失礼。話が長くなるようなら、よろしければ一室を空けるのでジークフリートどのにはそこでお待ちいただいてはどうかと」
「そうだな。どうやらアルドゥイン殿とは思ったよりも語ることが多そうだ。いや――待たせていても何だ。茶を飲んだら、先に帰っていてよいぞ、ジーク」
「ですがお帰りはどうなさいますので? リアザン様にお叱りを受けますよ」
「子供ではないのだ、一人で帰れる。お祖父様は私を子供扱いしすぎなのだ。私を幾つだと思っておる。もう二十五だぞ」
 サラキュールはとたんに気を悪くしたように渋面を作った。
「さようでございますか? どうなっても知りませんよ、サラキュール様」
「ああもう、よい、よい。何とでも報告しろ」
 サラキュールは投げやりに手を振った。またか、というようにジークフリートはため息をつき、一気に茶を飲み干してしまうとそれをテーブルに置いて、部屋を出ていった。祖父に叱られる云々ということをジークフリートが言ったのでアルドゥインは心配してそれを尋ねたのだが、サラキュールは面倒そうな顔をしただけだった。
「よいのだ。老人の説教など毎回内容は同じだ。右から左に聞き流しておればそのうち終わる」
 その台詞に、アルドゥインは思わず吹き出した。初対面も二度目の対面もあまり時間がなかったし多く言葉を交わすこともなかったのでどういう人間か判らなかったのだが、どうやら面白い男だというのは判りかけてきた。
「後の嫌なことは後で考えるとして、さっきの話の続きをしようではないか、アルドゥイン殿」
「何の話でしたか」
「貴殿の昔の話だったと思ったが」
「ああ、そうでした。俺は噛まれたのではないのですが、一度蟹にやられたことが」
「蟹?」
「オオイワガニというんですが、沿海州で多分一番大きい種類の蟹で、細い木の枝ぐらいなら折ってしまうほど鋏の力が強いんです。岩場で泳いでいたら、たまたま足を突いたところにいたようで、指を」
「それは痛かったろうな」
「折れたかと思うほどでしたよ、全く」
「貴殿は沿海州の出身だそうだが、そんなに海の近くに住んでおられたのか」
「家から十テルジンも行けば海でした。アルマンド殿は?」
「私の屋敷はヴァーレン港の近くだ。屋敷の裏に私有の砂浜がある」
「海はお好きで?」
「――アルドゥイン殿は?」
「アルマンド殿と答えは同じだと思いますよ」
 二人は今初めてお互いを認識したかのように顔を見合わせた。その瞳に、しだいに何か理解めいたものと、笑みが浮かんできた。
「我々は少々、出会うのが遅かったのかもしれないな」
「遅すぎるということはないでしょうが」
 この瞬間から、彼らの友情は始まったのかもしれなかった。


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