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                                *



 かくて人々はまたしてもカドリールの輪の中に戻り、再びいつものざわめきと宴ほがいの長い夜が戻ってきたかのように見えたのだったが、もちろん人々の心の方は、すぐに何事もなかったように落ち着くわけもなく、明日この事態がどうなるのかについて、ひっきりなしに誰もが興奮したように喋りつづけていた。
 これはまた、事あれかしのクラインの宮廷びとたちにとっては、またとない見世物の予告といってよかった。万人の認める宮廷第一の美男はサライであったけれども、宮廷第二の美男の座を争う――といっても実際に争うのはそれぞれをひいきする姫君たちであったが――美男子の貴族二人が、一方は妹を渡さぬため、一方は恋する姫を手に入れるために剣を交えるというのである。
 誰しもが、バーネットの弄したちょっとした言葉のからくりなど気にも留めずにそう思った。
 まさしくこれこそは絢爛たる宮廷絵巻のハイライトであった。バーネットびいきとシェレンびいきの若い姫君たちは、それぞれ群がっては、悲鳴を上げたり卒倒したりするのを大いに楽しんだ。
「ああ、どうしましょう!」
「何ということでしょう――なんて事になってしまったのでしょう!」
「ああっ、いや、いやっ。どちらにお怪我があったとしても、わたくし、とうてい耐えられないわ」
「ああ、バーネット様……」
「シェレン様が……」
「どうしたらいいのでしょう。もし万一にも、万が一にもあの方にもしものことがあったら……」
「イヤッ! そんなことになりでもしたら、わたくし、その場で身を投げてみあとを追って死にますっ!」
「わ――わたくしだって……」
「ああ、ああっ」
「バーネット様――」
「シェレンさま――」
 この劇的な――少なくとも彼女たちにとっては――展開は、宮廷のひらひらする蝶、咲き乱れる花のような彼女たちには、遠いどこかの国で起こっている戦争などより、ずっと天下の一大事であるように思われたので、彼女たちはもう二度と、興奮のあまり眠ることも食べることも――おそらく甘い菓子とちょっとした酒は別として――できないに違いない、となかば本気で信じた。
 そして、こんなに苦しくては、とうてい明日の朝まで生きていることもできないと騒ぎ立てて、付き添いの侍女たちや、意中の姫君を心配する青年貴族たちをおおいにうろたえさせていた。
 一方、この騒動の張本人たちはというと、バーネットとシェレンは、互いに半径三バール以内に近づかぬようにしてはいたけれども、何事もなかったかのように踊りの輪に戻っていた。
 そして、フレデグントはクレメントに付き添われて、これは早々に退出した。もっとも、その前に彼女は人々の注視をものともせず、バーネットに駆け寄ったのである。
「お兄様! お願い、もうこんな事はおよしになって下さい。みんな、ただの冗談だったのだと、明日になったらおっしゃってくださるでしょ? ね? そうですわね、お兄様――?」
「何を言うのかと思ったら、フレーデ」
 バーネットの方は、妹の取り乱しようとは対照的に朗らかで、ふだん熱血な彼がよくぞここまでと思われるほどの冷静さであった。何か変わったことがあったとすら思えぬほどだった。
「お前らしくもない事を言うね。俺は武将、武人だよ。武人が、いったん叩き付けた剣の鞘を収められるとでも思っているのか?」
「でも――でも私は、誰にも決闘などしないでくださいとお願いしたのよ。私が悪かったのならシェレン兄さまに謝ります。シェレン兄さまにもお願いして、どうしてでも取り下げていただきます。だから、だからお願い。決闘などやめて。お兄様! 私の、お兄様の小さなフレーデのために!」
「それはできない」
 バーネットの答えは取り付くしまもなかった。
「他のことなら何だって聞いてあげられる。でも、こればかりは。いいかい、フレーデ。お前一人だけでなく、ルデュラン一族が侮辱されたのだよ。それを許すことは、次期当主のつとめに反する」
「どうしてもなさるおつもりなの?」
「必ず、絶対」
「だってお兄様は――お兄様とシェレン兄様は、仲のよいお友達じゃないの! どうしてそれが、決闘などしなきゃならないの」
「彼は父上を侮辱し、俺とお前をウルピウスとヴェラだと言ったのだよ。いくら親友とはいえ、言ってはならぬことというものがある。そうして侮辱しておきながら、彼がお前を求める資格はない」
「おお――でも、でも……お兄様はクラインで一番と言ったっていい長剣の名手でいらっしゃるじゃない! シェレン兄様だって白竜隊の長官で――トーナメントで優勝したこともある方だわ」
「すごい見物になるだろうね。名勝負として決闘史上に残るかもしれない」
 他人事のように、バーネットは微笑んだ。が、フレデグントは青ざめた。
「でも――でも、そんな名手どうしなのですもの、血など流れるようなことにならなくても、勝負はつけられますわよね? どちらかが剣を落とすか、降参するまで――トーナメントの時のように。それで満足なさるわよね? それで充分に我が家の名誉は保たれますわよね?」
「生憎だが、お前がどんなに大切な妹だとしても、そればかりは譲れない。だいいち遺恨試合などになってはかえって禍根となるだろう。やはり一気にけりをつけてしまうべきだと思うね」
「け――けりって、どういうこと」
「だから、どちらかが死ぬまで、あるいはこれ以上は戦えぬ重傷を負うまで戦いはやめない、ということだ」
「やめて!」
 姫君たちの金切り声の中で、蒼白になったフレデグントは両手で耳を塞いだ。
「どうしてそんなことばかり言うの?」
「いったい、何をそんなに恐れているんだ、フレデグント」
 バーネットは言った。
「お前はどちらのためにそんな、かわいい目に涙まで浮かべているんだ? 俺のことなら心配要らないよ。俺は決して人間相手に引けは取らない。たとえ悪魔に傷つけられることはあるとしてもね。それとも、俺が気の毒なシェレンを殺すか大怪我を負わせることがそんなに恐ろしい? あんなにお前を傷つけて、泣かせたシェレンをそんなに想っているのなら、どうして最初からそう言わなかった? それとも彼を喪うかもれしれないと思って、にわかに愛に目覚めたとでも?」
「お兄様の、意地悪――!」
 フレデグントは泣くまいとして目を見開いた。
「どうしてお兄様まで、私に辛く当たるの。私が悪かったのなら謝りますと言っているじゃない。どうして、決闘なんかして私をさらに苦しめようというの? お兄様が私の兄なんかじゃなくて、私が男だったら、今こそ私が決闘を申し込んでいるわ」
「ぼ、僕でよろしければ、いつでも、代理人として――」
 慌ててクレメントが言ったが、フレデグントは激しくかぶりを振り、制しただけで取り合おうともしかった。
「辛く当たってなんかいやしない。俺はいつだってお前を守り、いつくしんでいるよ、フレーデ。それは誤解だ。――決闘の事だって、お前のためなんだ。それに、男同士の面目なんだ、わかっておくれ」
「判らないわ。お兄様のおっしゃることなんて、何一つ――」
 フレデグントは喘ぎ、突然、立っていられないほど疲労を感じてクレメントにもたれかかった。
「私、もう失礼します」
 かすかな声で彼女は言った。
「何だかとても――疲れてしまったわ」
「おやすみ、フレーデ」
 優しくバーネットは言った。
「俺とシェレンの決闘のことも、父上とアデリシア夫人のことも、何もかも忘れて、ゆっくりおやすみ。良い夢を」
「良い夢を、ですって?」
 フレデグントは疲れたように言い、そして茫然とした眼差しで兄を見上げた。
「ほんとうに、今日のお兄様は意地悪だわ。私が今晩聞いたことを忘れられようはずもないことも、一睡もできはしないことも、いちばん良くご存じでしょうに」
 そして彼女は、心配顔のクレメントに寄り添われて、ふらふらと半ば失神しかけたようにそこから出ていった。
 バーネットはそれを見送り、何とも言えぬ奇妙な表情を浮かべた。それは苦悶のようであり、また悲哀のようでもあり、冷笑のようでもある、単純明快な彼としては珍しいくらいに錯綜した表情であった。
「さあ」
 それから、ふいに全てを振り切るように、彼は言った。
「そんな心配顔をなさらないで。踊りましょう、ナジア」
 バーネットが庭園に出て行くまではずっと彼の傍らにいて、彼が決闘を申し込んだあたりからの展開を全て見届けてきたナジアは、不安そうな面持ちに精一杯の笑顔を浮かべて答えた。
「ええ――喜んで」
 また別の一隅では同じように、シェレンがフレデグントの退出を見守っていた。
「踊りましょう。踊っていただけませんか、オリアナ」
「まあ、光栄ですわ。喜んで」
「この曲は――《ディアナの娘》だ。黒髪と黒い瞳なら、まさにあなたにぴったりだが――伶人たちが変えてくれなかったら、後で私が一曲お聞かせしよう。さあ、オリアナ。お手を」
 シェレンとバーネットの二人がどんなに、今はそんな話をしたくないと思っていたところで、やはり人々の関心はすぐに彼らの決闘さわぎに戻ってきてしまうようだった。
「シェレン様、お怪我をなさったら嫌ですわ。シェレン様に何かあったら、わたくし、喉を突いて死にます」
「その柔らかな白鳥みたいな喉を? とんでもない。そんなことをなさったらアリスト伯とキュルス卿がどんなに嘆かれることか。私は二人のお恨みを負ってサライルの地獄に落とされてしまいます。――しかし大丈夫ですよ。私はとても強いのだから」
「それは存じていますけれど、でもバーネット様もすぐれた剣士ですもの。わたし、シェレン様が、そのお美しい顔に毛ひとすじほどのお怪我でもなさると考えただけでも、気が遠くなってしまうそうです」
 オリアナは軽く首を振った。もちろんそんな事を考えたからといって彼女が気を失うはずもないだろうし、姫君たちがそう言って自分で盛り上がって楽しんでいるだけだということはシェレンにもよく判っていた。
「大丈夫ですというのに、心配性なかたですね。私がバーネットに一歩でもひけをとるとお考えなのですか? だとしたらひどいな」
「そんなことじゃございませんわ」
 たちまち困って、オリアナは言った。
「バーネットがたしかに良い剣士であることは認めますけれどもね、私は負けませんよ。負けるなどと思うと負けてしまいます。オリアナ、あなたには私が勝つものと信じていていただきたいな」
 シェレンは音楽に合わせてあざやかに回りながら、薔薇色のオリアナの耳にそっとささやいた。
「ほら、言うでしょう。言葉には魂があると。めったなことを、その愛らしい唇から言ってほしくないな。もし今度そんなことをおっしゃったら、私はその意地悪な唇を塞いでしまいますからね」
「え……ええ……」
 切れ長のシェレンの目が、どこか妖艶な光を帯びて彼女を見つめ、キュルス卿と婚約しているのに実のところシェレンに夢中なオリアナの顔を真っ赤にさせた。シェレンは自分に言い聞かせるように、強く囁いた。
「私は負けませんよ。バーネットなどには。あれがこの決闘を、ああいうふうに言うのであれば、決して」


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