この恋のゆくえ
     マリニアの花で占うの
     好き きらい 好き きらい
     あのひとは誰を好きなのか
     あのひとのまことの心を
     わたしだけに教えておくれ
           ――恋占いの歌




     第一楽章 ロマンス




 色とりどりの花が咲き乱れている、見事な庭園に、遠く若い娘たちのにぎやかな笑い声が響いていた。
 ロザリア、マリニア、マノリア、エウリア、レアリア、セラミス……青、赤、ピンク、白、黄、さまざまに鮮やかな色合いが入り乱れるそのさまは、さながらこの世の楽園を思わせる。――中原の宝石カーティスの、ローレイン伯爵邸は今年に入ってからひときわ華やいだ雰囲気がこぼれている。
 侍女たちは花の手入れか花を摘んで邸内に生けようと集まっているのか、それともよもやま話に興じてついついたしなみも忘れているのか。あるじのローレイン伯爵はともかくも、その息子も娘もまだ若いので、集められている侍女たちもみな若い。
 若い娘ばかりが集まる一画にはつきものの、あの何とはなしにはなやいで、大しておかしくもないことにすらたえず鈴の音をまきちらすように笑い転げる賑やかさがこぼれているのだ。
「にぎやかなことだ。侍女たちは何があんなに楽しいのでしょう。――朝から晩まで笑ってばかりで」
 が――
 疲れたように――年齢にも、またそのもって生まれた外見にもかなりそぐわない物憂げな声でそう呟いて、身を預けていたディヴァンから身を起こしたこの屋敷の若いあるじは、とうていそのような華やいだ気分ではないと見えた。
 日に当たれば鮮やかに赤く、また影になれば黒みがかる真紅の薔薇のような髪、かぎりなく濃いゆえに黒くさえ見える赤い瞳。ほっそりと秀麗な面差しは女性的というわけではなく、生粋の武人らしい精悍なそれである。
 それらのすべてを、彼の向かい側に腰掛けていた年若い貴婦人はうっとりとした眼差しで見上げた。こちらはいかにも若い、見るからに品のよい、育ちも頭も気立てもよさそうなクライン人の美女で、すべすべした薔薇色の頬と可愛らしいあどけない顔立ちのおかげで、実際の年よりも三つか四つは若く見えた。
 もっとも当人はそれを気にしていて、本当はこの憧れの君に似つかわしい、もっと落ち着いた大人の女性に見えるように化粧もドレスも落ちついたものを選ぶなどして努力していたのだった。
「私は実際の年よりも本当は年なんじゃないかと時々思いますよ。あの者たちの絶え間ない明るさと若さと生命力が、ときおりどうにも耐えられなくなってしまう。ああ――すみません、サビナ・ナジア。あなたにこんな老人の繰り言のようなことを聞かせるつもりはなかったのですけれども――どうも、いけませんね」
「そんなことをおっしゃらないで、バーネット様」
 サビナ・ナジアはしとやかに抗議した。レウカディアが寄せているほのかな思いが顕在化する前に断ち切るためにも、自分が身を固めなければならないという決意を固めたバーネットが相手に選んだのは、ファウビス法務大臣の二十三歳になる令嬢だった。
 地位も年も彼と似合いのこの姫君は、付き合ってみればなかなか性格もよければ彼好みであったので、バーネットはほとんど初めての女性との付き合いをけっこう楽しんでいたのだった。
 二人は、今日はローレイン伯爵邸の庭園を眺められる一室で、午後の茶を二人きりで楽しんでいた。
「そんなに若く、お美しいのに、ご自分をおとしめるようなことをおっしゃらないでください。悲しくなってしまいますわ。それとも、バーネット様は若い娘はお嫌い?――わたくしとお話なさるのもお嫌なのかしら?」
「まさか」
 バーネットは微笑んだ。もう半年もやっていれば、どんなに苦手だろうが嫌いだろうが愛想笑いの一つもできればご機嫌取りだってできるようになっていた。とはいえナジア姫に対しては無理して愛想笑いをするまでもなかったのだが。
「私は――あなたとお話しするのはとても好きですよ、ナジア。あなたは私のつまらない話も喜んで聞いてくださる稀有な女性だ」
「つまらないなんて」
 ナジアは頬をさらに赤く染めた。
「とても興味深いお話だと、いつも思っておりますのよ。だってわたくしは女の身。何かをしてさしあげたくても剣を取ってあなたの隣で戦うことなどできません。できることは、あなたがお話しなさりたいことを聞くことだけですもの」
「ナジア、あなたは本当に、すばらしい貴婦人ですね。妹があなたの半分もしとやかでおとなしやかであれば、私もずいぶんと肩の荷が下りて、こんな千歳の老人のような心持を味わわなくても済むのですが……」
 バーネットはこの可愛らしい姫君に微笑みかけた。
「世の中はそうもいかないものですね」
「あら。フレデグントさまには、フレデグントさまの良いところがおありですわ。とても可愛らしい、活発なかたで――わたくしはとても好きですのよ」
 ナジアはにっこりとした。カーティスに残ると駄々をこねたフレデグントのおかげで、バーネットが舞踏会に出てくる回数がぐっと増えたというので、バーネットにそれこそ身も世もなく熱を上げている貴婦人たちには、彼女はとても人気があったのである。
「では、あなたのお言葉を妹に伝えておきましょう。それで図に乗らなければいいのですけれども――!」
 その時、ヌファールの刻を告げる鐘の音が聞こえてきた。
「もうこんな時間か。全く、楽しいときほど早く過ぎるというのは本当ですね。門までお送り致しましょう」
 バーネットは自分から席を立ってナジアの手をとった。彼女が乗ってきた馬車はすでにその前から帰り支度を整えて車寄せで待っていた。ドレスの裾を優雅につまみ、彼女は馬車に乗り込んだ。
「ルクリーシスの刻に、お屋敷までお迎えに上がります。よろしいでしょうか?」
「それまで、今夜の仮面を選びながらお待ちしておりますわ」
 ナジアは微笑んで頷いた。
「でも、もしお仕事が入るようでしたら、そちらを優先なさって、わたくしとの約束はお忘れになってください。市民たちの安全の方が大切ですもの。わたくしは屋敷の礼拝室に閉じこもって、あなたのご無事をお祈りいたします」
「そんなことにはならぬよう、私も祈りますよ。では――のちほど」
 御者の手で扉が閉められ、馬車は動き出して門を出ていった。完全に出てゆくまで見送ってから、バーネットは邸内に戻った。その邸内では、彼の妹が、兄がさきほどまで過ごしていたのと同じようなひとときを過ごしていたのであった。
「今の――馬車の音は何でしょう?」
 やや長めの、耳にかかるくらいの黒髪と黒い瞳を持つ少年――青年というにもまだ若すぎた――が、ふと玄関の方に耳を澄ませた。ひげもまだそれほど生えておらぬような、初々しい少年である。
「兄様のお客様がお帰りになったのではないかしら」
 読み上げていた美しい絵入りの本から少し顔を上げて、フレデグントは言った。
 彼女がナーエに帰らず、カーティスにとどまってすでに七ヶ月が過ぎている。兄のバーネットがお目付け役としてついてくる――というよりはフレデグントの元気のよさに引きずり回されていたが――ので、彼女に近づいてくる貴公子たちはあまり多くなかったが、それでも彼女には取り巻きができていた。
 彼らは、妹に近づく男はみな敵とでもいうようなバーネットの目も恐れずフレデグントと言葉を交わすため、あるいはダンスを申し込むために近づくという点においては非常な勇者たちであったので、それだけは評価しなくてはならなかっただろう。
 バーネットからすれば兄の欲目も多分にあっただろうが、フレデグントはじっさい、たくさんの貴公子たちに囲まれて、ちやほやされるのも当然と思われるくらいの容姿を持った美少女だった。
 目は大きくぱっちりとしていて、細く高い鼻梁を持ち、唇は優しくふっくらとし、紅もささないのに愛らしい薔薇色をしていた。顔立ちはバーネットと共通してきりりとしていたが、それもただ愛らしいだけの娘ではない特別さとして彼女を引き立てていた。クラインの骨細とはまた違った、ティフィリス系のすらりとした体つきをしていた。十八歳の肌は、今まさに花開いたばかりにみずみずしくつややかだった。
 髪と瞳の色は兄とは逆の遺伝をしていて、その髪は赤みが薄く、光を受けると磨いた年代物の銅のような色に輝く。また瞳は逆に赤が濃くて、まるで紅玉がきらめいているかのようだった。
 彼女の崇拝者の筆頭は、いま彼女の隣に座っているバージェス伯爵の子息クレメント・ファリア子爵であると見なされていたが、その彼もフレデグントの中で特権的な位置を占めているわけではないということを、彼自身もよく承知していた。
 フレデグントはどの崇拝者たちにもきわめて親切であったし、みなに均等な好意を振り向けていたが、それはそこまでで、彼らの中で一人だけが特別な好意を受けるだとか、そういうことは決してなかったのである。その意味で彼女はすでに立派な一人の貴婦人の振る舞いを身につけていたというべきだし、《宮廷一の伊達男》の名を冠されるワルターの娘であった。
 しかしそれが厭味に受け止められたり、八方美人に思われたりせぬのは、ひとえに彼女のそれらの行動は純粋で無邪気なものであり、周りにもそのことがはっきりと判っていたからだった。
 要するに――これはごく親しい者でなければ知らなかっただろうが、彼女にとって一番だったのはバーネットで、それ以外の者たちは二の次だったので、誰が誰で何であろうとあまり関係がなかったのである。
「今夜は、あの仮面舞踏会にいらっしゃるのでしょう、僕と?」
 心細げにクレメントは尋ねた。彼の父親はバージェス州を治める伯爵で彼も子爵であるので、バーネットとほぼ似たような地位にある。フレデグントと同い年の十八歳で、年も似合いであったし、これが一番の関心ごとであったが、フレデグントとクレメントが並ぶと、とても愛らしい一組だったので、宮廷の人々はこの二人が公認の恋人となるのも時間の問題ではないか、と考えていた。
「お約束ですよ」
「むろん違えはいたしませんわ。夕方になったとき、私に出かける気力があれば――ですけれど」
 フレデグントはうっすらと笑った。
「なかったら、キタラでも伶人に弾かせて、静かに過ごしましょう」
「ええ、僕はどちらでもかまいません。あなたとご一緒の夜ならば」
 情熱的にクレメントは言った。それから、そろそろ潮時と考えて立ち上がり、貴婦人に対する別れの挨拶としてフレデグントの手をとって優雅にそっと口づけた。
「それでは、その時までしばしのお別れです」
「お待ちしておりますわ、クレメントさま」
 フレデグントもたちあがって軽く礼をした。侍女が先に立ってクレメントを玄関まで送っていったので、彼女はそのまま部屋に残った。しばらくすると、別の足音が入ってきた。それが侍女のものではないのは、音で判った。
「あら、お兄様」
 フレデグントはぱっと顔を輝かせた。その表情を自分に向けてほしい、と胸を焦がす青年貴族たちがどれほどいるかなど、彼女は知らない。同じように、バーネットが妹に向ける優しい微笑みを私にも、と胸焦がす姫君たちもまた多かったが。
「メルム、お兄様にアーフェル水をさしあげて」
 侍女に命じてから、ちょっぴり拗ねた調子で彼女は言った。
「お兄様は、今夜の舞踏会はナジア姫と行かれるの?」
「ああ」
「私、あの方きらいよ。だって兄様を独り占めなさって、私にクレメントさまのエスコートを受けさせるのだもの」
「馬鹿を言うんじゃないよ、フレーデ。クレメントの何が悪い? いい子じゃないか。まして相手がいないわけでもないのに兄がエスコートするなんて、年頃の娘としては恥ずかしいことなんだぞ」
「恥ずかしくなんかないわ。だってお兄様だもの」
 フレデグントも負けてはいなかった。しかしこれ以上何を言い返しても、すでにお互い今夜のパートナーが決定してしまっているので、水掛け論だった。ナジアをパートナーにするようになってからフレデグントはいつもこんな調子だったので、バーネットもあまり本気で相手にしていなかった。
「ところで、父上も出席なさるのでしょ。どなたと行かれるのか兄様はご存じ?」
「アデリシア夫人だ」
 バーネットは即答した。
「じゃあシェレン兄様はお一人で行かれるのかしら」
「ああ。それか、サビナ・オリアナとじゃないかな」
「パーティーって、面倒なこともあるわ。そんなに好きでもない方とでも、とにかく誰かと一緒に行かなきゃならないなんて」
 ぽつりとフレデグントは呟いた。

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