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 そして時は過ぎ――いまは晩夏、ルクリーシスの月。風は日ごとに涼しさを増し、陽射しはやわらいでゆく。クラインは春についでもっとも美しい実りの季節を迎えようとしていた。
 遊び好きなクラインの風流貴公子たちもそろそろ寝静まるころ。たった一つだけ、まだ明かりの灯されている宮殿があった。それは美しいカーティス市内の壮麗な宮殿群の中でもまた、いちだんと高雅に、清麗なたたずまいを見せている、レンティアの小宮殿であった。
 レンティアはかつては皇帝の夏の住まいとして用いられていたが、その用を終えた今はクラインの摂政公、カーティス公サライ・カリフの宮殿である。
 クライン宮廷きっての趣味のよさと優雅さでならす、カーティス公の館にふさわしく、その宮殿はいたずらに広大ではなかったが、季節の花々、セラミス、エウリア、ロザリアなどが常に咲き乱れ、こんこんと清水の湧き出る白亜の噴水や、小さな瀟洒なあずまやをそなえたすばらしい庭園に囲まれて外からへだてられ、あたかも神々の住まう別天地の趣を持っているのであった。
「まだ、お仕事をなさっているのですか、サライ様?」
 咎めるような、呆れたような声が後ろからかかった。サライは机から顔を上げ、その相手を振り返った。ゆったりとした白い夜着が、そのほっそりとした体に幾重ものひだを作ってまつわりついている。
「アト、私に付き合って起きていなくてもいいよ。もう遅いのだから寝なさい」
「その言葉、そっくりそのままお返しいたしますわ。今何刻だと思っていらっしゃるんですか。もうネプティアの刻ですわよ」
「そんなに怒らなくたって」
 アトはサライの言葉を遮るようにして言った。
「サライ様は絶対に私が起きるともう起きていて、寝るときまで起きていらっしゃるんですもの。いつ眠っていらっしゃるんですか?」
「いつでも、気が向いたときにね」
「それがお体によろしくないんです」
 彼女も、サライが言うようにべつだん彼に付き合って起きていなくたっていいのだが、どうもサライの世話を焼くことに彼女はおのれの使命を感じているようであった。サライは面白そうに言った。
「まるで母親だな。こんなに若くてかわいい母親なら大歓迎だけれど」
「それなら枕元で子守唄を歌ってさしあげますわ。――アーフェル水をいただきます?」
「いや、それはいいよ。もう寝るからね。ただ……」
「どう――なさいましたの?」
 かすかなため息のような声が漏れるのを聞きとがめて、アトは言った。サライは無言で首を振った。美しい金糸のような髪がさらりと揺れた。
「少し、考え事をね」
「何をですか」
「君の予言のことだよ。それに、アインデッドのこと」
「まあ」
 アトはわざとではなくびっくりした声を上げた。
「クライン宮廷じゅうの女性が、ヴェンド公のご息女に代われるならば、それでなくともあなたに一声かけられるなら、少しでもその心を占めることができるのならば早晩死んでもいい、と胸を焦がしているというのに、そう当人が思っているのは男性ですか? 私だからいいものの、他の貴婦人がたにそんなことを聞かれたら、サライ様は殺されてしまいますわよ」
「人聞きの悪い」
 サライはくすくすと笑った。
「私にそんなに惚れ込んでくださる方がどこにいるって?」
 アトはちょっと肩をいからせてみせた。
「とぼけるのなら教えてさしあげます。ベルティア公のご息女アデリーンさま、サビナ・レベカ、それにシサリー将軍のご息女アルディーナさま、まだまだそれこそきりもなくおられます。皆、あなたがたった一人の男の方みたいに思ってらっしゃいますわ。それでなくとも今の言葉を姫君たちに聞かれてしまったら、サライ様は毒を盛られて、その姫君も首を吊ってしまわれるでしょうね」
「せいぜい口に気をつけるよ。私はまだ死にたくないからね」
 サライは苦笑をもらした。
「だがアトも気をつけるのだね。私が考えていたのは、君の予言に関してだから」
「……」
 アトは困ったような顔をした。今まで三回ほど神がかりになり、予言をしたと周りから教えられていたが、彼女自身にはそんな記憶はなかったし、レウカディアの戴冠式の折りにした予言をはじめ、どれも何かしら不吉な響きを帯びたものであったので、アトはとても気にしていたのである。
「どの予言です? それとも明日の天気が気になられますの? ご心配なく。明日は晴れますわ。夕方のリナイスの刻から少し曇りますけれど」
「君が天気までも当てられるようになったのは知っているよ」
 機嫌を悪くしたように言ったアトに、サライは笑いかけた。
「でもそれじゃなくて、二ヶ月前にした予言だ」
「災いが目覚めるという……?」
「そう」
 サライは頷いた。
「私は君のした予言はすべて覚えているよ。君自身ももう知っていると思うけれど、あの時君はアインデッドの事を聞いて、こう言ったんだ。『災いが目覚めようとしている。闇から黒い死の翼がやってくる。止められるのは東の狼だけなのに、かれは不吉な影に囚われてしまった。かれを救えるのは北の獅子だけ。翼の訪れは迫っているけれども、獅子の牙はまだ翼に届かない』」
「ええ……」
 アトはあいまいに頷いた。
「むろん、災いとは何なのか、闇から来るという黒い死の翼が何のことなのか、いろいろと疑問はある。だが私がいちばん気になるのは、《東の狼》と《北の獅子》が何を示しているのかということだ」
「私は、覚えておりませんので」
 すまなそうにアトは言ったが、彼女が予言のことを何も覚えていないのはもうサライも承知のことであったので、咎めようとはしなかった。
「この二ヶ月、そのことをずっと考えていたのだけれども、予言をしたのは君だ。だからこのカーティスを中心にして考えれば、東の方角にはゼーア、北にはメビウスがある。だから《東の狼》はゼーアにいる誰かのこと、《北の獅子》もメビウスの誰かのことだと考えるのが自然だ。メビウスの紋章は獅子だしね」
「そう……ですわね」
 北がメビウスであることぐらいは知っていたが、地理にはあまり詳しくないアトは、とりあえず頷いた。
「それで、その狼と獅子が誰であるのか、お判りになられましたの?」
「私はヤナスではないし、すべてを知っているのでもないから、予言の謎解きをするにしても、まったくの憶測に過ぎないけれどもね」
 サライは言った。
「君はアインデッドの消息を聞いているときにこの予言をした。だから、きっとアインデッドに関すること――もっと言えば、東の狼というのはアインデッドのことなんだと思う。彼はサナリア、クラインの東にいるし、私が蝶の年の生まれだから、一つ年上のアインデッドが生まれたのは狼の年。彼が東の狼だとすればこれは辻褄が合う」
「では、アインデッドさんが盗賊になったことを言っていたんでしょうか」
「いや、それは違うと思う」
 サライは軽く首を振った。
「君が言ったのは、災いが来るのにそれを止められるものがそれをできなくなったということだ。つまり、いちばん重要なことは、目覚めようとしている災いと、それを運んでくるもののことだろう。闇からやってくる死の翼という――」
「それが何なのか判ればいいのですけれど」
 思い通りにはならぬ力、神々の召使として、力に使われている身を心底から残念がる様子でアトは呟いた。
「とにかく――サライ様の考えでは《東の狼》はアインデッドさんのことですのね。では《北の獅子》は誰です?」
「イェライン帝はメビウス皇帝に冠せられる称号として《メビウスの獅子》と呼ばれているけれども、アインデッドとは面識もないし、これから関わるとも思えない。だから、アインデッドに関係があり、メビウス人かそれともメビウスにいる誰かのことだ」
「それは……もしかして……」
「アルドゥイン」
 アトの呟きの中に隠されていた答えを肯定して、サライはきっぱりと言った。
「彼は私たち四人の中でただ一人メビウスに残ったし、いまや紅玉将軍として一万の軍をあずかる立場だ。仮に中原に何かことが起これば、彼が出てくる可能性が高い。それにアインデッドが狼の年の生まれだから、彼は獅子の年の生まれだ」
「では、アインデッドさんが何かの悪いことに巻き込まれて、それをアルドゥインさんが助けるというのでしょうか……」
「それは判らないけれども、とにかくこれから中原に何かの災いが起こり、それに《東の狼》と《北の獅子》――アインデッドとアルドゥインの二人が大きく関わってくるだろうことは間違いないと思う」
 もの思わしげにサライは目を伏せた。
「その災いはきっとクラインに起こるのだろう。……私が原因になるような、そんな気がする」
「サライ様……」
 アトは困ったような声を出した。だがサライはすぐにかぶりを振って、自らの思いを打ち捨てるようであった。
「――長い話になってしまってすまないね。この話は忘れてくれていい。私ももう、レウカディーンに魂を預けることにする」
「はい。あなたの夢が安からんことを」
 アトはただちに部屋を出ていった。それから、半テルあまり。公の寝室にはすでにレースのカーテンが引かれて、常夜灯の薄暗い明かりの中で彼の愛するマグノリアの香煙ばかりが揺らめいている。
「アイン……」
 暗闇の中でサライは呟いた。
 今まで幾度となく、国境警備隊に捕らわれ、無残に処刑される彼の夢を見て飛び起きたことだろう。もと傭兵の、赤い盗賊の首領――それが今のアインデッドの全てだ。だが彼の体に流れる血はその全てを裏切る。
(クレシェンツィア皇女がジャニュアのアイミール王家に嫁ぎ、そしてナカル陛下の従姉のリューン・アイミールが生まれ、失踪して――そして沿海州に流れ着き、アインデッドを産んだ。もし――)
(アレクサンデル四世帝がたたず、姉のクレシェンツィア皇女がたっていたら)
 その考えも、いくどとなく繰り返してきた。
(きっとアインデッドはいなかった――)
 サライは両腕で肩を抱いた。
(そして私も国外追放になることもなく、アインデッドに出逢うことはなかった)
(今の時点ではアインデッドはただのティフィリス出身の傭兵、赤い盗賊の首領――お尋ね者に過ぎない。……でも、彼は――クラインの皇族。そしてジャニュアの王族……)
 自分が特別な地位に生まれたものではないと信じるがゆえに、王となる予言を無邪気に信じて、王位を求めてやまなかったアインデッド。だが自分こそが、どこの王族と並べてもひけをとらない青い血を引く高貴の者だと知ったら。それは彼にどのような衝撃、あるいは絶望をもたらすのだろう。
 サライはそんなことを考えたくなかった。
(それとも……)
 それは最も考えたくないことであったにしろ。
 アインデッドがその事実に衝撃を受けることもなく、その血統を利用してどこかの王位につこうと目論むのなら。
(アインデッドは当然、母親が持っていたジャニュアの第二王位継承権をその死亡によって受け継ぎ、現在ルクリーシア姫しか持たないクラインの帝位請求権を持つただ一人の皇子ということになる)
 そうなれば、クラインもジャニュアも、最高王位継承権を持つものは女子である。現在女王がたち、王位継承権法でも女王が認められているジャニュアならばともかく、全く傍系がなく、皇子がいなかったためにやむなく女帝のたったクラインでは、アインデッドはルクリーシアの次の、第二帝位請求権者となる。それにまた、彼の中には、クライン皇家から入ったメビウス皇家の血、さらにはゼーア皇家の血が流れている。
 もしも彼がいずれかの帝位、王位を請求するとなれば、それこそ大きな災い――中原全体を巻き込む戦渦となるだろう。
 祈らずにはいられなかった。
(君の行く末の――)
 サライは目を閉じた。
(安からんことを)
 その祈りは、呟かれることなくカーティスの夜にとけていった。


「Chronicle Rhapsody16 風の行方」 完


楽曲解説
「盗賊の歌」……スペイン・カタロニア地方の民謡。
「ヴォランタリー」……ラテン語で「任意の」の意。定旋律に基づかない。

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