前へ  次へ


                                 *



 サライが驚いた声を上げるのを、フェンドリックは初めて目撃した。しかし珍しいものを見た、などと感慨に耽っていられるようなシチュエーションではないようだった。サライは声を上げてしまってから、ふっと沈んだ表情になった。何か、思い出すのも嫌なのか、辛い記憶をその一言によって思い出してしまったかのような表情の変化だった。
 同時にアトも声を上げていたのだが、サライの声にかぶさっていたのであまり目立たなかった。それでも彼女も驚いたのがフェンドリックには判ったので、何だか自分が悪いことを言ったような気分にさせられた。
 サライは念を押した。
「本当に、アインデッドと?」
「聞いた時点で間違っていたなら仕方がありませんが……ともあれそのように聞いております」
「ああ……そうだろうね……」
 戸惑いながら彼は答えた。サライは我知らず、口許を覆った指先を噛んでいた。
「サナリアのアインデッド、か……」
 この半年近く、思い出すまいと努めていた名前であり、やっとあの辛い記憶を克服しかけた矢先の報告だった。サライの耳に、最後に投げつけられた彼の言葉が今この耳元で囁かれたように蘇り、その生々しい記憶に目を閉じた。
 双ヶ丘に降りしきる粉雪。
 瞋恚に燃える、傷ついた緑の瞳。
(これ以上俺を惨めな気分にさせるな。何で判らねえんだ? お前がこの俺を捨てた、それだけで俺には充分なんだ)
 そして青ざめた唇から放たれた訣別の言葉。
(たとえ王になったとしても俺はこの日の事を忘れはせんだろうよ。お前がこのティフィリスのアインデッドの友情を、信頼を裏切ったんだって事を。俺がクラインを滅ぼすその日に、その代償の高さを知るんだな)
(私は彼を捨てて、一度捨てたはずのこの国をとった……)
「サライ様」
 訝るようなフェンドリックの声に、サライははっとした。
「たしかに珍しい名ではありますが、アインデッドという名の男が、世界にたった一人しかいないというわけではございませんし……もしかしたら他の名と聞き間違えたのかもしれません。それにクライン人を助けたという報せですし……」
 フェンドリックにも、どうして二人がそんなに驚いたのかやっと得心がいっていた。クラインを離れていたあいだ、旅を共にしていた二人の傭兵の名を、彼も聞かされていたので。労るような彼の言葉に、サライは微笑もうとした。
「気を使わせて、すまないね。でも、いいんだ……。赤い髪と緑の瞳を持つアインデッドは、たぶん、私の知っている彼一人しかいないだろう……」
「……」
 何と言ったらよいのか判らなくて、フェンドリックは俯いた。サライはまた頬に落ちかかってきていた髪をかきあげて、小さなため息をついた。報告をくれたのが、アインデッドとサライのいきさつを知っているフェンドリックでよかった、とかすかな安堵を感じていた。そうでなければ動揺を隠す手立てがなかった。
「赤布党の首領はアインデッド……それと、クライン出身の男、か。そちらの名前は判らないの?」
「たしか、モリダニアのルカディウスとか」
 元の調子を取り戻そうとして、サライは質問を続けた。
「モリダニア……ということはハデリ州か。赤布党が現れだしたのはユーリースの月からだから……ということはあれからすぐオルテアを出たとしても、ハデリに行っている時間はないはず……」
 ぽつりと独り言のように呟いた。
「どこでそんな男と知り合ったんだろう」
「いけないわ」
 突然、それまで黙っていたアトが口を開いた。サライとフェンドリックはその声につられて、彼女に視線を向けた。
「どうした、アト」
 フェンドリックは声をかけて、彼女の肩に手を触れようとして思い止まった。アトは彼の方を見ていたが、その実何も見てはいなかった。彼女の濃い藍色の瞳はフェンドリックを通り越してどこか遠い所を見つめていた。同じような彼女の表情、様子をどこかで見たことがあったような気がして、フェンドリックは戸惑った。そして、それがいつのことであったのかはすぐに思い出された。
(戴冠式の――!)
 あまりにも記憶にありありと焼きついている、あの不吉な予言。フェンドリックがアトの予言に立ち会うのはこれが二度目だった。サライが立ち上がりかけた。
「災いが目覚めようとしている。闇から黒い死の翼がやってくる」
 熱に浮かされた人のうわ言のように――しかし普段の彼女からは想像もできぬほどそのおもては厳しく、荘厳な口調でアトの唇から言葉が紡がれだした。それが今再び目にする彼女の予言だと気付いて、サライは口をつぐんだ。フェンドリックが眉をひそめ、問い返した。
「災い――?」
 だが彼の言葉をアトは聞いていなかった。耳には入っていたが、神がかりとなった状態では知覚していなかったのだろう。
「ああ、私の大切な人たちが、翼に連れ去られてしまう、影に呑まれてしまう! 止められるのは東の狼だけなのに、かれは不吉な影に囚われてしまった」
 眼前に、彼女だけに見える不吉な情景が広がっていたのか、見まいとするように眼をしっかりと閉じ、アトは両手で頭を抱え、駄々をこねる子供のように髪を振り乱して激しくかぶりをふった。
 まるで痙攣を起こしたように激しく震えるアトの体を、フェンドリックが押さえつけるように抱えた。そうしなければ彼女自身がものにぶつかって怪我をするおそれもあったからだ。
「教えてくれ、アト!」
 サライは椅子を倒しかねない勢いで彼女に駆け寄り、フェンドリックから奪い取るような形で彼女の肩を掴んでこちらを向かせた。未だ虚空を見据えたまま、まばたき一つせぬアトの目をサライは正面から見つめた。いつも冷静な彼からは考えられぬほど乱暴な動作に、フェンドリックは目を丸くした。
「サライ様――」
「それは誰なんだ、不吉な影とは? アト!」
 サライは激しく叫ぶように尋ねた。
 しかしアトは虚ろに呟くばかりだった。
「かれを救えるのは北の獅子だけ。翼の訪れは迫っているけれども、獅子の牙はまだ翼に届かない」
「北の獅子……?」
「早く……かれを……」
 その瞬間、全ての力を失ったアトの体がくずおれた。力を緩めていたサライの手から、脱ぎ捨てられた衣のようにすり抜けた体を、フェンドリックが受け止めた。深い昏睡に陥っているその顔は、いつもの彼女のあどけない表情に戻っている。突然訪れたアトの神がかりに、サライは呆然とその場に立ち尽くしていた。
「サライ様、いかがいたしましょうか」
 躊躇いがちにかけられた声に、サライはすぐに落ち着きを取り戻して答えた。
「アトを連れて行って、休ませてあげてくれ」
「はい」
 フェンドリックは静かに頷き、アトを抱え上げて執務室を出て行った。一人残されて、サライは先程の予言を呟き、繰り返した。
「災いが目覚めようとしている……闇から黒い死の翼がやってくる。止められるのは東の狼だけなのに、かれは不吉な影に囚われてしまった。かれを救えるのは北の獅子だけ。翼の訪れは迫っているけれども、獅子の牙はまだ翼に届かない……」
(東の狼と、北の獅子)
(アインデッドと、何か関係が……?)
 窓辺につと歩み寄り、サライはガラスに手を当てた。そうしてみたところで、彼がいるであろうサナリアの森が見えるわけでもなかった。窓を開けても、えんえんと続く石造りの街が広がっているばかりだ。
「アインデッド……」
 彼は呟いた。
 その名を呟くだけで、様々な思いが胸をよぎる。
 十二年間かたときも忘れたことのない、家族を、隣人たちを殺してしまったという思い出。それと同じくらい、アインデッドと共にゆくことができなかった事実はサライの胸に重くのしかかっていた。
(行方を心配していたけれども、こんな形でなど聞きたくなかった。まさか赤い盗賊の首領になっていたなんて)
 自分の知らぬところで彼が命を落とすのも耐えがたかったが、国境警備隊に追われ、街道警備隊に追われる身になっているのだなどと、知りたくはなかった。むしろそちらのほうがずっとサライには考えるのが辛かった。
(アインデッドが何の目的もなく盗賊に身を落とすなんて考えられない。きっと、何かの目的があるんだろう。私と共にと言ってくれたのだって、王となるための力になってほしいからと、そう言っていたのだから)
(だが、何のために盗賊を……私を、殺すためだろうか?)
 たかだか七百人程度の盗賊を鍛え上げたところで、どんなに武器を揃えたとしてもその程度の人数でカーティスを落とせるとは、いくらサライでも考えてはいなかったが、それくらいの理由しか考えられなかった。
 サライはアインデッドの、あの時として恐ろしいほどに冷徹な、鋭い緑の瞳を心に思い浮かべた。あの瞳でアインデッドはサライを見るだろう。友人としてではなく、ただ殺すべき相手として、一片の同情すら浮かべず。
 そしてサライは彼に、素直に首を差し伸べるだろう。アインデッドが殺しに来たなら、きっとそうするだろうとサライには判っていた。
 それは何度も思い、そうなればと思ってきた光景だった。
 だが、いつその光景を思い浮かべてみても、不思議と心は静かだった。
 アインデッドがサライを殺すことで怒りを鎮められるというのなら、いくらでも殺されてよかった。
(当然だ。そうされたって仕方のない裏切りを、私はしたんだから)
 彼に殺されることが、十二年前に犯した罪の償いになるような気がしていた。ある意味でサライは、償いの死をもたらしてくれる相手を待ち望んでいた。かつて顔のなかったその相手は、今はアインデッドだった。
 その日の、後の仕事はほとんど上の空だった。あまりにも彼が心此処にあらずといったふうであったので、ディアス秘書長官が心配して、早く公邸に帰って休んだほうがいいと勧めたくらいだった。

前へ  次へ
inserted by FC2 system