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     ――あの方の心はここにはなく
     あの方の目はどこか遠くを見ていらっしゃいます。
     あの方がどこに行こうとなさっているのか
     私にはもうわかりません。
     けれども私が哀しく思うのはそのことではなく、
     あの方が独りでそこに行こうとなさっている、
     そのことなのです。
                        ――アト・シザル




     第四楽章 風のヴォランタリー




 クラインの夏は、辺境に位置するテラニアやダネインをのぞけばほとんどが湿度もそれほど上がらず過ごしやすい。
 太陽の神サライアの守護する五月ともなれば、秋のゆたかな実りを約束する陽射しはまばゆいばかりになり、カーティスの街並みを白く輝かす。クラインの季節はいつでもそれぞれに美しい。
「失礼いたします……あ」
 カーティス公の執務室に入ると、セラミスの甘い香りが流れ、まるで光が溢れているかのように思われる。それは窓が大きいこともあったが、そこにいる、そのひとのためでもあった。
 そのひとは窓を背にしてカーテン越しのやわらかな光を受け、紫檀の執務机の前で書き物をしている。そんな日常ですらも絵のように美しい、このサライアの月に、二十二歳になったばかりの若き摂政・カーティス公――サライ・カリフである。
 フェンドリックはカーティス騎士団の団長として彼の傍近くに仕え、毎日見ているのだし、それ以前にも右府将軍の旗本隊長として仕えていたのだからいいかげん見慣れたはずなのだが、いまだに見るたびどきりとさせられる美貌である。
 クラインに戻ってから伸ばしはじめた金髪は今では肩に少しかかる程度にまで伸びて、顔にかかるのがうるさいのか耳にかけているのだが、長さが足りずに落ちかかってくる。肌はごく薄い色をしていたので、髪と肌の色合いが白と金のカーティス公の衣装にあまりにも映えるのだった。
 あまり暑くならぬとはいえ夏であるので、その衣装は薄く透けるような絹の、夏ものにあらためられているし、マントはつけていないが、それでも豪華な衣装であるのは間違いない。
 その傍らでアーフェル水のグラスを載せた銀の盆を持って立っていたのは、カーティス騎士団の副団長としてフェンドリックと肩を並べる女騎士、アトであった。彼女も身分が上がり、本来ならばそのようなことはしなくてもいいのだが、すでに身についてしまった習慣らしく、サライの身の回りの世話はほとんど彼女がしていた。
「さがりましょうか」
 アトがフェンドリックをちらりと見てから、サライに尋ねた。彼女の言葉を受けて、サライはフェンドリックに目をやった。
「フェンドリック、人払いは」
「必要ないかと存じます」
 フェンドリックもアトを見て、答えた。実際のところは人払いが必要であったとしても、彼はアトを下がらせたいとは思わなかっただろう。
「君の判断に任せるよ、アト」
 サライは微笑み、優しく言った。アトはそんな彼を、少し心配そうな目で見やった。クラインに戻ってから――というよりはレウカディアの即位式から、サライは以前よりも感情を出さなくなっていた。何があっても決して声を荒げるようなことはせず、いつも静かに微笑み、優しい声音で話す。あまりにもそれが人々のイメージどおりだから、アトには心配でならなかった。
 クラインを追われて旅をしている間の、のびやかな彼の表情や態度を目の当たりにしてきて、今の何か大きな感情を隠しているようなサライを見ていると、奇妙な不安に胸が騒ぐのだ。いま思えば、かつてアトが仕えはじめたころのサライですら、本当のサライではなかった、とアトは思う。
 とはいえアトと二人でいる時や、バーネットやフェンドリックをはじめとする気のおけない友人や部下たちと会話をしているときのサライは、昔と同じように茶目っ気なども見せたりするので、その時だけはほっとできた。
 彼女の内心でのひそやかな心配に二人が気付いたはずもなく、サライはフェンドリックに報告を促した。
「それで、何の報告?」
 フェンドリックはつかつかと近づいてきて、執務机の正面、アトの隣に立った。
「カーティス街道の盗賊団に関する報告にございます」
「いいよ、始めて」
 書類にサインする手を止めて羽ペンをインク壺に戻すと、サライは身を起こして軽く背もたれに体重を預けた。
「去年のヤナスの月にレント街道サナリアの付近で略奪を受け、行方不明となっていた商人の一家が国境警備隊に保護され、先頃カーティスに戻ってまいりました」
「一家全員が?」
「いいえ。話によりますと一家のあるじと使用人、傭兵の十人は略奪の際に抵抗したために盗賊どもの手に掛かり無残な最期を遂げたとか。その妻と十六になる娘は女であるゆえ命は取られず、彼らの根城に拉致され、監禁されていたそうです」
 サライはわずかに眉をひそめ、アトはもっとあからさまに気の毒そうな表情を浮かべた。女に飢えた盗賊たちに捕らえられて、その娘と母がどんな目にあったのか、そういった事情に疎いアトでも容易に想像が付いたことだったので。
「では先頃逃げ出して、カーティスまでたどり着いたということか」
「いえ、それが違うのです」
 フェンドリックは自分でもその情報にまだ納得していないらしく、声音が怪訝な響きを帯びた。
「サナリアの盗賊団のことはサライ様もご存じかと思いますが」
「ああ。頭領はファラジとかいう賞金首だったね」
 その事自体にはあまり興味がないのを隠そうともせず、サライは軽く頷いた。
「かかるネプティアの月にファラジは新勢力の頭領に殺され、彼の盗賊団は全て新勢力の――赤布党に組み入れられたとのことです」
「それは初耳だな。赤い盗賊の噂は今年に入ってから何度か聞いたように思ったけれど、もうそんなに勢力を伸ばしていたとは」
 サライは初めて興味を示したようにその名を繰り返した。だがまだ話の核心には至っていなかったので、先を促した。
「で、続きを話してくれないか、フェンドリック」
「はい。彼女らの話によれば、赤布党の頭領は彼女らの他にもファラジ一味に監禁され、そのアジトで奴隷として使われていた男女を、彼らの根城の場所を決して明かさないことを条件に全て解放し、あろうことか幾ばくかの金子を与えて街道沿いまで戻したというのです」
「信じられないな」
 一言、サライは言った。
「それでどうして――解放されたのがネプティアの月だとしたら今頃その報告が? サナリアから逃げてきたのなら、遅くともディアナの月にはクライン領内に着いていたっておかしくないはずだが」
「はあ」
 フェンドリックは困ったときの癖で、無意識のうちに短く刈り込んである後ろ頭を掻いた。
「保護された娘のほうがその時怪我をしておりまして、動けるようになるまで赤布党が面倒をみてくれていたそうです」
「まさか」
 思わずそう口走ってしまったのはアトだった。フェンドリックだって本当はこんな話を信じていなかったし信じろなどとは言えなかったのだが、報告しなければいけない立場だったので、目顔でアトに同意を示しただけだった。サライの方は何か考え込んでいるふうであった。
「信じがたい話だが……その一家が盗賊に襲われ、また妻と娘だけが生還したという事実があるのだから、信じるしかないのだろうね。逃げ出したというのなら、そんな作り話をするとは思えない」
「先程までの話が警備隊からの報告として受け取った話なのですが、どうもその母子は命を助けてくれた赤布党の輩にたいへん感謝しているらしく、彼らとの約束を破るわけにはいかないとして、潜伏場所を明かさずにいるとのことです。他の解放された人達も彼女らと同じだそうで」
 盗賊のもとから逃げ出した人がいるのなら、彼らから盗賊のアジトを聞き出して一網打尽にすることができるのだが、新しい赤い盗賊はつねに移動を続けていてなかなか居所をつかませない。
 また今回のような例では人々は解放されたばかりか、小額ではあるが旅費を与えられて無事に街道まで送ってもらってまでいたので、盗賊たちに非常な恩を感じていた。略奪されたものは返してもらえなかったとしても、彼らにとっては命こそ何にも勝る財産であったのだ。
 一度諦めかけていた命を救われた人の感謝は滅多なことでは裏切られない。そのあたりを、赤布党はよくわきまえているようだ。
 サライが聞いた今までの噂でも、最初にその名を聞いた二、三ヶ月の間は虐殺の凄惨さばかりが伝えられていたが、この頃は抵抗さえしなければ命だけは助けてもらえるし、次の宿場町にたどり着けるだけくらいの財産は残してもらえるだとかの、野蛮で無慈悲な盗賊とはうらはらの一面が時折顔を覗かせていた。
「他には? フェンドリック」
「あ、はい」
 フェンドリックは慌てて姿勢を正した。
「彼女らの話から、赤布党の一端が判明いたしました」
「それは大きいな。エトルリアの方は何も教えてくれないからね」
 サライはちょっと頷いた。
「人数は約七百名程度、昨今ではもともと盗賊を働いていて、赤い盗賊の傘下に加わったやからの他に、頭領の名を慕って集まった傭兵くずれや地元の若者なども集まってきてますます人数が増えているようです」
「七百か。それだけの人数で動いているのに、まだほとんど内情が知られていないというのは、すごいな」
「頭領が兵法を学んだことのある人間なのかもしれません。もともと赤布党が最初に現れたルーハルをはじめ、サラジア、サナリアの三地点を主な活動地域にしています。規律は厳しく、非常によく訓練されているようです」
「だろうね。頭領はよほどの統率力がある人間だよ」
 今までの彼らの手口などを思い出して、サライは呟いた。
「ええ。赤布党を取り仕切っているのは実際には二人で、話によりますと一人は沿海州出身の傭兵、一人はクライン出身だそうです」
「それは痛いな」
 サライは久しぶりに苦笑めいたような、面白がるような顔をした。アトがたしなめるようにサライをじろっと見たので、彼は笑みを引っ込めてフェンドリックに続きを話すように言った。フェンドリックは堅苦しい敬語に疲れてきていたので、だいぶ言葉が乱れてきていた。
「そのクライン出身の男がですね、略奪に関しての作戦だとか人員配置などを担当してるようで」
「彼が首領なの?」
「いいえ。実際に盗賊たちを率いて動いているのはもう一人の方です。ソーチやファラジをだまし討ちにして一味を傘下に加え、捕らわれていた人達を解放させたのもその男です。まだごく若く、娘の話では首領はカーティス公もかくやというものすごい美男で、もう一人の男が醜くて小男であるために、二人が並んでいるのはこっけいなくらいだったということですがね」
「それは関係ないでしょ、フェンドリック」
「そう聞いたんだよ」
 アトは今度はフェンドリックを睨み付けた。二人のやり取りに、サライはくすくすと笑った。アトは今年で十八歳になり、フェンドリックは二十四歳だったので六歳も違うが、アトが近頃急に大人びてきたせいかあまり年の差を感じさせない。
「それで、美男の首領の話なんだろう」
「そうです、そうです。赤布党の首領が赤い髪をしていて、それで彼らは赤い布を目印にしているようです。――ここからは私の言葉ではなくて、娘の言葉ですから、何も言わないでくださいよ――すらりと背が高く、肌白く、瞳は野生の獣かエーデルの民のようにきつくて、それは不思議な緑色をしているとか」
「フェンドリック、容姿のことはいいわよ」
 呆れてアトは言った。フェンドリックは自分の報告にうんざりしているように言い返した。
「だから、俺の言葉じゃないんだってば。――で、首領の名はサナリアのアインデッドと申すそうです」
 サライの声が、フェンドリックの声を遮った。
「えっ?」
「アインデッドだって?」

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