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                                *



「ねえタマル。巷では……いえ、ここでも、だけれど。皆わたくしのことを何と呼んでいるか知っている?」   
 周りには人払いを命じて、たった二人だけの気安さに任せて、シェハラザードは涼しい声で問いかけた。タマルは喜びに輝いていた顔を曇らせ、どうしてそんな事を聞くのかといった感じで悲しそうな目をした。
「存じません」
 湖の水面から視線を外し、伏目がちに欄干を見下ろしてシェハラザードはくっくっと喉で笑った。彼女の若く、美しい顔には似合わない、人生の全てに飽き、倦んでしまった老婆のような笑い方だった。
 その笑いはしだいに小さくなり、嗚咽のような喉声に変わっていった。流れてこそいなかったが、彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「さげすみをこめて、こう呼ぶのよ……ラトキア女ですって。ラトキアの娼婦、銀髪の毒婦……まだまだ、あるのでしょうよ。わたくしに聞こえないと思って……いえ、聞こえるように言ってるのでしょうね、あの者たちは」
 タマルの沈黙に任せて、シェハラザードは独り言めいた呟きを続けた。
「お前もさぞ、わたくしを軽蔑しているでしょうね。たった一人の弟がいずこにいるか、生きているのかどうかも知れぬのに、こんな贅沢な暮らしを安穏と過ごし、国を滅ぼし、姉上たちを死なせた男の妾となりはててまで浅ましく生きているわたくしを。わたくしの身など、あの戦いの時に滅びていればよかったのだわ」
 ふいに首筋に落ちた冷たいものに、シェハラザードは驚いて振り返った。彼女の後ろにひっそりと立っていたタマルの大きな瞳から、あとからあとから涙が零れ落ちていたのだった。彼女は慌てて目を隠し、シェハラザードの肩を拭いて隠そうとした。だが隠すことはできなかった。
「どうして泣くの? タマル」
「私は姫様をそんなふうに思ったことなどございません。ヤナスはあんまりです。どうして姫様ばかりをこんなひどい目にあわせるのでしょう。それだけでも充分なのに、姫様は私がそんなふうに思っているなどとお考えなのですか?」
「ああ、タマル、そんなつもりじゃなかったのよ、ごめんなさい……」
 シェハラザードはすぐに後悔した。そして今にも泣き出しそうな瞳でタマルを見つめ、彼女の頭を抱え寄せてすすり泣いた。それは昔の彼女と全く変わることはなかった。一年で、彼女は変わりすぎたほど変わったが、心の奥の優しいところは変わっていなかった。もともと彼女はしんは女らしい、かわいい娘であっただけに、気丈に振る舞っているのはまったく健気としか言いようがなかった。
「申し訳ありません。弱いところをお見せしてしまって。本当は、姫様のほうがずっとお辛いのに、わたしなど泣くほどのことでもございませんのに」
 まだ少ししゃくり上げながら、タマルは謝った。
「辛い? 辛いなんて事はないわ」
 いくぶん荒々しく、シェハラザードは言った。
「だって、辛いなどと思うわたくしの弱い心は、姉様たちの眠るサッシャの墓土に埋めてしまったもの。いまは一人の兵も持たないけれど、わたくしは戦っているつもりよ、タマル。この若さと体だけが武器かもしれないけれど、それでもわたくしは負けない。いつか勝ってみせる。だから、わたくしは平気。戦場に辛いと思うことはないわ。それよりも、お前を傷つけるつもりなんて全くなかったのよ。お前はこんなわたくしに唯一、心から仕えてくれるのだもの。もしかしたら、一生ここから出ることは叶わぬかもしれないというのに」
「姫様とご一緒ならば、タマルは何処へなりともお供いたします。姫様をお一人にはいたしませんわ。どんなに姫様を蔑もうと、それはエトルリアの人ですもの。わたしは姫様をそのようになど思っておりません」
 タマルはそのか弱げな外見とはうらはらに、きっぱりと言い切った。シェハラザードはまたそれで少し、涙ぐんだ。
「ただね、わたくしは寂しかっただけよ。だって、そのとおりですもの。娼婦はそれで日々の糧を得ているというのに、わたくしときたら、この体と媚であがなっているものはせいぜい自分の命の保証とこの贅沢だけ……。エトルリアの誰に罵られたって構わないと思っているわ。けれども、お前が……ラトキアの民たちが、わたくしを何と思っているのかと思うと、情けなくてならないわ」
「いいえ。姫様は、むりやり大公閣下の妾にされてしまっただけ……誰が判らなくてもタマルには判ります」
「ありがとう、優しいタマル」
 シェハラザードは顔を上げて、夜の暗い湖面を睨みつけるかのように毅然とした目で眺めやった。そのバイオレットの瞳に去来するものは、距離は変わらぬまでも今や遥かなラトキアへの郷愁、次々に亡くなった姉たちや彼女の代わりに処刑された親戚、部下たちへの哀悼――そして彼女から全てを奪ったエトルリアへの激しい憎悪、それら全てがない交ぜになった感情であった。
 タマルは顔を伏せていたので、そんなシェハラザードの表情を見ることはなかった。そして消え入るようにひっそりとした風情で呟いた。
「けれども、時々、思います。いっそ本当にお恨みを捨ててしまわれたほうが、姫様にとって幸せなのではないかと」
 シェハラザードは信じがたい言葉を聞いた人のように瞳を見開いた。が、すぐに静かな面持ちに戻った。
「大公の妾妃として生きていくのならば、確かにその方が良いのかもしれない。わたくしの辛さや苦しみ、憎しみや恨みなどは所詮わたくし一人のものでしかないのだもの。わたくしの意思で何とかできるものでしょう」
 彼女はゆっくりと視線を湖へと向けた。その方向には公都のサッシャがある。見やる彼女の瞳は、暗く激しい炎に燃えているかのようだった。
「けれどもね、タマル。これはお前には判らないかもしれないし、わたくしも昔は判らなかったことなのだけれども、国を治める者は国そのものと同じ存在なのよ。だから父上が亡くなった時、ラトキアは負けた。けれどもわたくしがラトキア公女である限り、わたくしが生きている限りラトキアは滅びない」
 シェハラザードは一旦言葉を切り、傍らの少女に微笑みかけた。
「そして、国は民。すなわち民はわたくし。ラトキアの民が恨みを忘れなければ、すなわちわたくしも忘れない。わたくしの心から憎しみの炎が消えることなど、この手でエトルリアを滅ぼし、その光景をこの目で見るその日まで消えることなどないのだわ」
 彼女の一見穏やかな表情の中に、隠しても隠しきれぬ怒りを認め、タマルははっとして口許を覆った。
「申し訳ありません……姫様のお気持ちも考えず」
「いいのよ。お前が何の他意もなく、わたくしのためにそう言ってくれたのだということは判っているから」
 振り向いて微笑んだ女主人の優しい笑顔に、タマルはまた涙ぐんだ。その心に渦巻く敵国への怒り、憎しみ、祖国を滅ぼし、家族を滅ぼした仇の妾妃として命をつなぐ自分への嫌悪感、瞋恚、そしてたった一人生き残った正当なラトキア大公家の血筋として、いつの日か祖国を復興させねばならないという責任感――そういったものが、まだわずか十九でしかないこの亡国の公女にどれだけの重圧を与えているのか、それは余人に計り知れるものではなかった。タマルのまなじりから溢れかけた涙の粒をシェハラザードはそっと指先でぬぐってやった。
「タマルはほんとうにすぐ泣くのね」
「申し訳ありません」
「またすぐ、そうやって謝る」
 シェハラザードは小さな声を立てて笑った。つられて、タマルも泣き濡れた瞳のままで笑った。
「夜風が少し、冷えてきたわね。入りましょう」
 二人は窓際から離れ、シェハラザードはディヴァンに腰掛けた。タマルは一度サンルームから出ると、彼女のためにアーフェル水を作って戻ってきた。
「それにしても、大公がわたくしを外に出してもよいと考えるようになったということは、これは大きな進歩だわ」
 アーフェル水のグラスを両手で包み込むように持ち、独り言のようにシェハラザードは呟いた。彼女の想念を乱してはならぬと、タマルは黙りこくっていた。時には同意を求めたりすることもあったが、そのように思ったことを誰かに話しかけるようにしてまとめるのがシェハラザードの癖だったので。
「このところ大公はわたくしに意見をよく求めるようになったし……わたくしに妾妃以外の使い道があると思いはじめているのだとしたら、狙いどおりなのだけれど。そうしたら、今は大公と共にという条件付きだけれど、一人での外出が許されるようになるのも時間の問題かもしれない」
(急がなければ。わたくしに――サン・タオにそんなに時間があるというわけではないのだから……)
 シェハラザードの今の生活は妾妃という非常に不安定な立場の上に成り立っている。今は唯一生き残ったラトキア公女の地位が彼女を守っているが、それがいつまで続くのかも判らない。そうなればただ美しいだけの妾妃など大公の飽きが来れば簡単に切り捨てられる。それをシェハラザードは最も恐れていた。
 また、大公が代替わりすれば、前大公の妾妃など何の価値もなくなる。その時まだシェハラザードにラトキア公女の価値があるのならばそのまま次の大公の妃になり、ラトキアを共同統治する、ということも考えられなくはないが、恐らく名のみの大公であり、いずれ殺されるだろう。
 エトルリアで生き抜き、確実に命を永らえるためには、サンが健在であるうちにエトルリアにとって必要不可欠な存在となっておくことが必要だった。
 大公の子供を産むという手立てもあったが、すでに成人した王子が二人もいる状況ではそれはサン大公亡き後の彼女の立場を危うくしかねないし、仮にラトキアを復興させることができても国民は敵の子を産んだ女を許しはしないだろうという考えから、はなから彼女の念頭にはなかった。
 残るもう一つの手段のためにシェハラザードはサンから国政や外交に関わる話を聞き出し、持てるかぎりの政治的な知識を総動員してその解決策を考えた。その事によってただの美しいだけの女ではないことを大公に認識させ、また政治的影響力を作り出そうと努めていたのだ。
 この彼女の目論見は今のところうまくいっているようだった。もしかしたらシェハラザードの意見を面白がっているだけかもしれないが、それでもサンが彼女にただの妾妃としてだけではない価値を認めはじめていることは確かである。
「そうすれば警備も緩んでくるでしょうし、ラトキア国内の貴族たちに連絡を取ることも可能になるかもしれない。……楽観はできないけれど、希望は絶対に捨ててはいけないわね、タマル」
 ふいに話を向けられて、タマルは顔を上げた。
「姫様の仰るとおりだと思います」
 彼女の答えを待たず、シェハラザードは呟いた。
「お金も少しは自由になるようになったものね。買収ができるようになればこちらのものよ。何だったら勇敢な男に体を与えてやってもいい。でも、体は与えても心までは与えない。わたくしは一生男など信じないし、愛することもない。男など色香と言葉とお金さえあれば操れるものよ。そのためにはわたくしはもっとこの武器を使うことに習熟しなければならないわ。今はその練習だと思っているの。でもあの二公子と公弟ではだめ。ランは粗野な田舎者だし、ファンは人より自分がすぐれていると思い込みたいだけの愚か者。ハン・マオはまだましだけれど、どれもわたくしを大公から盗み出す才覚も、奪い取ろうという力も度胸もない。あんな連中ではラトキアの再興などとんでもない。このままサンの妾として白亜宮に閉じ込められ、時が過ぎてラトキアの民たちも忠誠心を失い、わたくしのことなど忘れ――わたくしも唯一の武器が衰えていくのを指をくわえて眺めているだけになる。悔しいけれど、大公のほうがやはり人間として一枚うわてだもの。だからこそまず、大公をだますことが必要なのよ」
 タマルはもう答えなかった。シェハラザードが同意を求めたのではなく、ただその決意を忘れぬために口に出しただけだと判っていたので。
「わたくしは諦めてはいないのよ。はためには辱められ、踏みにじられ、どんなに惨めに見えようと構わない。わたくしは戦っている。そして勝つわ。ここからいつか、きっと自由になってみせる。そうできると思うの。おかしなことだけれど」
 シェハラザードは冷たい微笑みを浮かべた。
「わたくしの運もこれ以上下がることはもうないわ。ここまで落ちたならば、次は上がるだけ……来年の春は、エトルリアの外で迎えるわ。きっと」
 湖に、夜風が吹き渡る。

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