前へ  次へ


                                *



 二人はしばらく無言のまま、一方は酒を飲み、一方はその酌をしていたのだが、やがてサンが再び口を開いた。
「先程言いかけた話だがな、《赤い盗賊》のことだ。そなたにはあまり興味が無いのではないかな」
「……でも存じておりますわ。この頃、街道界隈を脅かしている盗賊団のことでございますわね」
「そうだ。あまりのさばらすわけにもゆかぬのでな、そろそろ街道警備を強化しようかと考えていたのだが……」
「何をお躊躇いに? 盗賊の駆逐など、何も問題ございませんでしょうに」
 ほっそりとした蔦のように、シェハラザードの白い腕がサンの浅黒い胸を這う。
「そやつらがただ街道筋を荒し回るだけの盗賊というのならな。しかしどうも動きがおかしいのが気になるのだ」
「動きとは……何ですの? まさか……ラトキア兵の残党なのですか」
 彼女を救い出そうとする動きは今も根強い。シェハラザードの声音が心配そうに揺れたことに、サンは気付かないふりをした。彼女の弟、ラトキア公子ナーディルの行方を今も彼は――完全にラトキア大公家の血筋を絶やすために――探していたし、その事にシェハラザードが気付いていることも知っていたので。
「それはあるまい。赤い盗賊はペルジアが突然にメビウスに戦をしかけた頃――年明け近くなってから現れたのだぞ。もしそなたの言うとおりだとしたら時期が遅すぎるし、現れる場所もラトキア街道の近辺ということになるだろう。
 シェハラザードが黙っていたので、サンは続けた。
「先にも言ったが、派手に旅人たちを襲い、殺すのならば――これは言葉は悪いがな、ただの愚かな盗賊、ならず者の集まり。一掃するにやぶさかではないが、聞くところによれば滅多に殺しはせぬというし、時には情けをかけて見逃すこともあるという」
「信じられませんわ。そんなことがございますの?」
 サンは頷いた。
「それが判らぬのだ。おまけに新たな《赤い盗賊》が現れてからというもの、サナリアあたりの有象無象の盗賊どもはすっかり鳴りをひそめよった。もとの赤い盗賊どもの首領だったサナリアのファラジが殺されたおかげで、逆に被害が減ったくらいだ。どうやら他の盗賊団も《赤い盗賊》に制圧されたらしい。それを追い払って、また前のようにたちの悪い盗賊がのさばらぬとも限らぬのが心配でな」
 サンの渋面を見つめ、シェハラザードは少し何か考えていたようだったが、やがて口を開いた。
「でしたらサン様、たてなおすこともできぬように、赤い盗賊のみならず、街道沿いに盗賊の残党など残らぬように徹底的に取り締まればよろしいのではございませんか。時間はかかりましょうが、できぬことではございますまい」
 少しの沈黙の後、シェハラザードは微笑みを浮かべた。その冷酷な、とさえ言っていいような、それでいてあでやかに妖しく美しい微笑に、サンも頬の片隅で冷たく笑っただけだった。
「禍根を残さぬように――ということか。恐ろしいことを言うおなごだな。他には何か、思いつくことはないか」
「所詮女の意見ではございますけれど、よろしゅうございますので?」
「いつものことであろう。かまわぬ。言ってみろ」
 面白そうに促されて、シェハラザードはサンから体を離して少し身を起こした。
「赤い盗賊の首領を街道警備に取り立てて、臣下に加えておしまいになるのです」
「とんだことを申すな」
 サンを見上げるシェハラザードの紫の瞳は、彼を試すようにきらりと輝いた。彼女のそんな表情は、サンが他に知る女には決して見られぬものであり、それを彼は面白がり、かつ強く惹かれてもいた。
「さようでございましょうか? 山賊であれ傭兵であれ、有力な者を臣下に取り込むという方法は、かつてよくあったことだと聞き及んでおります」
「それはまあ、わしも知らぬことではないが。しかし戦乱時代ごろの話だ。現在で通用するかどうかは判らぬぞ」
 意外な発言に戸惑ったように彼は言った。興味を持っているとみて、シェハラザードは続けた。
「或いは赤い盗賊以外の盗賊の動きを抑え、エトルリアの商人を襲わぬことを条件に、ある程度の略奪行為には目をつぶるというような取引をなさるのもよろしいかと存じます。首領の男が少しでも頭の回る男であれば、盗賊を続けるよりは閣下に剣を捧げ、それなりの地位を得るか、取引に応じたほうが得策であると判るはず。判らぬほど愚かであればその時はためらわれることはございませんでしょう」
「ふむ……」
 サンは少々考え込むような顔をした。
「ハンも同じようなことを申したが、そなたも申すとあれば考えてみる価値はあるかもしれぬな」
「ありがとうございます」
 彼女は花のような笑みを浮かべた。
「そなたの意見も聞けたところで戻るとしよう」
 そう言って、サンは寝台から下りた。シェハラザードもそれに続く。
「もうお戻りに? まだ、夜も更けておりませんわ」
 立ち上がり、サンの肩にマントを着せ掛ける手伝いをしながら、シェハラザードはそっとその腕を彼の肩にかけて、甘えるように顔を近づけた。彼女の髪を軽く撫で、サンは薄く笑った。
「わしは大公なのだから、ずっと白亜宮にいるわけにもいかぬ。それにあまりこちらにばかり渡っておるとアイシャがうるさい。そなたと共にいたいのはやまやまだがな、シェハラザード」
 サンを見送って室外に出るために、シェハラザードは手早く薄物に腕を通し、上からガウンを羽織った。二人して廊下を歩きながら、サンが突然思い出したように言った。
「そうだ、シェハラザード。この前のそなたの意見が役に立った礼に、何か贈り物をしてやろうと思っていたのだが、二三日ていど旅行をするというのはどうだ?」
「本当でございますか」
 演技なのか真実なのか定かでなかったが、シェハラザードは目を瞠った。
「なに、ペルジアのごたごたも一段落着いたし、国内も落ち着いておる。そなたもずっと湖ばかり見ていては気が滅入るだろう。わしもちと気晴らしをしたい。ニーリャンの温泉あたりなどどうかな」
「まあ」
 シェハラザードの表情は、めったに見られぬほど大きく動いた。一年弱の長きに亘って軟禁生活が続いており、一生外に出ることはかなわぬと彼女自身もなかば諦めていたところだったので、この突然の旅行の話はシェハラザードにサンの予想以上の喜びと驚きをもたらした。
「必ず、連れて行ってくださいましね? わたくし楽しみにしておりますわ」
「判った、判った」
 彼女が若い娘らしく喜ぶのを見て、サンは相好を崩した。実際のところ、彼は人生の終わり近くになって手に入れたシェハラザードという美しい宝物にけっこう夢中になっていたのだ。彼が愚かであったならば、エルボスの伝説の皇帝ツァンジャンのように、酒の池ぐらい平気で作ってしまっていたことだろう。
 船着場にたどり着き、サン・タオは従者が待つ小さな御座船に乗り込んだ。舵を取る従者の一人がふとシェハラザードに目をやり、驚いたように顔をそらした。それも無理はなかった。シェハラザードはこの十ヶ月ばかりで、もし以前の彼女を知っている者が見たらはっとするほど変わった。
 彼女は痩せたが、美しいと評判だった二人の姉姫の陰で隠れていた彼女の生来の美貌は、今開花したばかりの花のようにあでやかだった。それは日の下で咲くのではなく、日陰の闇にひっそりと、青白く花開くような――あるいは時期を待たず無理やりに開花させられた花のような、一種病的なものをはらんだ花の美しさだった。
 そして彼女は大人の女に変わっていた。ただ変わらぬのは、きぬぎぬの別れを惜しみつつあたふたと去っていくサンを見送るときのぞっとするほどの敵意に満ちた眼差しだった。もちろん、サンはそれには気付かない。大公の乗った御座舟が雪花宮の方向に消えるのを見届けてから、シェハラザードは腰元たちを呼びやった。
「湯浴みの支度を!」
 この白亜宮で不自由することといえば、それは本当の自由を得られぬという事だけであっただろう。大公の愛妾という地位を手に入れてからは、亡国ラトキアの公女といえど、彼女は自分の気に入った小姓や腰元を持つことが許された。ただちに数人の腰元がやってきて、彼女に湯浴みの世話をする。
 湯浴みはサンの去った後の日課となっているので、彼が渡ってきた時からすでに準備がされており、すぐに用意は整えられた。まるで体中に染み付いた汚れを落とすかのように彼女は神経質なほど丁寧に体を洗わせ、没薬を入れた水を浴びた。
 最後の仕上げに、シェハラザードは体に香料を擦り込ませた。彼女の気に入りの香料はかつてその名に譬えられた花であり、故郷を偲ばせる香りでもあるセラミスであった。見事な銀髪を簡単に結わせてから、シェハラザードはエトルリア風のブルーの上衣とクンツを身につけた。
 天井も床もガラス張りのサンルームに出ると、星明りと湖畔の灯が湖の波間に砕かれて輝いていた。エトルリアでの暮らしもはや十ヶ月、髪型や衣装もだいぶエトルリア風が板についてきた彼女だが、東方のエトルリア族とは全く違うゼーア系の目鼻立ちや、セラード族の血を引く髪や瞳の色はやはりエトルリアとは異質のものであり、それが彼女を包む衣装や背景とあいまって、エキゾチックな魅力を彼女に与えていた。
「風が涼しいわね……タマル」
「はい」
 シェハラザードの後ろにそっとつき従う少女は、素直に頷いた。薄く黒みがかった褐色の髪と、少しだけ青の混じった褐色の瞳はエトルリア人のものではない。エトルリア人ばかりの腰元たちの中、彼女だけがラトキア人だった。
 サンの妾妃になる代わりに、シェハラザードが提示した二つの条件――それは、《ためいきの塔》から、雪花宮内ではなく何処か離宮に移ること、そしてラトキア人の侍女をつけること、であった。
 この二つの条件のうち、一つめについてはサンは一も二もなく同意した。シェハラザードを完全に自分のものにしたかったし、そのためには彼女を、彼女だけのための牢獄に囲う必要があったからだ。
 また、大公家の者なら誰でも出入り可能な《ためいきの塔》にシェハラザードがいるかぎり、ランやファンがいつ彼女に手を出すものか知れたものではなかった。その点で、彼の息子たちは父親から全く信頼されていなかった。
 そして二つ目の条件は、一人だけ、彼女と一緒に軟禁状態に置かれてもよい、という条件でやっと認められたものだった。そして白亜宮に連れてこられたのが、タマルであった。彼女はもともとシェハラザード付きの侍女であり、白亜宮で彼女に仕える侍女をシャームで募ったときに、自ら志願してここに来たのだった。
 タマルは健気なほどにシェハラザードを敬愛しており、ことにたった一人生き残った公女である彼女に対して、以前よりもずっと強い忠誠心を抱いて仕えていた。かつて多くの侍女たちに仕えられていた頃には名前すらほとんど認識していなかった彼女の存在によって、シェハラザードの心はだいぶ慰められていた。
 タマルがいなければシェハラザードはいまだ敵国の中でただ一人生きていかねばならぬという孤独を耐えねばならなかったし、もしかしたら本当に気が触れるか、耐えかねて自殺すらしかねなかったところだったのだが、タマルのおかげで二人で助け合えるという安心感もあり、またタマルを守らねばならないという義務感によってシェハラザードは強くなれもしたのである。
「さっき、大公が言っていたわ。わたくしを連れて旅行をしたい、と。お許しが出るなら――きっと出るでしょうけれど、お前も一緒に行きましょうね。もう半年近く、お前もこの湖以外の景色を見ていないのだもの」
「まあ……私などにそのようなお気遣いを……」
「何を言っているの。わたくしとお前はもう主人と侍女というだけではないわ。この敵だらけの国の中で、たったひとりの友人、妹のようなものではないの。お前を除け者にするだなんて、そんな事は絶対にしないわ」
 少々怒ったような勢いでシェハラザードは言った。彼女の気の強さばかりはこの虜囚生活でも健在だった。
「ありがとうこざいます」
 タマルは小さな白い花のような顔を感動で真っ赤にした。しかしシェハラザードは再び自分の思いに引き戻されて、彼女の方を振り返ることはなかった。

前へ  次へ
inserted by FC2 system