前へ  次へ


                                *



「おぬしらはみな、一斉に気が触れおったのか」
 もはや、水晶の間にまっすぐ立っているのは、皇帝と玉座の後ろに控える二人の太刀持ち小姓だけである。
「かくも頼みなき臣下どもを持つとは、余は今の今まで夢にも知らなんだぞ。余はこれまでの長い年月、中原広しといえどもただ一つのことでは余ほど幸せな君主はおらぬと信じ込んでいた。そのただ一つのこととは、領土の大きさでもなく豊かさでもなく、たった一つ、我が身ほど、衆に優れ人に抜きん出た臣下ぞろいに、かくも心のまことを惜しみなく注がれている幸せ者の主はいるまいという、よろこばしい自惚れにほかならぬ。が、それも今となっては我が愚かしさのみを証立てるものでしかない。この中原に、余より惨めな君主があろうか。これが、メビウスの獅子たるイェラインのすがたか。臣下みなにかくもあからさまに軽んじられ、蔑ろにされ、力ずくの翻意を迫られている。どのように人々は余に後ろ指を指し、嘲り笑い、臣下どもに鼻面とって引きずりまわされる名のみの獅子よと罵り蔑むことであろうか」
 平伏した背の上を、イェラインの張った声だけがむなしく流れてゆく。
「アルドゥイン」
「は」
「どうだ。これがおぬしが企みしことなるぞ。さぞかし満足であろう。こやつらは現在我が主なるイェラインよりも、おのれを――流れ者たる素性も知れぬ傭兵を、メビウスの支配者にふさわしと選びおったぞ。今おのれが一言扇動すれば、こやつらは一斉にたって余に背き、余を弑しさえするだろう。どうだ、アルドゥイン。命令するは余ではない、おのれだぞ。いま余もおのれも、天下に一介の一人の人間、対等の存在として立っているにすぎぬ。余が何を命じようと、こやつらはもはや聞かぬのだ。こやつらを鎮め、余の心を通す、ヤナスが与えたもうた皇帝の権力はたった今余を見捨てた。それはそこにある。アルドゥイン、おのれがそれを取るならば好きにせよ。余にはおのれをどうすることもできぬ。――どうだ、アルドゥイン、どうする。メビウス皇帝となる千載一遇の機会におのれは手をかけているのだ。あとはおのれが、自らの処遇を決めろ。余は知らぬ。余は、もう何もせぬ、何も言わぬ」
「陛下……」
 アルドゥインはゆっくりと立ち上がった。
 人々はなかば身を起こし、魅せられたように、水晶きらめく天井の下に屹立する神話めいた美しい姿を見守った。この場の主導権を握っているのはアルドゥインであり、他の誰でもなかった。もはやイェラインでもなかった。
 アルドゥインは人々が息を呑んで見守る中、ゆっくりと広間を横切り、玉座へと近づいていった。イェラインは後ろに手を伸ばし、太刀持ちの手から宝剣を引ったくり、鞘から抜き払った。その柄をアルドゥインに向けて突き出す。
「おのれにもし髪一筋なりとも野心、叛心、背反の心あらば、いまこの場で我が血を流し、我が屍を踏まえてメビウスの玉座に上がれ」
 全くといっていいほどいいほど昂りのない、静かな声でイェラインは言った。
「我はイェライン・ル・アルパード・ドゥ・メビウス、メビウス百二十代の皇帝――その青き血と二十五年の間守りきし竜の玉座の誇りにかけて、わが支配に一分の偽り、一分の疑い、一分の不実あるにさえ耐えられぬ。アルドゥインよ、おのが余に寄せると称せし忠節に天地神明に誓い背いておらぬと言うのであれば、おのが信じるごとくにふるまえ。さあ選べ、アルドゥイン。おのれで決断せよ。余の申すことはこれで全てだ」
「陛下」
 アルドゥインは玉座の真下に立ち、じっと吸い込まれるような黒い瞳でイェラインを見つめた。それから、ゆっくりと手を伸ばし、イェラインの差し延べている剣の柄を手に取った。人々がはっと息を呑み、ソレールが反射的に腰を浮かせる。
「陛下の仰せ、いちいちご尤も」
 アルドゥインは宝剣を手に、その刃と宝石のきらめきを見つめながら、言った。
「我が犯せし罪につき、申し開くべき筋はさらになし。――それゆえ、陛下に捧げたる我が剣は、何とぞお返しをたまわるよう。背きし我が身は陛下の信頼に値しません。剣をお返しいただいた上で陛下の敵となることこそ、我が身にはふさわしいかと」
「いかにも、おのれの捧げた剣は返した。その剣をそれと思うがいい」
 と、イェライン。
 アルドゥインはその宝剣を両手に捧げてくるりと向きを返し、柄の方をイェラインに、切っ先をおのれの胸に当て、玉座の近く寄って跪いた。
「背反の罪を犯せし我が剣はお返しをたまわった。ただいま捧げるこの剣は、この生まれ変わりしアスキアのアルドゥインの、今初めて捧げたてまつる忠誠の証――もしも陛下がお心にかなわば、この剣を捧げることをお許しあれ。もしもお心にかなわずば、たった今この剣の柄を押し、我が命をとりて前世の罪を償わせたまえ。――これがすなわち、わが唯一にして永遠の主君へのお答え」
 アルドゥインの声はいんいんとして、静まり返った水晶の間に流れていった。
「アルドゥイン――」
 イェラインは一瞬、絶句するかに見えた。
 しかし、数秒の沈黙の後にゆっくりと口を開いた。
「アルドゥイン、そうして剣を捧げ、これまでの自分は亡き者、ここに今こうして剣を捧げるは新しい、罪なく汚れなき身と言いさえすれば、全ての罪科はすすがれるとでも思っておるか。この先幾度となく我が命に背くとも、そのたびごとに剣を新たに捧げ直せば、それで罪を購えると思いおるか」
「何条もって、さような」
 アルドゥインは激しく首を振った。
「これは必ずしもそれを目的として行ったことではございませんゆえ、今更らしく申し上げるのも如何と思い、申し上げずにいたことなれど、陛下の御心を和らげ頂くにいくばくかの効あらば、いましばし、我が言をお聞きください」
「どうせ、全てはおのれの意のままと申したぞ。言うがいい」
「かたじけない」
 アルドゥインは立ち上がった。
「もとより俺は過ぐる日、ディオン将軍のもとを訪れ仕官を乞うた一介の傭兵の身の上、その身がこのように縁あってメビウス皇帝に剣を捧げる騎士の身となり、落ち着くべきところを見いだしましたが、我が心にかかる一抹の不安はおさえがたきものとなってゆきました。皆様もご存じのごとく俺はアスキアの出身、かつてはラストニア王の臣たりし者、ゆえあって浪々の身となれども、万一ラストニアに事あらば剣を取りてラストニア王をお助けすべき家の生まれ。それゆえ、よし祖国とメビウスの間に交戦状態ありなばいかんせん、父祖への忠と主君への誠が相反するときにはこの身を剣に倒すのみと考えてはおりましたが、しかし一方でこのような不安を持つものが果たして剣を捧げ、イェラインの騎士を名乗ることは偽り、不正にあらざるかと、常にその思いが胸を去ったことはありませんでした。
 ――しかるに、仔細に申し上げるははなはだ冗長、煩わしきのみのことにて申し上げぬが、この我が悩みはペルジア長征により解消した。俺はアスキアにてはすでに喪われし者――この上もはや俺の剣はまったく俺一人のものであると知ることができた。それゆえ、我が心から敬愛するイェライン陛下に申し上げる。むろんこれまでの我が剣の誓いはかりそめのものにはあらざれども、しかし我が胸の全ての猜疑不安も晴れたからには、このアルドゥイン、アスキアのアルドゥインとして改めて、一点の曇りもなき晴れやかな心からの忠誠を以て陛下と、メビウスと、そして我が友のために生きるでありましょう。
 これよりはメビウスよりほかに我が祖国はなし。それゆえ俺は我が主君に剣を捧げ、お裁きを乞う。もはやこの国を離れては、仕官のすべも生きてゆく望みもありはせぬゆえ。生きてこの地を逐われるより、今この場において我が命を召されよ。されば死してなお、この身が愛する地の守護霊となりて残る望みもございましょう。――俺は我が主君を見出しました。たとえその主君が我が剣を拒まれるとしてさえ、我が剣が二君にまみえることは、俺が生ある限り決してございません」
 アルドゥインは語り終えて、静かに、まっすぐに立っていた。
 そしてその時、広間を埋めた全ての人々ははっきりと見た。アルドゥインの頬に、白い光る涙が一筋流れ落ちるのを。
 哀れを誘うための空々しさや、そのような場での涙にありがちな仰々しさは、その涙にはなかった。裁きの場に引き出されてからずっと、淡々と語り続けてきた口調に変化はなく、ほとんど感情の揺るぎを見せなかった彼の涙であっただけに、それは人々を深く感動させる何かを持っていた。
 ただ涙だけがその心のうちの思い、抑え切れぬ感情をあらわしたかのような、どんな言葉にもまさる涙だった。
 だが、その流した涙にもっとも驚いていたのは、当のアルドゥイン本人だった。他の人々はただ、この場で初めてアルドゥインの感情表現を見たというだけにすぎなかった。しかし少なくとも、当人にはいやが上にも知っていた。
(俺は、泣いているのか)
 意識とは関わりなく溢れ、頬を伝い、俯いた顎から水晶を象嵌した床に滴り落ちる涙を見つめ、アルドゥインは驚いていた。
(幾度となく殺されかけても、国を捨てても泣きはしなかった俺が)
 幼い時から命を脅かされて育ち、それが日常となっていく中で、次第にものごとを遠くから眺めるようになっていた。友と別れても、かりそめとはいえ愛した女性を喪っても、そしてついこの間に、懐かしい故郷を目の当たりにし、友と再会を果たしてもついに涙を流すことはなかった。
 もしかしたら自分は、本当の意味で感情を表すことを忘れてしまったのかもしれない――そんな思いがアルドゥインの中にはあったのだ。
(俺にもまだ、流す涙があったというのか)
 その人々とアルドゥインの厳粛な、感動した物思いを破ったのは、静かなイェラインの声だった。
「――アルドゥイン」
 はっとアルドゥインは跪き、イェラインの足元に頭を垂れた。そのアルドゥインの目の前にイェラインは彼の捧げた剣を受け取り、剣の誓いでするように口づけして返すことはせず、だらりとその腕は下ろされたままだった。
「言いたいことはそれだけなのだな」
「御意」
「あとは余にその身の処置を任せ、余の命に服すると言うのだな」
「御意」
「よしそれが死を命ずるとあってもか」
「剣にかけて」
「いかようの処罰が下されようとも異存はないな」
「はい」
「おのおの」
 イェラインは顔を上げて、メビウスの重臣たちを見回した。
「今のアルドゥインの言葉、しかと耳に入れたであろうな。では、このイェラインからも申し渡すことがある」
 イェラインの声が大きくなった。その、生まれながらの支配者だけが持つ天性の威厳、ヤナスの与えた権威に打たれたように、人々は平伏した。
「メビウス国民、ならびに我が宮廷にとり各々重要なる力を持つ諸卿らよ」
 イェラインは同じ、威厳に満ちた力強い声で続けた。
「あるいはこたびのわがアルドゥインへの措置、処遇に対し、そのいたしように得心ゆかぬ、承服しかねる、と思う者があるかもしれぬ。おぬしらがアルドゥインに対し、どのような感情を抱いているものかは、たった今、このイェライン、とくと目の当たりにさせてもらった。我がメビウスの統治を支え、わがためにメビウスを運営してくれているのが諸卿らであり、その力添え無しに我が帝国の平和も安寧もなきことは余ほどに知るものはいないゆえ、余は決して諸卿らの理に適った申し条、諫言、不服を強権を持ってしりぞけるものではない。が、いまここで諸卿らに申し渡すことがある」
 人々はいっそう平伏した。
「それは、このメビウスは、我がメビウス皇家の支配するところのものであるということであり、余はイェライン・メビウス、メビウスに於ける最高権威であり、余の言はひとたび口から出でなば、何ぴともそれを違えるわけにはゆかぬということだ。余は、たとえ明日諸卿らの反乱の刃に斃れるとしても、最期の息絶える瞬間まで、生ある限りメビウスの唯一無二の皇帝であろう」
「エール・メビウス」
「エール・イェライン」
 人々は平伏したまま唱和した。イェラインはそれを手を挙げて止めた。
「そのメビウス皇帝としての権力を、余はこれまで、一度として私利私欲のために悪用してきたことはなかったはず――もし歴然とさようの悪用あり、それがメビウスと国民との不利益を招いた証拠を手にしている者があれば、いまこの場で申し述べよ」
 イェラインは誰も遮るもののない静寂の中で、少し待った。むろんのこと、誰一人としてそのような者はいなかった。
 それを確認し、イェラインは軽く頷いて続けた。
「されば各々がたは、いまだ余をメビウス皇帝と認め、受け入れてくれておるということになる。さよう信じてもよかろうな。よろしい――。ならば余も、メビウス皇帝の名においていまここで改めて申し渡す。それに不服、ないし異議を唱えるものはメビウス皇帝の臣たるを肯ぜぬ輩、即刻に捧げたる父祖の剣を返し、己が信じる道をゆくがよい。――またこのアルドゥインがたとえ理不尽な命といえど、自らの意思によりそれに服すると誓いしことは聞いてのとおり。それに対しさらに不承知を述べるものは、アルドゥインの意思にすら背くと言わざるを得ぬ。そうだな、アルドゥイン」
「御意」
「よかろう。ではメビウス皇帝イェライン・メビウスの名において、アスキアのアルドゥインへの判決を申し渡す。一同、静聴せよ」
 言われるまでもなく、人々はこれ以上しようもないほどにしんと静まり返り、耳をそばだてた。

前へ  次へ
inserted by FC2 system