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     かの人は知らずや
     ぬばたまの夜に
     白玉となりて落つる我が涙を
        ――ベンガリアの歌より




     第二楽章 涙のパヴァーヌ




「アルドゥインか」
 重々しい声が言う。
 痩せてはいるが骨格のしっかりした、言うなれば風雨に耐えてすっくと立つ樫のような体。そのおもて、ふだん常に微笑みを絶やさぬ和やかなおもては今は厳しく引き締められ、眉間には深い二条の筋が刻まれている。その目は強い光、憤りを秘めてアルドゥインの上に据えられていた。
「ただいま帰参つかまつりました」
 アルドゥインはもう一度深くうなだれ、低く言った。
「我が陛下の健やかなるご尊顔を拝したてまつり、我が身にとってこれほどの喜びはなし。また、こたびの我が勝手千万のけしからぬふるまい、また――」
「黙れ、アルドゥイン」
 激しい声が飛んだ。
「勝手千万を心得るならば、なにゆえかようの背信をしてのけた。またならば、何故もってこのように我が前に戻ってきた。どの顔もって我が前に出おったか」
「わがかく戻り来たりしことこそ、陛下にお詫び申し上げ、そのお裁きに服さんがため。いかようのお怒り、ご処置あそばすとも、我に申し開きのありようもなし。またその心だになし。ただ恭順をもち、お受けするのみ」
「その図体ではその言のしおらしさも、一向にしおらしとは思えぬわ」
 イェラインは怒鳴った。これには思わず廷臣たちも失笑しかけたが、怒れる獅子を刺激してしまっては、とそれを何とか飲み込んだ。ずっと下手の方からシェリス伯爵が進み出てきて、アルドゥインの傍らに膝をついた。
「しばらく、しばらく。わが差し出口をお許しください」
「何だ、シェリス伯」
 イェラインはひどい仏頂面だった。
「とめ立て、庇いだて、仲裁いずれも無用、無駄だぞ。たって諫言せんというのならば我は我が身を剣で貫くぞ」
「陛下、どうぞ気をお鎮めあれ。さようの申されよう、日頃われらのお慕い申し上げるご仁慈、ご寛容の主君には似合わしからぬというもの」
「黙れ、シェリス伯。似合う似合わないでこのようなことをいたしよるものではない。余はわがメビウス皇帝としての体面、面目をこれなる馬鹿者に踏み潰されたからといってかように青筋立てているものではない。余とてもそこまで肚の小さい人間であるつもりはない。余にとって大切なのは信義、それのみ。だが、あえて言うぞ。こやつは、余の信を裏切り、かえって悪用したと」
「悪用とまで仰せられては、アルドゥイン殿も浮かばれますまい」
 ルーヴはおだやかに言った。
「たしかに陛下のご命令には背きましたが、それもひとえに彼のメビウスを思う切なる心ゆえのこと。そしてその彼の身を的としての英断と賭は見事実を結び、かくて今日の条約締結をみたのでありますから」
「言うな、ルーヴ・ラ・シェリス!」
 イェラインは叫んだ。
「たしかに余のもとには、ペルジア大公アダブル、将軍トティラ、宰相アヴィセンよりの連名の親書、ゼーア皇帝ウジャスどのよりの嘆願書、加えてペルジア大公よりの相互不可侵条約の誓約書がそなたの手からすでに届けられておる。これはメビウス一国としてみれば、めでたくもあり、かねてよりの懸念晴れて、中原の平和を保証する喜ばしい展開であろうよ。メビウス一国の外交の問題、とのみ考えるのならばな」
「御意」
「ならば問うぞ、シェリス伯。なれば――メビウス皇帝、我が父祖代々の玉座を守る、この我が身はどうなるのだ? むろん我が身一つの屈辱、怒り、面目なさはもはや問うまい。公人たれば私人としての感情はあえて度外視せねばならぬ。それもわからぬ余ではなし、また覚悟もある。だが、余の信頼――いや、亡きリュシアンのこやつめにかけた信頼はどうなるのだ? 余の悔しいのはそれゆえだ。こやつは、リュシアンが紅玉将軍として、私人としてかけた信頼を裏切り、それによって我が信頼を裏切る、二重三重の背信を犯しよったのだ」
「陛下」
 言い募るうちに、自分の言葉でまた激するのではないか、と心配したルーヴは何とか遮ろうとした。が、その時アルドゥインが軽く手を挙げてルーヴを止めた。
「シェリス伯、伯のお心、我には過ぎたるもの――我が身は伯のご厚情に値せぬ」
「アルドゥイン殿」
「どうかお取りなしは無用のことに。――陛下、我が唯一にして永遠の剣の主に申し上げる。このアルドゥインはいかなる申し開きもいたしません。お慈悲をたまわりたいと乞いもいたしません。何とぞ、ご存分にご処置を。それが、我が剣を捧げたる臣下としてとるべき道かと」
「おぬしはそのように言って、いかにも忠誠に振る舞うように見せて余を愚か者にせんと企むのだな」
 イェラインはますます激した。
「おぬしは、余の前におとなしく首を差し延べるほど、余が愚か者にして肚の小さい、おのれにふさわしからぬ君主だと、廷臣どもに見せ付ける、そういう結果になることを、ちゃんと承知しているのだ。そういう奴なのだ、おぬしは」
「陛下」
 アルドゥインは困り果てて、言った。
「では陛下は俺にどうせよと仰せられるのですか。いかようにも仰せのままに従うと申し上げておりますものを」
「それ、その口だ、それがいかん」
 イェラインは駄々っ子のように怒鳴った。
「お前は余の口から、かくかく処分すると言わせたいのだな。そうすれば必ずやシェリスのように、お前を庇いだてするものが現れようと思っているのだろう」
「とんでもない。むろん、陛下が我が死をお望みとあらば、ひとたび捧げた剣の誓いを違えはいたしません」
 言うなり、アルドゥインはさっと周りを見回した。
「シェリス伯、御免」
 すっと手を伸ばして素早くルーヴの腰の剣を抜き取る。
「我が剣の誓いはこのとおり」
 剣先を喉にあてがい、勢いをつけて一気に刺し貫こうとする。その手を、ルーヴは慌てて止めた。
「馬鹿な、アルドゥイン殿。早まるな」
「おとめだてあるな。これが、わが陛下への答え」
「アルドゥイン殿」
 列の中からたまりかねたように駆け出してきたのは、琥珀将軍ソレールだった。あまりにも体格が違う、文官のルーヴの手では止めかねるアルドゥインの手首を、彼はがしっと握りしめた。
「やめてください。僕の友情に免じて、その手を」
「放してくれ、ソレール殿。陛下は俺の死をお望みなのだ」
「アルドゥイン殿!」
「ソレール」
 かんかんに怒ったていで、イェラインは言った。
「放せ。死にたいと言うのなら好きにさせておけ。どうせ止めが入るのを計算ずくでの大芝居、まこと死ぬものか、とくと見届けてやるわ」
「これは陛下のお言葉とも思われぬ」
 ハヴェッド伯ヴラドが立ち上がり、甥の隣に立った。
「まこと芝居かどうかを見届けたあかつきに、我がメビウスにかけがえのない逸材、またなき忠義の士を失うなどというおろかしい危険を冒すわけにはまいりません。いかに剣の主といえども、さように人の心を試すなどとは人道にもとります」
「引っ込んでおれ、ヴラド・ラ・ツーリエロ」
 イェラインは怒鳴った。
「お前の出る幕ではない」
「いいえ、さようの理不尽のご命令に、いかに我が主とはいえ従う謂われはございませぬ。ハヴェッド伯ヴラド・ラ・ツーリエロより我が君イェライン・メビウス陛下にたってのお願いを申し上げる。アルドゥインの軍籍離脱、命令違反をご寛恕の上、そのお怒りをお解きくだされよ。お願い申し上げる」
「アルドゥインどのをお許しください、陛下」
 ソレールも叫んだ。そして伯父にならい、腰の剣を鞘ごと抜き、その中央を掴んで皇帝の方に差し出しながら跪いた。
「ヴラド、ソレール」
 イェラインが何か言いかける。
「陛下」
 ルーヴが膝をついた。
「このルーヴ・ラ・シェリスよりもアルドゥインのご助命、特赦、お願い申し上げます」
「陛下、翡翠将軍ロランド・ラ・サヴォリーよりもお願い申し上げます。どうか亡き舅、紅玉将軍リュシアン・ド・ディオンのかけたる彼への好意、また陛下への長き忠誠に免じ、何とぞ寛容なるご処置を」
「黒曜将軍よりも友にならいて。むざむざかようの逸材を失わしめるわけにはまいりませぬ」
 ざっ――とマントをひるがえし、四人の将軍と上官に倣う武官たち、そして文官たち――場の雰囲気もあったかもしれないが、メビウスの廷臣たちが次々立ち上がり、広間の中央にてんでに膝をつき、剣を差し出した。
「タギナエ候よりも」
「瑪瑙将軍もお願い申し上げます」
「ラガシュ伯よりも」
「護民長官ヒューディブラス伯よりも陛下にお願い申し上げます」
「陛下」
「陛下!」
 ソレール、ヴラド、ルーヴを筆頭に――翡翠将軍ロランド、黒曜将軍ベルトラン、瑪瑙将軍セレヌス、紅玉将軍の代理をつとめるアシュレー、――そして外交相アテススタン、タギナエ候ラザール、ラガシュ伯バートリをはじめ、メビウスの守護神たる廷臣たちが一斉に跪き、剣を差し延べているさまは一種異様でもあった。
 イェラインのおもてが、みるみる真っ赤に充血した。
「お、おのれらは――」
 この胸中をどう言い表してよいものやら、荒々しく肩で息をしながら怒鳴りつける。
「おのれらは衆をたのみ、この余を愚弄いたしおるか。ヴラド、ソレールはまだしも、ロランド、ベルトランまで――」
「背きはいたしませぬ」
 ソレールが悲痛とも言える声で叫んだ。
「何条もって」
「黙れ、ソレール」
「我ら一同の忠誠は永遠に陛下のものでございます」
 口々に、重臣たちは叫んだ。
「決して背きはいたしません」
「我らもっとも忠実なる陛下のしもべでございます」
「その我らの長年の赤誠をお汲みあって」
「何とぞご仁慈を」
「寛大なるご処置を」
「陛下!」
 イェラインは、ついに発する言葉さえ失ったように立ち尽くした。アルドゥインはうなだれ、何かに耐えてでもいるかのように肩を窄め、自らを取り巻くメビウスの人々の間に座り込んでいた。その様子は、まるで彼の長身が煙と消えるか、宮殿の床がぱっくりと割れてこの体を飲み込んでしまえばよいのにとでも望んででもいるかのようだった。
「陛下、彼を我らにたまわりたまえ」
「セレヌス、おぬしまでもか」
 むしろ哀しそうに、イェラインは言った。
「つねに心乱されることなく、世の人を超えたヤナスの視力を与えられていると、余が信じるおぬしまでもか」
 紅玉将軍の代理をつとめるアシュレーが剣を我が胸に突きつけた。
「アルドゥインはいずれメビウスの武の要となるべき者。いま彼を失いますよりは、このすでに老いたる我が身を代わりにお召しくださり、彼こそを生かしておいてくださいますよう」
「陛下――!」
 イェラインは唇を噛み締めた。が、またかっとしたように昂然と顔を振り上げ、マントを荒々しく引きずって、それにすがりついていた重臣たちを振り払った。
「ええいうるさい、ひかえおろう!」
 獅子吼とも言うべきイェラインの叱咤に、一同は一斉に平伏した。

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