前へ  次へ


                                 *



 ハヴェッドでの滞在は、そのように、アルドゥインにとってもソレールにとってもこよなく楽しいものとなった。
 ヴラドとソレールはアルドゥインが疲れを癒し、また咎めを受けた身を忘れていられるように、何くれとなく心を配り、毎日さまざまな趣向を用意してアルドゥインを訪れた。一日はハーヴェ湖に遊び、ゆたかな湖岸と漁の風光を愛で、新鮮な魚を賞味したと思うと、夜は湖畔の別荘に一泊して、翌日は舟遊びの楽しみをともにした。
 また、無聊をまぎらわすべくと称して彼を豊作を祈る祭に連れ出したり、旧州都ツーリエロを案内したり、美しい村娘をそろえてその歌と踊りをさかなに酒を酌み交わしたりした。日々のしたくは何不自由ないように調えられ、三度三度の食事はメビウス有数の食通であるハヴェッド伯おかかえの料理人が腕を振るった豪勢なものであった。
 しかし何よりもソレールとアルドゥインが喜びを見出したのは、さまざまの楽しみごとではなく、お互いの存在であった。
 慌ただしく知り合い、急激に友情を結んだ二人は、日ごとに心を通わせあい、より深く知り合った。二人はお互いの内に、共通すべきこと、共感する部分が多いこと、たとえ食い違うことがあってもそれは決して相容れぬものではく、より深い理解と議論に発展しうるものであることを見いだした。
 ソレールは語ることを好み、かつアルドゥインが語るときには喜んで熱心に耳を傾けた。アルドゥインはもっぱら聞き役だったが、求められればいくらでも雄弁になった。ソレールはアルドゥインの博識と洞察力、思考力に感嘆し、アルドゥインはソレールの、その若さにしては深い教養と素直で柔らかな心に驚いた。
 どちらも、深更まで語り合って倦まなかった。二人は基本的に朴訥であり素朴であり、武人であった。そのことが余計に二人を強く結びつけた。そして、彼らはかつてない親しみと楽しみを、付き合いのうちに見出したのだった。
 しかし楽しみというものは長く続かないというのが世の常で、ハヴェッドにおけるアルドゥインの心なごむ日々というのは結局のところ一月も続かなかった。メビウスの短く慌ただしい春のハヴェッドを過ぎる前に、オルテアからの使者がレウス城に着き、ヴラドに、メビウス皇帝の名においてアルドゥインをオルテアに、裁きのために護送すべし、という命を伝えたのである。
「何だか僕は、楽しい蜜月を無粋な使者に邪魔されたような気分ですよ」
 ごく控えめにソレールは嘆いた。
「陛下がアルドゥイン殿を実際に罰するような無法は決してなさらないと信じてはいる。それにしても貴殿がこのレウス城にいた間、何となく、貴殿を独占しているという、何とも言えず幸福な心地だったよ。貴殿は笑うだろうが」
「笑いはいたしません」
 ヴラドの言葉に、アルドゥインは何となく考え込むように答えた。
「ですがなぜ伯もソレール殿も、そのように俺によくしてくださるのか」
「それは、あなたにそれだけの価値があるからですよ!」
 ソレールは陽気に言い放った。
「貴殿は決しておのれでは認めぬだろうが、貴殿に周りが良くしようというのは、ただ純粋にそうしたいからにすぎないよ。貴殿にはそうさせる魅力がある。とまれオルテアに戻ってからも貴殿には色々あるだろうが、その時にはどうか、この私のハヴェッド伯としての力、ソレールの琥珀将軍としての力を少しでもいいからあてにしてくれ。でないと貴殿と楽しく過ごしたこの日々は全て貴殿の情けに過ぎなかったと思ってしまうだろう。私も、ソレールも」
「そのようなことはございませんが、伯は俺をたくさんのことを教えてくださると思います。俺はどうも、陛下がどのようにお怒りになっているものか、そのお心を解くにはどうすればよいのか、よくわからぬのです」
 そんな会話を交わした翌日、奇しくも正義と裁きの神ヌファールの守護月、四月一日の朝早く、彼らは長い行列を仕立ててオルテアへ向かったのであった。
 レウスからオルテアまでは、馬でも半日と少ししかかからない。決して長い行程ではない。その短い旅の間、ソレールは一刻でも離れるのが惜しいというようにアルドゥインと馬を並べ、話を続けていた。
 そうするうちに一行は美しいハヴェッドの森林地帯、湖畔を抜け、首都オルテアへと入った。
 いきなりアルドゥインを驚かせたのは、オルテア郊外に入った途端に街道の左右から打ち上げられた、ケムリソウの花火だった。
 街道沿いから駆け上がってきた農民たちが、アルドゥインの手に自ら収穫したアーフェルの乾果や、カディス酒のつぼの貢ぎ物を押し付けようとする。彼らの顔は火照って輝いており、新たな英雄を迎えたことに有頂天になっているように見えた。
「エール・メビウス!」
「エール・アルドゥイン!」
 間歇的にではあったがその叫びが上がり、アルドゥインのオルテア入りを迎えた。皇帝の御座所、光ヶ丘に近づく頃には群衆の数は何千とも知れぬほどになり、手に手にメビウスの小旗を打ち振り、メビウス特有の「エール!」の叫びを上げていた。
 そのさまはどう見ても皇帝に背いた罪人ではなく、凱旋の大将軍を歓迎する熱狂する市民の群れでしかなかった。華やかな群衆に迎えられて、ハヴェッド騎士団千人に守られたアルドゥインとヴラド、ソレールとは光ヶ丘を登り、懐かしいオルテア城の前にたどり着いた。
 彼らには、西のサーライナの門から入り、そののちただちに水晶殿・水晶の間に出頭するよう、との命令が下っていた。きわめて身分の高い貴族や重大な犯罪が裁かれるときに使われるこの広間に出頭を命じられるというのは、アルドゥインにとって決して幸先が良いとはいえなかった。
 が、その陰りも、すでに第二の故郷と思い定めたオルテアに戻ってこられたのだという喜びの前ではアルドゥインの胸を重くするまでには至らなかったようだ。アルドゥインは運命を全て受け入れた人間の持つ朗らかさとおおらかさでもって、きわめて静かに落ち着いていた。
 すでにアルドゥインの帰還、そのペルジアにおける行動、成果、武勇伝のほどはオルテア城じゅうに知れ渡っているものと見える。植え込みのかげから、神像を彫り込んだ太い柱のかげから、女官や廷臣たちがひそやかに手を振る姿がいくらも見えた。
 ヴラドは騎士団を騎士宮にまわらせ、一個小隊のみをともなってアルドゥインをひとまず水晶の間に程遠からぬ控えの間に落ち着かせた。そこにソレールが付き添っていたことは言うまでもない。
 控えの間に入って、彼らが旅装――というほどのものでもなかったが――も解かぬうちに、小姓が慌ただしく、内密の面会の来客があることを告げた。ヴラドが急いで出ていったが、すぐに戻ってきた。ヴラドの後ろから、細く開けた戸をするりと抜けて入ってきたのは、一人だけではなかった。
「セレヌス殿」
「おやおや、ソレール。私がいてはそんなにおかしいか?」
 ソレールはびっくりして口をぽかんと開けてしまった。瑪瑙将軍セレヌス・ド・アエミリアヌスはほんの挨拶に来たと言わんばかりの、涼やかな顔をしていた。
 二人の青年がセレヌスに続いていた。二人とも三十を少し出たくらいである。茶色の髪を後ろにぴったりと撫で付けた青年は黒い将軍の礼服を、赤みがかった金髪の青年の方は深緑の礼服をまとっている。アルドゥインには初対面だったが、彼らが将軍であることは間違いがないようだった。
「我らが英雄に、裁きの前にどうしても会っておきたいと、お二人が言うのでね。私が案内つかまつった。ソレールだけにいい格好はさせられぬよ」
「貴殿がアルドゥイン殿か。俺は黒曜将軍ベルトラン・デ・ローシュ」
 茶色の髪の青年のほうが先に名乗り、アルドゥインに握手を求めた。
「私は翡翠将軍ロランド・ラ・サヴォリー。ディオン将軍が亡くなったことはもう聞き及んでいるとは思うが、これは貴殿にとってかなり不利だ」
 彼らは、余計な言葉で時を無駄にすることはしなかった。ロランドは困ったように眉をひそめた。
「義父上(ちちうえ)は貴殿の帰るまではと頑張っておられたのだが、ヤナスの天命には逆らえなかった。――ともあれ、貴殿が君命に背き、タギナエ国境を越えた事情を申し開きできたのは義父上一人だけのはずだった。だが義父上が亡くなられた今、貴殿の口から申し開きをするしかなかろうが……」
「ディオン殿はロランドの岳父であったのだよ」
 言葉から何となく察することができたが、ロランドとリュシアンの関係がよく分からないアルドゥインに、ベルトランが親切にもそっと教えてくれた。ロランドは続けた。
「我ら国の守護神をもって任じる者にとっては、貴殿の行動はことごとく正しい。メビウス軍籍を離れたことも、イズラルまでも長駆して、ペルジアの脅威を半永久的に取り除いたことも、我々は高く評価している。終わりよければ全てよしという、アルカンドの格言そのままにな」
 ロランドが言葉を切ると、ベルトランが言った。
「まあ、だからわれわれ五大将軍は――ディオン殿がおられぬのはいかにも痛いが、貴殿を全面的に支持している。われわれは貴殿の味方だよ、アルドゥイン殿。が、ここに一人、そうはできぬ者がいる」
「……イェライン陛下ですね」
 セレヌスが頷いた。
「そのとおり。陛下は我々とはお立場が違う。陛下はメビウスの太守として全軍に叱咤し、かつ国策を決定する権利を持つ唯一のお方だ。よし陛下ご自身が考えてなさる決断が、結果貴殿に、貴殿がしたのと寸分違わぬ行動をとれというものだったとしても、陛下はまず、それをおんみずからご下知しなければならない。――言葉は悪いが、貴殿が勝手に行動しては、陛下の国主としての立場が成り立たなくなる」
「――と、そういうことだ、アルドゥイン殿。とはいえ、陛下は稀に見る心の広い、寛大な君主で知られ、われわれも物分りの良い君主に恵まれて幸せだと思っていた。が、今回のこのお怒りの激しさは、我々といえども意外だった」
 ロランドは長い、顔の両脇に垂らした前髪をひょいと払った。
「無理もございません。寛大な君主であればこそ、その寛容を利用されたとお感じになられた時のお怒りは深かろうかと」
「俺は、決して陛下に失望したとかは言わぬがな」
 ベルトランは三人の将軍仲間と目を見交わして、にやりと笑った。メビウス国民は忠誠の心篤くはあったけれども、無批判、無自覚に受け入れ、たたえるということは決してしない人々だったのである。
「それにしても少々驚いたのは事実だ。イェライン陛下がここまで、君主としての権威、体面にこだわるものかとな。しかしそんなわけで、俺たちをはじめ宮廷の者は皆、貴殿を罰するどころか褒賞を与えてしかるべきだと考えているが、陛下もそれを感じるのでいっそう意地になっておられるようだ。そこであまりわれわれ廷臣が強くいさめるようなことはできない。――とまあ、大雑把に言ってこんな所になっているのだ」
「……」
 六人がそれぞれに何となく顔を見合わせているところへ、また小姓が入ってきた。
「メビウス皇帝イェライン陛下、水晶の間にて罪人をおん自らご糾問なさります」
「承った」
「アルドゥイン殿はこちらへ。ツーリエロ伯、ならびに将軍の方々は水晶の間へお運びください」
「わかった」
 ソレールは気掛かりな目をアルドゥインに向け、先達たちに続いて先に控えの間を出ていった。
 アルドゥインは小姓に導かれるまま、裏手の狭く暗い廊下を抜けて水晶の間に向かった。そこは罪人が人目にふれぬように護送される道で、ふだん廷臣たちが決して通らぬ通路であった。
「メビウス、もと千騎長アルドゥインを連れ参ってございます」
 小姓が、突き当りの重いビロードのカーテンを開き、膝をついて言上した。
「通せ」
 響きの良い、重々しい主君の声。
 アルドゥインは頭を垂れ、右手を胸に当てて臣下の礼をとりつつ、小姓に導かれるまま水晶の間に入り、中央あたりに片膝をついた。周りには多数のメビウス廷臣が居流れ、皇帝の手前、どのように取り成したらよいのかとそわそわしているらしいのが感じ取れたが、誰の姿もうなだれているアルドゥインの目には入らなかった。
 ただ、たかぶりを抑えたざわめき――そして沈黙。
 その中で、その声が響いた。
「おもてを上げよ、アルドゥイン」
「は――」
 アルドゥインは暗い廊下からいきなり光のあふれる広間に出たので、まだ目が眩んでいたが、それでもまっすぐにおのれの剣の主をふりあおいだ。

前へ  次へ
inserted by FC2 system