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     父母はいずれ喪われようもの
     妻はまた娶れようもの
     子もまた得られようもの
     しかし友は
     ひとたび失われれば二度と得まじきもの
                   ――ラダマントス




     第一楽章 オブリガード




 結局アルドゥインは、タギナエに帰還してピウリにまだ席の温まるいとまもないままに、急遽ウィルフレッドとその一個中隊に護送されて、さらに北、オルテアに近いハヴェッド伯領におもむくこととなったのだった。
 ヴェルザーのセリュンジェはなお本心からアルドゥインと引き離されることについて得心してはいなかったが、アルドゥインが強く、こうした場合の副官の義務として、彼に代わって全軍の指揮を取り、代理の指揮官としての役目を果たしてくれるようにと慫慂したので、ようやく渋々と任務に全力を尽くすことを誓った。もっとも、こうなると判っていたら決して副官などにはならず、一従者として従うのだった、と最後までぼやくのだけはやめなかったが。
 しかしウィルフレッドはたいへんに先を急いで焦っていたので、充分にアルドゥインたちの心情を汲み取ってくれたとはいえ、やはり必要な準備ができるだけの時間しか与えなかった。長い旅から旅で、べつだん荷物というほどのものもない。アルドゥインはいつもの馬の鞍に結び付けている寝具や食器、ごく少しのものを持っただけで、再び馬上の人となった。
 苦楽を共にした全軍五千の騎士たちと名残を惜しむ暇すらなかった。またウィルフレッドにしてみれば、そのようにして部下たちの感情が激して、そのままメビウスへの離反、あるいは反逆行為に走ることがあるのでは、という懸念が大いにあったに違いない。
 アルドゥインは夕刻、それもだいぶ暗くなってから、ピウリの村長、セリュンジェ、ヤシャルらおもだった顔ぶれのみに見送られて、ひっそりとピウリを発った。縄目こそかけられはしなかったが、周りを厳重にウィルフレッドの率いるハヴェッド伯騎士団にかためられ、これが昨日までの大将軍の姿であろうかとセリュンジェたちの憤激を誘った。
 しかしアルドゥイン自身のほうは、細かいことはあまり気にかけていないようだった。セリュンジェたちに別れを告げ、一団が動き出すと、もう後を振り返ることもなく、穏やかに馬をうたせていた。既に日は暮れて、山並みは黒い影絵となっていたが、しかしアルドゥインは何となしに、生きて再びメビウスの大地を踏んでいるというだけで充分に心和む様子であった。
 その夜はレント街道沿いの、名も知れぬささやかな宿場に一泊し、翌日の朝まだきに発って、昼過ぎにオールーズの町を越え、ハヴェッド伯領に入った。そこでさらに一泊し、州都レウスに入ったのは翌日の午後、夕方も近くなってのことであった。
 ハーヴェ湖とハヴェッド森林に沿って広がるハヴェッド伯領の、真ん中あたりにレウス市がある。
 そこはたいへんに気候のよいところで、また森と湖と川に恵まれて、メビウスの中でも風光明媚をもって知られる所であった。レウス城から湖畔の街、かつての州都ツーリエロにかけては、馬でハーヴェ湖に出れば舟遊びや魚釣りなど、様々の遊びを楽しめるところから、皇帝の別荘、貴族たちの別荘などが点在し、避暑地――といって、メビウスの夏は避暑を必要とするほど暑くなりもしなかったので、それはまったく、ただの気晴らしのため以外のなにものでもなかったが――として名を成していた。
 道中、アルドゥインは馬上から興味深そうに辺りの様子を眺めつづけていた。知ってのとおりアルドゥインはメビウスに来てからまだ一ヶ月も経たぬうちに戦争に駆りだされ、知っているところといえばクラインからの街道筋と、オルテア市内しかなかったので、他の地に足を踏み入れるのはこれが初めてだったのだ。
「この辺りは、美しいところでありましょう、アルドゥイン殿」
 ウィルフレッドも、上使にたちはしたものの、アルドゥインに対して好意を寄せていたので扱いも丁寧だったし、道中はアルドゥインと馬を並べ、よもやま話など交わしながらの旅であった。
「右手に見えるのはハーヴェ湖の湖面です。我々はレウス城に泊まりますが、もっとゆけば湖畔で魚を捕る風景や、オルテアに魚を運ぶ樽馬車などの珍しいものもごらんいただけます。さらに森近くには、皇帝や貴族の別邸が並んでいて、非常に美しい眺めを作り出していますよ。この辺りは画家たちがもっとも好んで絵の題材にしたがるところです」
「たしかに美しい」
 アルドゥインは目を細めた。
「それに空気もよく、こうしていてもさわやかで。ウィルフレッド殿、やはりメビウスはよいところですね」
 アルドゥインの胸にあったのは、つい先頃まで、短くはあったが滞在していたペルジアの風物であったのに違いなかった。
 ペルジアとてむろん、美しいところも観光名所もありはしたのだが、それにしてもメビウスの方が万事にわたって好ましいと思うのは、決してアルドゥインのひいき目だけではなかった。
 何よりもこの国には、木々の一本一本にいたるまで、厳しく若々しい生命がみなぎり、緑も、黒土も、山々も空も、何かしら古くてよどんだ頽廃の都とはまるで違う、清々しいばかりの勢いを持っていた。
 やがてレント街道の行く手に、暮れはじめて赤みを帯びた陽光に照らされて、それほど大きくはないが美しい石造りの城がくっきりと浮かび上がってきた。
「レウス城です」
 ウィルフレッドが教えた。少なくとも、ハヴェッド伯ヴラドは、アルドゥインを罪人扱いで迎える気は全くないらしかった。レウス城は明々と松明とかがり火を飾り付けられ、まるで祭のようだった。城外の青々とした麦畑では、働いていた農夫、農婦らが手を止めて、一行に手を振って出迎えた。
 護送役の騎士が跳ね橋の向こうで上使到着を呼ばわると、すでに下ろされていた跳ね橋の向こうから、ずっと待ちかねていたらしい一隊がわらわらと出てきた。重々しい、板を叩く蹄の音が響く。アルドゥインとウィルフレッドが真ん中辺りまで来ると、その人々の中からとりわけ身分の高そうな中年の男が歩み出てきた。
 白髪が増えたためか、栗色がかった金髪はところどころ白っぽく筋が入っている。髪の色は薄かったが、意志の強さを表すようにくっきりとした太い眉はほとんど栗色に近かった。瞳は薄い青のような灰色をしていて、馬上のアルドゥインと向かい合うとにっこり笑って手を差し出した。
「ようこそ、我がハヴェッド、レウス城へ。凱旋の大将軍を、城をあげて歓迎いたしますぞ、アルドゥイン殿」
 アルドゥインは慌てて馬を下り、深々と礼をした。ウィルフレッドも馬を下りた。
「お初にお目にかかります、ハヴェッド伯」
「こちらこそ、アルドゥイン殿。役目ご苦労だった、ウィルフレッド。騎士宮のほうでねぎらいの宴の支度ができている。さあ、入られよ、アルドゥイン殿。どうせあの恐るべきペルジアではろくに口に合うものもなかっただろう。今朝、領内で一番みごとな牛をほふらせ、大かまどで丸焼きにさせておいた。名物のワインもあるし、誰でも珍しがるくるみと松の実の料理、《ハラン》もある。さあ、入ってくれ!」
「は……伯」
 アルドゥインは呆気にとられてしまった。
「俺は罪人としてここに護送され、ハヴェッド伯預かりとなった身、このように客人としてもてなしていただけるような身ではございません。皇帝陛下のお耳に入りましたらば、伯がどのようなお咎めを受けるものか……」
「エール・メビウス」
 ハヴェッド伯ヴラド・ラ・ツーリエロは朗らかに笑った。
「陛下はもと千騎長アルドゥインを我が預かりにせよと命じられただけで、牢にぶち込めなどとは命じられていない。だから歓待するも自由ということだ。実のところ、ここだけの話、陛下はそれほどお怒りというわけではなく、ただ体面が必要というだけのことのようだ」
 そこでいったん言葉を切り、ヴラドは初めて会ったとは思えぬほど親しみのこもった笑顔を向けた。
「ともあれ、このハヴェッドは美しいところだよ。ゆるりと旅の疲れを癒されるがよい。貴殿が来るのを心待ちにしていたのは私だけではないのだよ」
 馬を厩舎番に渡し、ヴラドに導かれてアルドゥインはいよいよレウス城に足を踏み入れた。二、三度伺候したオルテア城や、ヒダーバード城、碧玉宮のような王侯の豪奢はなかったが、大きさといい装飾、調度といい、ゆきとどいた居心地のよさが感じられる城だった。
 この時代の邸宅の常として、吹き抜けになった広い玄関に、二階の廊下から左右に階段が伸び、中央正面の扉はおそらく食堂か広間になっているのだろう。アルドゥインはそこから右に入って、客用広間に通された。
 窓からは雪のすっかり消えた庭を見ることができた。目を凝らすと、枯れているように見える木には小さな芽吹きの緑がふくらんでいる。ヴラドはアルドゥインの服をゆったりとした新しいものに着替えさせ、熱いワインを持ってこさせた。
「さあ、まずは歓迎の一杯といこう。このネーヴェはハヴェッド名物でね。薬草がいろいろ入っている。身体が温まるよ――貴殿は南方の出身だから、この気温でもこたえるのではないかな」
「お気遣い、かたじけない」
 じっさい暖炉に火が入れられていても寒いと感じていたアルドゥインは、この好意をありがたく受け取った。ソファにゆったりと座り、ヴラドもワインをすする。
「しかし、貴殿にまみえるのはこれが初めてだが、私はいっぺんで貴殿が好きになったよ。何と言うか、貴殿には誰をもひきつけるものがある。それが……」
 ヴラドが言いかけたところで、いきなり扉が物凄い勢いで開かれた。アルドゥインもヴラドもびっくりして、ソファの上で飛び上がりかけた。実のところ、走ってくる足音というものが近づいてきてはいたのだが、まさかそれがこの部屋めがけたものだとは思っていなかったのだ。
「ようこそ、アルドゥイン殿!」
 一陣の風かはたまた狼のように勢いよく飛び込んで来たのは、アルドゥインにとって意外すぎる人物だった。
「シュ……シュネー将軍……」
 ソレールはまさにじゃれつく犬といった感じで、ダンスでもしかねない軽やかな足取りでアルドゥインのソファに駆け寄った。
「驚かれましたか?――驚かれたでしょう!」
 目が点のようになっているアルドゥインをよそに、ソレールは大はしゃぎだった。ヴラドがたしなめるように咳払いするとやっと落ち着いた。
「申し訳ない、アルドゥイン殿。全く、二十歳にもなって、大きくなったのは体ばかりで子供と変わらぬ」
 ちらりとソレールを見上げ、ヴラドはいくぶん呆れたようすだった。
「いや、そのような……」
 なぜハヴェッド伯の所に琥珀将軍がいるのか、アルドゥインにはまったく判らなかった。首を傾げていると、ソレールが楽しげに言った。
「シュネー家はハヴェッドに領地があるんですよ。それに僕の母はパルテロットというのですがね、前の姓はツーリエロなんです」
「これの母は私の妹で、つまりは私の甥と言うわけでね。今回のハヴェッド伯預かりと言うのも、ぜひそうしてくれ、とこやつがせがんだのですよ。どうやらソレールはよほど貴殿に惚れこんでいるらしい。貴殿に会ってみれば、それもむべなるかなと思ったがね」
「と、いうわけです」
 ソレールはにこにこして、向かい合っているアルドゥインとヴラドのソファの、間に置いてあるソファに腰掛けた。
「あなたを縄目にかけて連行せよとはとんでもない。皇帝陛下は、融通がきかないんですよ。ディオン殿と同じでね。内心では軍律違反くらい、今回の功績で帳消しにしてもいいだろうと思っておいでなのに、あなたを逮捕せよなんて仰せになる。まあ、だから僕が琥珀将軍としてとりなし、伯父上から陛下にお願い申し上げていただいて、ハヴェッド伯預かりということで凱旋将軍をお迎えしようと思いましてね」
 あまりソレールがずけずけと言うので、アルドゥインはまたびっくりしてしまった。だがともかく、どうして自分がハヴェッド伯預かりという不可解な処遇になったのかということは理解できた。
「ですからアルドゥイン殿、ここではひとまず全てをお忘れになって楽しんでください。ペルジアは凄いところだったのでしょう」
 それから、ソレールはちょっと恥ずかしそうに、白い頬を赤らめた。
「ペルジアでは、リール公女とトティラ将軍との御前試合二番をなさったそうですね。――のちほど、僕とお手合わせ願えないでしょうか?」
「これ、ソレール」
 何を言うのか、というような顔をヴラドはした。この若い琥珀将軍が伯父のところにアルドゥインを預からせようとした動機には、どうやらこの目的も大いに働いていたらしい。だがアルドゥインはソレールの飾らない言葉や態度にたいへん好意を持つようになっていたので、快く承諾したのだった。

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