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 アヴィセンはかまわずに続けた。
「これでいささか先の見通しが、いや、風通しがよろしゅうございます。――いっそあやつ、あのまま再起不能ということになるならば」
「馬鹿を申せ。彼あっての我が国の守り、彼が倒れたとあらば一体、列強がどのようにペルジアに牙を剥いてくるのか、知れたものではないわ」
「それはそうで――こういうのを、諸刃の剣と申すのでしょうな」
「あのアルドゥインが、我が臣下に入ってくれるならばな、それはむろん喜び迎えるが。――しかしなんと申せ、あの娘ではな……。やると言ったら、それならば遠慮すると言われそうだ」
「御意――あ、いやいや、とんでもない」
 アダブル大公は、アヴィセンの言葉を聞いていない様子で、滅入ったように言った。
「せめて一人でも、十人並みの娘がおればの」
 大公は面白くなさそうにリールの、着飾った山猪のような後ろ姿を見やった。
「一体、どちらの誰に似たものやら。――いやいや、わしではない。断じてわしではないぞ。……わしは前から思っていたが、わしはこう申しては何だが、並外れて醜男というわけでもなし、娘どもが三人が三人ともああいう
―一体あの女め、どこからあんな種を貰いおったか、ということだな……せめてもっとましな娘だったなら、許しようもあるが……うーむ、腹立たしい」
 大公は刺すような目つきで、大公妃をにらみやり、どうせおおかたトティラあたりの子種だろう、と口の中で付け加えた。幸いファレンの方は、あのぞっとするような塔の中でのなぐさみの事を思い浮かべてうっとりしていたので、良人のその蔑みと猜疑の目には気付かなかった。
 メビウスの清新の風が闇を吹き払い、つかのまの爽やかな風をもたらしたこの古いよどんだ国に、しかしまたゆっくりと、ヘドロが広がるように倦怠と老耄と沈滞が広がっていこうとしていた。
 ただ初春の空だけがいたずらに青く、さえざえと、はるかメビウスまで続いていた。
 はや、アルドゥイン軍を引き止めるものは何もない。
 北へ――北へと。
 ふるさとメビウスを目指し、ひたすら心も、身も天翔けるようだ。
 一夜引き止めるウジャス皇帝の請いを容れてさらにヒダーバードに滞在したのち、その朝まだき、別れを惜しむ老帝と老臣たちに、霧の中を見送られ、彼らはさらに北へと旅立った。
「ありがとう、ありがとう、アルドゥイン。おぬしのおかげだ。何もかも」
 ヒダーバードを発つ日、アルドゥインの手を握り締めてウジャスは言った。
「何を言われる、陛下。俺は何もしておりません」
「何の。こうしてまた、無事にヒダーバードの地に帰れたのもみなそなたの力――わしは出るとき、もはやここに戻ることはあるまいと、遺書をしたため、死出の衣装を調えて出たのだよ、アルドゥイン。――その上、もう二度と見られまいと思っていたイズラルの市城をも、見るを得た。もうわしは思い残すことはない。――のう、アルドゥイン。わしはもうまもなく八十の齢を数える年寄り、おそらく今こうして別れて、また会う日はあるまいが、わしがこれから死の日まで、一日としてそなたを思い出さぬ日はなく、一日としてこの城で、そなたの名が口にのぼらぬ日もないだろうよ。――アルドゥインがああ言うた、こうした、ああした、あの時アルドゥインがいなければ、あの時アルドゥインがこうしてくれなば――年寄りには、その目は過去にしか向いておらぬもの。わしら老人は、これから死の時まで、生涯の最後にあたってのこの大冒険を、何度となく反芻し、思い出にふけって、そうして死ぬだろうよ」
「陛下……」
「わしのような者には、定命による死は休息――我が訃報が届きしおりには、手向けも不要、追悼の使者もいらぬが――ただほんのときたま、茶飲み話になり、わしというものと相知った短い日を思い出してやってくれ」
「御意。――さらば、これにて」
「おう、アルドゥイン。今生の別れだ。名残は尽きぬが、達者で暮らせよ」
「陛下こそ、ご長寿をお祈り参らせる」
「なんの、もう充分と思えてきたよ」
 ウジャス帝は目を閉じ、数奇かつむなしい我が一生を、思い巡らすかに見えた。
「おぬしは、わしとは違う。――幾星霜の果てに、おぬしが求めるものを得、魂の安らぎ処を見出せるようにな」
「ヤナスに栄光あれ」
「ヤナスは全てを知りたまい、織りたまう。ヤナスに栄光あれ。さらばじゃ、アルドゥイン」
「さらば、おいとまを」
「アルドゥイン――」
 おそらく老帝は、また会う日を、というむなしさに気付いたのだろう。言おうとして言葉を飲み込み、その老いた目が涙に潤んだ。
「アルドゥイン、生涯の最後に、おぬしと相知れて、わしはよかったぞ」
「……」
「達者で――息災でな」
 名残は尽きない。
 が、今は、心は――風は北へと吹いてゆく。
 北へ――北へ。
 哀しみのヒダーバードにも、彼らは別れを告げた。
 ひたすらに北へと戻ってゆくその行軍の途中、もう一つ、ささやかなエピソードがあった。
 イズラルにほど近いナラ、その近郊の小さな村アゼル。
 そこを、来たときと同じように疾風と化して、白き獅子たちが駆け抜けようとした時である。
「しばらく――しばらく。メビウスのお客人方、しばらくお待ちくださいませ」
 ルシタニア街道にずっと待ち受けていたらしい、アゼルの村長とおもだった村人たちが、てんでに駆け出してきて平伏したのであった。無視して突っ切るほど非情でもない彼らはいったん全軍停止した。
「アルドゥイン将軍閣下に申し上げます」
 村長は、おそらくこの時のために前もって、何テルもかけて暗記したに違いない口上を述べた。
「過日わが村をご通過あそばされましたときには、わが村の幼き小童をお助けくださり、また略奪などの無体もなされず、たいへんお情け深きなさりように、村人一同、心より御礼を申し上げたく、お帰りお急ぎとは存じましたが、かくはこのようにお引止め申し上げました。――これはアゼルの村民よりの、心ばかりの感謝の印でございます」
 村長が合図すると、人々はわらわらと手に籠や袋を持って出てきて、てんでに兵士たちに差し出した。籠には乾カディス、アーフェル、小さな麦の団子や乾果を詰めた固いケーキや、くず肉を詰めたプディングが入っていたし、袋には、アーフェル水やカディス酒の水で薄めたものが入っていた。
「おお、これはかたじけない。――せっかくの収穫をこのようにたくさん頂戴しては申し訳ないことだが、そなたたちの厚情、身にしみたゆえ、ありがたく頂かせてもらうとしよう」
 アルドゥインはおおらかに礼を言って、部下たちに受け取らせた。それからセリュンジェを振り返り、金二袋を村長に取らせた。
「代金というわけではないが、おぬしたちの厚情への礼だ」
「これは、何といたしたら……」
「将軍さま」
 村長を押し退けるようにして出てきたのは、いかにもこのあたりの農婦らしい、しかし新しい前掛けと、かれら農民にとっては精一杯の晴れ着であろう祭りの衣装をまとった女だった。
「お助けいただいたバリスタとアルドの母にございます。その節はありがとうございました。おかげさまで、我が子のすでにない命、お救いいただきました」
 カイエンヌはむせび声で言い、アルドゥインに弁当の籠と、馬のたてがみに編みこむ花綱とを差し出した。けっして贅沢なものではなかったが、それ以上に心のこもったこの贈り物をアルドゥインは丁寧に受け取った。
「これはかたじけない。バリスタとアルド――だったか。あれは良い子達だ。元気にしているか」
「は、はい」
「アルドゥイン」
 母親のスカートのかげから、ひょいと利発そうな、二つの顔がのぞいた。
「バリスタ、アルド、また会ったな」
 彼らのようすに、アルドゥインは微笑を禁じえなかった。
「お前たち、あれから母を困らせるような悪さは何もしていないか」
「してないよ!」
「ねえ、兄ちゃん」
 二人は口々に言い、頷きあってから首を振った。
「アルドゥイン、おれたちね」
 バリスタは馬上のアルドゥインに小さな手を差し出した。
「あんたにひとこと、言いたいことがあって、連れてきてもらったんだ」
「何だ? 礼なら、もう充分だ」
「違うよ」
 今度はアルドが言った。そして二人は胸を張った。
「おれたち、いつかあんたの所に行って、あんたに剣を捧げて、あんたのためにたたかう兵隊になるよ。早く大きくなって、強くなって、賢くなって――そんで、あんたのいるメビウスにゆくからね」
「だから、それまでぼくらを待っててよ。覚えていてよ、アルドゥイン」
「いいとも」
 アルドゥインは優しく目を細めた。しかしそのおもてには心なしか悲しげなものがあった。彼はどことなく沈んだ声で言った。
「だが、バリスタ、アルド。俺は本当を言えば、お前たちには兵隊にとられることもゆくこともなく平和に暮らしていてもらいたい。できれば人は殺しあうようなことなど無い方がよいし、ふるさとから遠く離れ、若い命を落とし――異国の地に屍をさらすようなことは、産んでくれた母に申し訳のないことだ。人は人を殺すためにも、殺されるために産まれてきたのでもないのだからな」
「……」
 バリスタとアルドはアルドゥインの言ったことがあまりよく理解できず、ちょっと首を傾げた。周りで聞いていた大人たちは、騎士団の者も村人たちも、まさか一軍を率いる立場の彼がそんな事を言うとは信じられないようで、びっくりしたようにアルドゥインを見た。
「お前たちには――まだ難しいかもしれないな」
 自分でひたりかけてしまった悲哀を振り払うように、アルドゥインは微笑んで子供たちの頭を撫でた。
「あと十年して、俺のいま言ったことを理解し、それでも、というのならば来るがいい。――アゼルのバリスタ、アルド」
「うん。その時は、おれをあんたの副官にしてよ」
 ちゃっかりとバリスタが言った。アルドゥインは思わずといったように笑った。その後ろで、セリュンジェは口の中で「なんてあつかましいガキだ」と毒づいた。
「よかろう。ではそれまでに良く食べ、母の言いつけを守って、賢く、強くなっているんだぞ。俺もお前たちの無事を祈ろう。――いいな」
「うん!」
「うん!」
 バリスタとアルドは目を輝かせた。
「では、出発するぞ」
「全軍、進軍開始――!」
「アルドゥイン!」
 幼い兄弟は母親に街道から引き下ろされながら、なおも名残惜しげについて走ろうとしたが、馬の蹄が埃を巻き上げながら速度を増してゆくのを見てようやく諦めた。そして口に手を当てた。少年の叫びが風に乗って、いつまでもアルドゥインの耳に残った。
「待っててね、アルドゥイン――!」
「おれたち、あんたが大好きだよ――」

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