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     そして彼はかくも多くの事どもをなしとげ
     かの古き都をあとにしたのであった。
            ――アルドゥインのサーガ




     第四楽章 軍隊行進曲




「では――大公閣下」
 イズラルの空はさわやかに晴れ上がっていた。
 芽吹き始めた新緑の風が、ようやく訪れた春を感じさせて、青都イズラルを見下ろす小高い丘に吹いて過ぎる。
 イズラルと碧玉宮、またそこに住まう古い国の人々は、何か、自分でもよくわからない長い悪夢から覚めた人のように、年老いて古びた血はそれなりに、精気と明るさを取り戻していた。
 むろん、それがこのところずっとイズラルに巣食い、人々の心を左右していた妖しくも巨大な闇の力――コルネウスがイズラルとペルジア宮廷を利用するのを諦めて撤退したゆえと知るものは、ひとりアルドゥインを除いてはいない。
 しかし、イズラルの人々のおもては、どこかしら晴れやかであり、いくぶん若さをすら、取り戻しているかに見えた。
 まもなく、秋の豊かな収穫を願って行われる、緑の祭もやってくる。その時には人々はみな緑の衣装を身にまとい、夜っぴて市街を練り歩いて、ヤナス十二神の像に花を飾り付けた山車を引き、そしてカディス酒、火酒に酔いしれるのだ。
 その思いが、宮廷人たちをも心浮き立たせているようだ。
「では、これにて」
「おう、もう行くか、アルドゥイン」
 アダブル大公、ファレン大公妃、アヴィセン宰相、そしておもだった武官、文官らが、わざわざ市の外れの丘まで、メビウスからの客人を送りに出向いていた。
 ひとりトティラ将軍の姿だけが見えない。彼は、昨日のアルドゥインとの試合においてだいぶひどく首と腰を傷め、そのまま担架で運び去られたが、かなりの痛手であったと見えて、その夜の送別の大宴にも出席せず、今日も副官を代理に差し向けたなり、屋敷に閉じこもっていた。
 むろん敗者の面目なさというのもあっただろうが、トティラが試合において手ひどいダメージを受けたことは誰の目にも明らかであったので、必ずしもそれが仮病のみであると勘ぐるものは少なかった。
 公女たちの方は、次女のセリージャは何度も輿に乗ったり馬を下りたりするのは体力の無駄であると考えたらしく、もう今朝は姿を見せなかった。長女のメーミアも同じく見えなかった。おそらく彼女をここまで運び出すというのはそれこそ大事業であり、本人も周りもそれを望んでいなかった。
 それで、三公女の代表というわけで、リール公女がそら恐ろしいくらいめかしたてて、アルドゥイン一行を見送りに来ていた。リールはリールなりに、昨日の試合での敗北と、棒組のトティラの手ひどい敗退、そしてかれらの度肝を抜いたアルドゥインの忠告といったものに、あっと言う間に心の整理をつけてしまったと見えて、競技場でこそ取り乱したものの、夜の宴までにはすっかりうわべを取り繕いおおせていた。
 そして見るも華やかな、動くたびに色を変える虹色のしゅすの、肌もあらわなドレスに身を包んで宴に現れると、もうトティラについては、そんなものはこの世に存在しただろうかといった素知らぬ顔で、もっぱらアルドゥインにべたべたとまとわりつき、当の本人と周囲とをうんざりさせていた。
 ――もっとも、アルドゥインはすでにリールを女として認めていなかったし、好きな女以外に対してはいくらでも木石になりおおせるすべを心得てもいたので、たとえリールが何を望んだにしろ、要は結局なにごとも起こらなかったということは確かだった。
 しかしリールの方は一向にめげた様子もなく、今朝の別れには特別はではでしい、オレンジ色の花にうずまったようなドレスに、髪にこれでもかというほど花を編みこみ、今は惜しくも取り逃がすにせよ、いずれ捲土重来を期してそのために十二分に自らを印象付けておこうともくろんでいる様子だった。
 その幅広の顔には恐ろしいほどたくさんの白粉や紅のたぐいが塗りたくられ、ほとんどもとの顔かたちが分からなくなってしまうくらいだった。人々は注意深くこの麗しい公女から目をそらして、極力直視せぬようにつとめていた。
 しかしそれにしても人々は晴れやかであり、空も同じく晴れやかだった。ことにアダブル大公は、はたの見る目にも異常なまでの上機嫌であったが、彼としては、これでようやく全ての重荷を下ろし、対メビウスの、コルネウスに仕組まれた、大公本人としてもわけのわからぬ侵略戦争が最小限の被害のうちにすっかりかたがついたことで、大変安心していたのである。
 そのためには少しばかりペルジアがメビウスに面目を失ったり、メビウス皇帝にかなり卑屈な詫び状を入れることなど、アダブルが何とも思っていないのは明らかだった。詫び状で済むことならいくらでも、と彼は朗らかに考えていたに違いない。
 その上、これはいささか穿ちすぎた見方であったかもしれないが、アダブルとしては、しだいに自分よりも力を持ち、実権を握り始めて不気味な存在となりつつあったトティラ将軍が、ここでアルドゥインに公衆の面前で敗れ、鼻っ柱を折られたというのは、きわめてありがたい事であったのかもしれない。
 宴の間でも、けさの別れの朝餐会のおりも、アダブル大公はずっと浮ついて見えるほどはしゃぎ続けていて、大公妃の顰蹙を買ったくらいだった。なるべくならばトティラがこのままずっと病の床に伏せていればいいものを、くらいには充分に考えていただろうと思わせた。
「アダブル大公閣下――何から何まで、我が身に過ぎたるご厚遇、おもてなしに与かり、お礼のしようもなきしだい」
 アルドゥインは丁寧にアダブル大公に別れの挨拶をした。
「いずれ、この御礼をあらためて、折りあらば我が方からいたします」
「なんのなんの」
 さきも言ったとおり、浮ついて見えるくらい上機嫌の大公は、顔中に笑みを浮かべて、アルドゥインの大きな手を握り締めた。
「いとやすきこと。また訪うてくれるときには、国を挙げてそなたを歓迎するだろうぞ。――いや、それにしても、昨日の鬼神のごとき戦いぶり、あれこそは一世の語り種であったぞ。あの戦いを目の当たりにしただけでも、ありとあらゆるもてなしに値したというもの」
「これは、いたみいります」
「昨日の宴でも申したるとおり、まこと我がペルジア宮廷に仕えてくれる心はないのか、アルドゥイン殿。ペルジアはいつなりとも、諸手を挙げて世界最強の勇士を待ち、喜び迎えるであろうぞ」
 これには、アルドゥインはていねいに頭を下げただけで、何も答えなかった。そこへ、くねくねとリール公女が割り込んだ。
「のう、父上。わらわの婿がねにまたなき勇士を得さえすれば、ペルジアの行く末は未来永劫に安泰というもの。父上からも、メビウスへ、アルドゥイン殿をペルジア公女の夫にと申し入れあそばされてはいかがか」
「ええ……ウォホン!」
 アダブル大公は返事に詰まってアルドゥインとリールを見比べたが、その時天恵のように声が掛かった。
「ウジャス皇帝陛下、お発ち!」
 そのふれの声が響き渡ったので、救われたように彼は身を起こした。
「そりゃ、もう陛下にはお発ちのそうな。お見送りだ、お見送りだ」
「のう、アルドゥイン殿」
 リールはフン、と荒い鼻息をその父親の後ろ姿にくれて、つ、とアルドゥインに身を寄せた。
「わらわはいつまでもお待ちしておりますぞ。こなたこそは、わらわの長年待ち望み、捜し求めていた、わらわをしのぐ勇士。わらわは我が身を赤子のごとくとりひしぐ殿御をこそ、わが背の君と呼びたいものと、この長い年月むなしく待ちつづけていたのだ。のう、アルドゥイン殿。いずれこのリールがはるばる今度はオルテアまでも、みあと慕いて参るほどに、その折には決してつれなくしてはくれますまいな」
「……」
 そちらが何を待っていようが、こちらにもこちらの都合があるのだ、と言いたいところであったが、アルドゥインはぐっと我慢し、ひたすら逃げの一手で、うやうやしくお辞儀ばかりしていた。
「お発ちぃー!」
 アルドゥインもその声に救われたように、あたふたと身を翻した。
「さればリール殿、ご息災をお祈り申し上げる」
 剣を柄に鳴らして、あわてて大股に歩き出す。
 それをさらに、執念深くリールは追った。
「のう、アルドゥイン殿、かならず近いうち、わらわはオルテアに参るぞよ。きっと、きっと」
「来なくていい、来るな」
 思わずセリュンジェはこっそり呟いた。むろん、それはリールには聞こえなかった。
「アルドゥイン、さらばじゃ」
「さらばこれにて」
 アルドゥインもリールが馬を返して、ペルジアの隊列に戻っていくと、明らかにほっとしたようだった。
「騎乗!」
 さっと采配を振って、アルドゥインもまた、馬上の人となる。
「されば、これにてお暇をつかまつる」
「おお。さらばだ、アルドゥイン。――また参られよ」
「かたじけなきお言葉」
 馬上からいっせいにメビウス騎士の剣が差し上げられる。
「出発!」
 アルドゥインの采配が振り下ろされ、すでにヒダーバードめざしてのろのろと進みだしている、ウジャス皇帝の一行の後を追って、いよいよメビウス騎士団が動き出した。そのさまはさながら、白い巨竜が、悠然と泳ぎだすにも似る。
 アルドゥインのまとった、紅玉騎士団の鎧には訪れたときと何の変わりもなかったが、その左胸には、アダブル大公が手ずから与えた、ペルジア名誉騎士の勲章が輝いていた。アルドゥインはその左胸に右手を当て、深々とアダブル大公に礼をした。
 ゆるゆると動き出した騎馬五千騎は、しだいに速度を上げ、ウジャス一行に追いつくべく丘を下ってゆく。
「――行ってしまったな」
 それがしだいに遠く、小さな姿になっていくのを、何となく立ち去りがたい様子で見つめながら、アダブル大公は誰に言うでもなく呟いた。
「なんと不思議な客人だったことだろう! ペルジアはいっとき、神話の時代に戻ったようであったな。カシウス――いや、ラダマントス――うむ、あれこそ、まことのラダマントスだ。あのような男がこの世にいるとはな! うむ、うむ……」
「のう父上、まこと、わらわの婿として、かのアルドゥインを迎えるお心はありませぬのか?」
「これ、リール。さようのことをおなごの身として軽々しゅう口にするものではないですよ。はしたない」
「母上はさように言われるが、父上のお考えは、いかが」
「い、いや……しかし向こうにも、選ぶ権利というものが――あ、いや、いや、待つがよい、リール。さようのことは、向こうから申し入れてもらうのが筋というもの」
 アダブルは何とかごまかした。
「さようのこと、どうでもよいではありませぬか」
「まるで嫁き焦っているようではないか。ペルジア公女ともあろう者が」
「お情けなきことを」
「――閣下」
 リールがむっとして向こうへ行ってしまったのを見計らって、こっそりとアヴィセン宰相がささやいた。
「なんと申しますやら、さまざまのことが、おおむね何とか丸くおさまりましたな。まずはお喜び申し上げます。――やはり、へたに軽挙妄動すまいという、わたくしめの読みは、当たっておりましたようで。――わたくしもまだなかなか、伊達に年を食ってはおりませぬかと」
「う……うーむ」
 それはどうだろうか、とアダブルは首をひねった。
「それに、トティラのことも」
「これ、声が大きい」
 慌ててアダブルはたしなめ、そっと周りを見回したが、誰も注意を払っているようではなかった。

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