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 その忍耐がいつまで持つものかと試すように、あのおぞましい髑髏の生首も全て消え失せ、再度の静寂と暗黒がアルドゥインを取り巻いた。
 そこにあるのはただ、絶対的な孤独であった。
 コルネウスであってもよい、誰か語りかけてきてほしいと感じずにはいられないほどの、圧倒的で物理的な圧迫すら感じるほどの孤独。時の流れすら判らない。それに、アルドゥインはじっと耐えた。
 碧玉宮に戻る気配もなく、これもコルネウスの巻き返し、手の内の一つであろうことは容易に察せられた。何となくだったが、アルドゥインにはコルネウスの思惑が判りかけてきた。彼自身には判らぬことだが、彼にはどうやら常人とかけはなれた魔動的なエネルギーがあるらしい。それをコルネウスは何らかの――おそらく後ろ暗い、けしからぬ――目的のために手に入れようとしているのだ。
 今にして思えば、賞賛に値するほど込み入った、周到な罠であった。国勢が衰え、気力も衰えて邪悪な力に付け入られる隙のできたペルジアの支配者をそそのかし、メビウス侵攻を企てさせた。それへの対応と、メビウス宮廷内での反応を読み切って、さらにはおのれの存在をほのめかすようにゾンビー騒ぎを巻き起こし――そしてまんまとアルドゥインを引っ張り出してきたのだ。
 おそらく活気あふれるメビウス、《星見》のキャスバートが彼を後押ししているオルテアで取り込もうとするのは容易ではないと踏んだのだろう。
(俺のせい、ということなのだろうか……)
 黒魔道とは人の心の中にひそむ邪悪な欲望をただ利用するものに過ぎないと言われ、コルネウス自身もただ自分はきっかけを与えたに過ぎないと言った。もともとそうした弱み、邪悪を持っていたことがその人の不幸であったのかもしれない。だがコルネウスがアルドゥインに目をつけ、彼を手に入れるために仕組んだ企みのために、どれほどの人々が犠牲になったというのだろう。
(俺さえいなければ)
 彼に率いられた軍によって殺された敵、彼に率いられて死んでいった味方。その戦いに巻き込まれて死んだ人々――。おのれの存在は、過去に彼が直接手にかけ、また間接ではあったにしろ彼のために死んでいった人々の魂によって成り立っているのだ――。
(何をばかなことを)
 この孤独と暗闇が、そんな考えを呼び起こさせるのかもしれない。だが、追憶はとどまることを知らず溢れだしてきた。
(ああ)
(あれは――)
 壁のタペストリに血がしぶく。よく磨きこまれた床に、血の赤が流れる。背後から、右肩から斜めに切りつけられ、よろめきながら、とどめを刺そうと振りかぶった相手の剣を鞘で受け止める。殺されるという恐怖で、痛みは感じなかった。
(最後に、暗殺されかけたときだ。また俺は、夢に見てしまった)
 無我夢中で、自由になる左手に剣を握りしめ、目の前で光る白刃を振り払おうとした。気がつけばアルドゥインは、自分と相手の血にまみれ、なかば意識を失いかけてその場に跪いていた。
(なぜこんなことを思い出すのだろう)
 それが、最初に人を殺した時だった。
(お前さえいなければ、王位はソシウスのものに)
 憎しみと羨望をこめた暗い目。
 彼の上にあるラストニアの王位継承権と、ファロスの大公位継承権を狙い、叔母たちはいつも彼の命を狙っていた。
(大公位をこの手に)
(俺はいつも、俺のためではない憎しみを受けてきた。だから俺はアスキアを逃れ、身を隠したのではないか――)
(なぜ今になって俺の夢枕に立つ?)
(アルドゥイン)
 金色のまばゆい髪。やさしいアメジストの瞳、白蝋のおもて。
(騎士か何かと思ってたら、右府将軍その人だったなんて、驚きだぜ)
(――サライ)
 国を逐われた、クラインの将軍。
 今はもう一人の友と旅に出ているのか――
 彼らが不幸な行き違いの果てに別れたことなど、アルドゥインが知る術とてない。
(アインデッド)
(次に会うときはお前より偉くなってるからな)
 若く、陽気な、天性の愛嬌をたたえた顔。短い間ではあったが、限りなくたくさんの思い出を残して別れたティフィリスの傭兵。
 アト。
 別れの時、三人の男たちにふしぎな予言を下した少女。
 彼が最初に身を隠すために入った、《銀の枝》傭兵団。
 その女団長、美しい草原の鷹――アレクサことサルマキス。
(私の魂はいつでも自由)
(けれど、ただ一つ繋がれるものがあるとするなら――お前に)
 アインデッド。サライ、アト。ジャニュアの女王ナカル、ユーリ、紅玉将軍リュシアン、セリュンジェ、懐かしい恋人キリア、ヴィクトール、三人の叔母マリエ、ディアヌ、アリス。その息子、従弟ソシウス、ポルト、エルス。父イシドール、母クラレ、ラストニア王ギース、ファロス大公ドジェ。そしてアインデッド、サライ、アト――
(アルドゥイン)
 生者が、永遠に喪われた魂が、これから死んでいくものが、別れた友が、愛が、追憶が、流した血が――彼を取り巻き、無であったはずの空間を埋め尽くしてゆく。
(アルドゥイン、帰ってきて)
(そこにいたのか、アルドゥイン)
(アルドゥイン)
(おいでをお待ち申し上げておりました、王よ)
(俺を知っているのか)
(むろん。この世界で、あなたさまを知らぬものなどおりましょうか)
(あなたさまはメビウスの獅子王アルドゥイン)
(いざ、竜の玉座へお進みあれ)
(私どもはあなたさまの忠実な僕でございます)
(いざ、いざ――)
(アルドゥイン――王よ――)
(さあ早く)
「や……」
 アルドゥインの口がのろのろと開き、動こうとした。が、実際には唇は動かず、声も出ていなかった。
(やめ……ろ……!)
(アルドゥイン)
(どうして? わたくし、あなたを愛していてよ)
(早く戻ってきて。こんなにもあなたを愛する私のもとへ)
 これは罠だと、遠く、かすかな悲鳴のような知覚があった。気を緩めはしなかった。だが、つい追憶にほんの一瞬、心の一部をゆだねてしまったのだ。その一瞬だけで黒い闇の力は彼の心に忍び込み、たらたらと毒を垂らしこんでいた。
(しまった……)
 どこか異次元で、ざわざわと歓喜に満ちたざわめきがあった。
 今や手中に落ちんとしている獲物のもがきに、もはや逃れることはできぬと感触を確かめているような――。しかしいっせいに襲いかかることはせず、じわじわと包囲網を狭めて彼を追い詰めている。
 それも巧妙に張りめぐらされたコルネウスの罠だということがアルドゥインには判っていたが、どうすることもできなかった。
 宇宙は虚無でも、孤独や沈黙に満たされてもいなかった。あまたの亡霊、生き霊、怨霊がぼうっと青白く光りながらアルドゥインを取り囲み、そのうつろな目で彼を見つめているのだ。
(やめろ! 俺は過去を忘れようなどとはしない。その全てを背負って生きているつもりだ。だから――だから俺にまつわりつくのはやめろ!)
 心から、このおぞましい追憶の影を払わなければならない。アルドゥインは全く異なることを考えようとした。だが何を、何処のことを考えても、何かしらの思い出、記憶が蘇り、そこから亡霊が生み出されてくる。
 亡霊は引きずり出されれば即座に、ぞっとするような、悩ましげな、なつかしげなようすと、恨みとをこめてアルドゥインの足に、腕に、体にからみつき、しがみつきにかかるのだった。
(だめだ……)
 珍しくも、アルドゥインの口から苦悶の呟きが漏れた。
 耳をふさごうにも、その手も力を入れることができずにだらりと垂れ下がっている。体は鉛を入れられたように重く、動かなくなっていく。膝をつき、弱々しい心をさらけ出したら最後、彼をとりまく過去の亡霊たちは彼を飲み込み、押し寄せ、彼をその下に押しつぶすに違いない。
(卑怯だぞ――コルネウス……)
 対する答えはなく、ただ嘲るような笑いが、かすかに感じられた。
(何を悩む、王よ。全てわしに任せて、楽になるがよい。そうすれば、すべてよいように計らってやる。何もかも委ねさえすれば、おぬしは生涯にわたって、二度と苦しむことはない)
(さあ……早く……)
(一言でよいのだ。その一言ですべてが終わる。楽になれるのだ)
「待って……くれ……」
 アルドゥインの唇から、苦しげな声が漏れた。
 ふいに、周囲から暗黒が消えた。眩しさが目を射る。光が満ちている、とみえたのは白い闇だった。何もかもが白い世界で、アルドゥインはこれがうつつなのか夢なのか、すでに判らぬ茫然自失のていで立ち尽くしていた。
「どうなさいましたか、アルドゥイン様」
 白い世界に徐々に輪郭が現れはじめ、そこに見覚えがあるような、ないような部屋であることが次第に判ってきた。そこに、若い男が立っていた。年はアルドゥインとそう変わりはないだろう。沿海州人の高い鼻、くっきりと濃い眉、広い口。くるくると輝く陽気な黒い瞳。その顔には見覚えがあった。
「お前……は?」
 男は微笑んだ。
「わたくしの名はと仰せならば何度でも申しましょう。ティブルスでございます」
「ティブルス……ああ……お前か」
 幼いときから共に育ってきた従者を忘れていたことに、アルドゥインは苦笑した。ティブルスが幼なじみとしての親しみと、主従の敬意を込めてそっと彼の肩に手をかけた。
「さあ、参りましょう。みなが待ちかねております」
「何を?」
「忘れていただいては困ります、アルドゥイン様。今日は陛下の栄えある戴冠式、結婚式ではございませんか。王妃陛下も次の間にて陛下をお待ちになっておられます」
「あ……ああ……」
 何か釈然とせぬものが喉につかえているような奇妙な感覚を味わいつつ、アルドゥインはティブルスに押されるように、次の間への扉を開いた。その部屋にはさらに光が溢れていた。光の中に女が立っている。白い花嫁のドレスに身を包み、ヴェールがその花のようなおもてを隠している。だがそれはすぐに判った。キリアだった。晴れやかな笑みを浮かべ、キリアはアルドゥインの手を取った。
「さあ、アルドゥイン。行きましょう」
 ますます強まってくる違和感に眉をひそめながら、アルドゥインは抗えなかった。柔らかで温かいキリアの小さな手。キリアが美しい微笑みを浮かべた。
「私はあなたのものよ、アルドゥイン。だからあなたもお誓いになって。あなたは私のものだと」
「俺は……」
 彼の言葉を待ち構えている、そわそわとした雰囲気をアルドゥインは感じ取った。それはその邪悪さのゆえに、キリアのものであるはずがなかった。何かがおかしい、と警鐘が鳴り響いていたが、意識はすでになかば彼のものではなく、唇がぎこちなく動き出そうとしていた。
 その時、キリアの髪に飾られたエウリアの花が目に入った。黒髪に編みこまれた白い小さな花を見つめ、アルドゥインは凍りついたように動かなかった。
(違う……)
(……俺が剣を捧げようと決めたのは……この花じゃない)
「アルドゥイン……?」
 キリアが不審げに首を傾げた。
「違う……」
 アルドゥインは低く呟いた。
「俺はお前のものじゃない!」
 絶叫とともに、白い闇が消え失せた。暗黒の空間に亀裂が入り、そこから本当の光が漏れ射してくる。アルドゥイン自ら発光しているかのような、白い白熱した光が彼の胸元近くから放たれていた。闇に満ちていた亡霊たちはその光にぶつかった瞬間に声を立てる暇もなく蒸発していった。
「な――なんということだ!」
 コルネウスは叫び、光が高温の炎ででもあるかのようにぱっと飛びすさった。
「これはこやつ自身の心を裏返して作り上げた小宇宙――おのれをおのれの内に閉じ込めたのだ、自分の心から逃れるすべなどありえようはずもない! それを壊すとは――想像以上だ」
 その声は焦りを含んでいたが、同時に何か面白いことを発見したときのように弾んでもいた。
「いったい、どういう精神をしているというのだ、こやつは!」
 コルネウスの言葉に答えるでもなく、アルドゥインは叫んだ。
「俺は誰のものでもない――俺は、俺だ!」
 その瞬間、すべてが暗転した。


「Chronicle Rhapsody13 魔の宮」 完


楽曲解説
「碧玉宮の一夜」……ムソルグスキー作「はげ山の一夜」より。夜のはげ山(碧玉宮)に妖怪たち(アレな人々)が跋扈する、というコンセプトです。
「幻想曲」……ファンタジー。夢想的・幻想的小品。

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