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                                *



「キリア――なのか?」
 アルドゥインの、黒檀の色の瞳と、キリアの同じ色の瞳が、わずか一、二バールをへだててからみあった。
 たとえアルドゥインがいまだに、これがコルネウスの手妻であることを確信していたにせよ、その手妻は全て作り出したまやかしを見せるものではなく、空間を飛び越えて、アスキアとイズラルを結びつける類のものであること――つまり彼がここでかつて別れた恋人と会うことこそ怪しくとも、彼女らは全く、正真正銘の本物であることを疑いはしなかった。
 アルドゥインにはアインデッドほどの直感はなかったけれども、物事を目に見えるそのままの形としてではなく、いわば隠された魂のかたちによって見ることができた。そこで、偽りの生命なきものか、本物であるのかはすぐに判ったのだ。
「なんて事なのかしら」
 キリアが言い、一度目を閉じてヤナスの聖句を唱えてまたゆっくりと目を開けた。瞬きの音がしそうなほど濃くて長い睫毛が、震えるのをアルドゥインは見た。驚いているときのキリアはいつもそうだった。
「幻ではないの?――アルドゥイン、あなたよね。ああ、幻であるはずがないわ。あなただということは判るけれど、昔のあなたじゃない」
「幻なのかは判らないが、あまり変わらぬものだと思う」
 アルドゥインは言った。彼の声が聞こえると知って、キリアのおもてに晴々としたような輝きが溢れ出てきた。褐色とさえ言ってよい浅黒い肌と絹のような黒髪が、青白いリナイスの光に濡れていた。別れたとき十四歳の少女だった彼女は、アルドゥインが十七歳の少年ではなかったのと同様に、もう子供ではなかった。
「なぜ、魔道師のように空から現れたの? それともあなたの魂が、あの吟遊詩人の物語のように、私に会いにきてくれたというのかしら?」
「これには深い仔細のあること、俺自身にもよく判らぬことなんだ」
 アルドゥインは首を振った。彼の体はふわふわとバルコニーに降りて、今はキリアの目の前に立っていた。しかし地に足をつけている確かな感覚はまったく得られず、奇妙な浮遊感がいつまでもつきまとっていた。
「ただこれは本来俺のしていることではない。そう思ってほしい、キリア。俺のうつし身は今、ペルジアにあるのだが、ある魔道師が俺を動揺させて付け入ろうとして、俺の魂というか、心だけをこのようにきみのもとに連れてきたというわけだ」
「あなたはまだ誰彼かに狙われているのね。でも――無事でいるの?」
「ヤナスのみ恵みで。きみこそ、息災か、キリア。皆に変わりはないか」
「あなたが変わった程度には、皆変わったわ」
「ヒュラスはどうしている? いいかげん俺が生きているなどと思うこともないだろうし――あれが嫡男になったのだろう」
「去年、ヒュラスさまの成人式に。結局マリエ様たちは、六年かけてあなたを殺したのだわ。でも私はあなたにこうして会えて嬉しい。私はあなたに謝らなければならないことがある。私はあなたを待つと心に誓ったのに」
「誰と――?」
「ヴィクトール」
「あいつか」
 アルドゥインはゆっくりと言った。それもまた懐かしい友の名だった。
「キリアが今幸せなら、それでいい。むしろ謝らなければならないのは俺のほうだ。おのれの身可愛さに、きみも国も捨てたのだから」
「いいえ。逃げなければあなたはきっと殺されて、私はもっと悲しまねばならなかったでしょう。それを思えば、あなたが生きていて、私は悲しまずに済んだということは幸せなことなのだと思うわ」
 キリアは静かに答えた。
「アルドゥイン、あなたは今どこにいるの? どこで、何をしているの」
「それは語れば長い話になる」
 アルドゥインは言った。
「いつかこの地に帰ることができたなら、その時にあらためて」
「帰ってきて、アルドゥイン。父上も母上も、あなたを待っている」
 キリアの目に、光るものが浮かんでいた。手を伸ばして触れようとしたアルドゥインの手は、すっとすり抜けてしまった。キリアは俯いていて気づかなかったが、それで彼は触れることを諦めた。
「泣いたらいけない、キリア。きみには夫が――ヴィクトールがいる。俺のために泣くことはない。帰ることはできなくても、俺はずっと離れた国で、剣を捧げるべき主君を見いだした。そこを第二の故郷と考えている」
「あなたはそこで、幸せ?」
 ささやくようにキリアは尋ねた。
「ああ」
 アルドゥインは頷いた。そして、どこかで聞き耳を立てているはずのコルネウスに聞かせるように、はっきりと言った。
「俺は俺のあるべき場所を見いだしたのだと思う。――今は、何からも逃げはしない」
 言い放った途端、アルドゥインの体は再び、空気に溶け込むように薄れはじめた。キリアが驚いたように目を見張る。
「もうお別れなの? アルドゥイン」
 キリアが見上げ、小さく呼んだ。
「これは夢だ――キリア。全ては夢なんだ」
 何も言わず、ただキリアは彼を見つめた。
「キリア、さようなら」
 七年前に言えなかった別れの言葉を、アルドゥインは口にした。その時ちらりと、バルコニーに続く部屋の奥からヴィクトールが見えた。彼にもアルドゥインの姿が見えたようだった。
「アル――!」
 驚いたような声を上げて、ヴィクトールはバルコニーに駆け寄った。掴もうとした腕は空気を掴むようにすり抜けてしまい、彼ははっとしたようだった。
「ヴィクトール。これは俺のうつし身ではないんだ」
「ああ……そうだ……でも、君は生きているのか」
 アルドゥインは頷いた。哀しげに、ヴィクトールは尋ねた。
「アル、いつ戻ってくる」
「ヤナスの御心があるのならば、いつの日か。いつか――いつか……」
 空間から引き剥がされそうであることに気付いて、アルドゥインは急いで言った。もう時間がなかった。
「キリアを頼む。どうか、幸せに――」
「待ってくれ、アルドゥイン!」
 だがもうそこには夜風の余韻が吹きすぎるばかりで、二人しか立っていなかった。彼は先程まで友人の幻のような姿があった場所に目をやった。
「キリア……あれは、アルドゥインだな……」
「ええ」
 彼の予想に反して、幻を見たのだと笑う代わり、彼女はこくりと頷いた。
「彼の心が伝えにきたのよ。どこか遠い国で、無事に暮らしていると――」
「そうか」
「あの人、生きていたんだわ。ヴィクトール、あの人は生きているのよ。私には判る。アルドゥインは……」
 ヴィクトールは震えるキリアの肩を抱いた。
「判るよ、キリア。いつかきっと、会える日が来るだろう」
 そして――
 アルドゥインは再び、暗黒の中にいた。
 上下も、前後も、左右も――さきほどアルドゥインを襲った異次元よりも、何もない暗黒。アスキアのなつかしい砂浜も、やさしい潮風も、月明かりも、星空も、夜の海のかすかなきらめきも――
 何一つありはしない。
 もしも、その前からずっと続く一連の怪異がなければ、どうして、このすべては一夜の夢だと、おろかしい、恐ろしく込み入ったあやしい悪夢に過ぎぬのだと、信ぜずにいられただろうか。
 アルドゥインの体は、再び実体と重みを取り戻して、宙にかかっていた。世の常のひとならば、おそらくこの異常な体験に、何がうつつであるのか、おのが正気を疑うところであろう。
 アルドゥインは静かに目を閉じ、じっと動かない。
 ねっとりと濃い暗黒は、興味津々に彼の様子をうかがうように――アルドゥインにとってはなつかしいアスキア、恋人であったキリア、友のヴィクトールとの邂逅、それらのことがアルドゥインの魂にいったいどのような影響を与えたものかと、その虚無そのものが闇の生命となって見つめているようだ。
 しかし、アルドゥインは動かない。
 暗黒の中に浮かぶ彫像ででもあるかのように、じっと腕を組み、目を閉じ、びくともしない。
 暗黒は、ちょっとつついてみよう、とでもいうように妙な嘲り笑いの声を立てた。
 が、アルドゥインが反応せずにいると、まるでその反応を恐れたように、あわただしく静寂の中に戻っていった。
 長い沈黙と暗闇が流れていった。どれほどの時が過ぎたか、と思われたとき。
 ゆらゆら、と虚無の陽炎が立った。アルドゥインは気付いた様子も見せない。
「王よ――獅子王よ」
 いんいんと、遥か彼方からしびれを切らしたように声が聞こえてきた。
「何だ、コルネウス」
 アルドゥインは目を開いた。彼を取り巻く闇と同じ色の瞳が、ちらりとその陽炎の立った辺りを見た。その瞳は常にない瞋恚に燃えて、火を宿しているかのようだ。それに怯んだかに見えたが、こうではならじと奮い立ったようだった。
「すでにとくと見るように――」
「何を」
「王の正しき領土にお帰りあれ。王の国民は一日千秋の思いで王のご帰還を待っている。――お帰りあれ、ラストニアへ――アスキアへ」
「黙れ!」
 アルドゥインはふいに吠えた。
「いい加減にしろ! 何を見当違いをしている。このように俺に里心をつければ、俺が貴様の手にうまうまと乗って、メビウスを捨て、アスキアに帰っていくとでも思ってか!  貴様のその愚かな浅はかなたくみに、乗るものか。それも判らぬくせに、《闇の導師》を僭称する資格が、貴様にあるか!」
 一瞬、あまりの剣幕に、周囲の暗黒はざわざわっと退いた。
 それから、むっとしたように揺れた。そしてアルドゥインの目の前に、もやもやと怪しいものが浮かび上がろうとしていた。やがて暗黒空間に浮かび出したのは、アルドゥインの身の丈をはるかに凌ぐ、巨大な生首だった。
 瞬きをすると、その眼窩には真っ赤な虚無がのぞき、かっと開いた口には空に通ずるかのように星があった。もとはなかなか整ってもいただろうその顔はすでになかば腐り、しなびて、見るもおぞましいミイラと化していた。
「ほう、言いよるわ、言いよるわ」
 もう彼のこんな暴言、無礼には慣れっこになっていて、寛大に扱ってやらねばならぬのだとでも言いたげに、コルネウスは笑った。
「何とでも言うがいい。どんなにもがこうが、そなたはわしの手中にある。――気付かぬか。ここはわしの作り上げた亜空間、魔道の心得のないそなたにはもはや抜け出すことはできぬ。いや、魔道の心得があろうとて、このコルネウスの術中から逃れうるものが何人いようか。はや、諦めて我が軍門に下るがよい。そなたのその宇宙的なエネルギーを、そなた一人のものとして地上に解き放ちもせで、みすみす失わしめるのはいかにも惜しい。あの馬鹿者の息子がなにやら動き始めたようでもあるし……」
 コルネウスは言いかけて、一人でそれを遮った。
「いや、いや。あやつのする事など、どのみちわしに敵対しうるものではない。ともあれ王よ、われと手を組め。さすれば我はより強大な力を手に入れ、闇も光もこの手におさめることができる。そなたにとっても悪い話ではないぞ。ラストニアごとき小国は知らず、メビウス、クラインであろうとも、そなたの手に入らぬ地上の力はない」
「俺の答えは判っているはずだ。貴様の傀儡になるくらいなら、いまこの場でおのれの首をはね、自害したほうがましだ」
 アルドゥインはきっぱりと言った。

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