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     旅人よ 汝が道をゆくがよい
     ヤナスの目は常にひとところにあり
     あやまてる道を正し、正しき道を指し示す
     星を見失わねば、道が失われることはない
                ――街道のヤナス讃歌




     第四楽章 魔の幻想曲




 言い捨てると同時に、コルネウスの姿は消え失せた。まるで黒い絵の具の一筆でさっと塗りつぶされてしまったように、今までたしかにそこに見えていた姿は闇に取って代わられたのである。
 周囲は漆黒の闇。
 手を伸ばしても触れるものは無く、五感を働かせてみても生きているもののいる気配を感じない。目を開けているのか、閉じているのかも判らぬほどの真の闇。その中にアルドゥインは取り残された。
 音もなく、気配もない。星や山の影すら見えない。
 大地に足をつけている感覚も無いが、水に浮かんでいる感覚もない。
 これにはアルドゥインも参った様子であった。だが彼はこういう時やみくもに暴れて体力を消耗してしまうほど自制心に欠けてもいなかったし、軽挙妄動に出ることはコルネウスの利するところになるらしいと、先程までの会話で勘付いていたので、自分を落ち着かせて、リラックスしようと心がけた。
 ここはコルネウスの結界の中であり、どこかの別次元からアルドゥインの様子をこっそりと覗いているのだろう。アルドゥインが何もしなければ何らかの動きがあるに違いない。アルドゥインはそれを待つことにした。
 楽なように闇に身を任せて、じっと待つ。不思議なことにいくら経っても腹はすかなかったし、その他のさまざまな生理的欲求も起こらなかった。あるいは一テルほどにも思えた今までの時間は実のところ数テルジンにしか過ぎず、彼は碧玉宮のあの中庭に立ち尽くしたままであるのかもしれなかった。
 どれぐらい、そうしていたのだろうか。五感を閉ざされ、時の流れを知る術とて無い状態では、それがどれほどの時間であったのかは全く判らなかった。心臓の鼓動を数えてみようかとアルドゥインは思ったのだが、たとえそれで時を計ったとしても何ができるというわけでもなかったのでやめることにした。
 アルドゥインは待った。
 そして――
 何がきっかけであったのか、急に世界が揺れ、崩れはじめた。
 その様子が見えたわけではない。ただ、肌に触れる闇の感覚が急に心もとないものになり、どろどろと溶け崩れていくのを気配で感じたのである。
 これも所詮はコルネウスの作り出したまやかしに過ぎないのだと心に言い聞かせ、アルドゥインは必死で爪を掌に食い込ませ、現実を取り戻そうとした。しかしその方法は全く役に立たなかった。
 世界はどんどん、崩れ落ちてゆく。崩れた闇はしだいに螺旋を描いてぐるぐると雪崩を打ち、じょうごに流れてゆく水のように一点へ収束していく。そのただなかにアルドゥインは投げ出されていた。
 しだいにその流れは激烈なものになり、海のさいはてにあり、そこではすべてが流れ落ちてゆくという伝説のクンティスユの扉かと思われるほどになった。アルドゥインの体は激流にもてあそばれる木の葉であった。
 アルドゥインはとどまろうとする努力をしなかった。踏ん張ろうにも足をつけるべき大地は無かったし、掴むべきものも無かったからだ。ただアルドゥインが必死で耐えなければならなかったのは、その心もとなさであった。
 いまや彼の体は闇とともに引きずり回され、ものすごい勢いで一点へと吸い寄せられていたのだが、渦に巻き込まれたときにそうであるような水の抵抗や流れを感じることもなく、引き裂かれるような遠心力を感じることもなかった。ただただ、激しい力に持ち上げられ、振り回されている感覚しかそこにはなかったのである。水のように流れを感じるものすらないのが、いっそ不気味なほどであった。
 突然、激流は流れ落ちる滝に変わり、アルドゥインに襲い掛かった。遥かな高みから投げ出されたような感覚。
 アルドゥインの唇から、思わず小さな叫びが漏れた。
 どこか遠くのほうで、コルネウスの哄笑を聞いたような気がした。そして、世界が血のような真紅に染まり――彼の意識は一瞬、闇に溶けた。
 たしかにアルドゥインが意識を失ったのが一瞬以上だったとしても、そう長い時間ではなかったはずである。だが一瞬意識を失い、また取り戻して目を開けたとき、周囲の光景は似ても似つかぬものに一変していた。
 そよそよと冷たい空気が頬を撫でてゆく。
 空気までもが一瞬前のものとは全く違っていた。その前に馴染んでいたものとも全く違う。
 コルネウスの作り出したいわゆる別次元、何もない空間ではないことは明らかだった。夜気の底に何か、生あるものの息づかいや気配がそこかしこに感じられ、静寂の中に生命の音が満ちている。
 といっても、そこはイズラルでもヒダーバードでもなく、タギナエ国境でもオルテアでもなかった。
 なぜなら、今アルドゥインを包んでいる空気は、あの北国の、森林地帯の国の刺すように冷たく、針葉樹の緑のかおりをいっぱいにはらんだ、きりりとした空気ではなかったからだ。
 頭上には、降るような星がある。
 風は適度な湿り気を帯び、潮のかおりとともに鼓動のような音を運んでくる。
 見回せば、白い砂浜が続いている。その向こうには星のあかりを粉々に砕きながら押し寄せてくる波と、水平線。
(あ……)
 いつでも彼の心を揺さぶる、かぎりなく懐かしい音。足元をからかうように濡らし、身を翻すように引いてゆく波の白い泡。
 目を転じれば、夜目にも白い美しい街並みがそこにあった。坂に沿って、可愛らしい箱を並べたように続く家々。それはアルドゥインにとって、忘れようとても忘れることのできぬ光景だった。
 アスキア自治領の総督府、ラウ市。
 そこでアルドゥインは生まれ、十六までを育ったのだ。そこでの人間関係、軋轢を厭わしく感じ、逃れたとしても、彼はその土地までを憎んでいたわけではない。むしろ人々を厭うほど、ますますその地を愛していたのだ。
(アス――キア……)
 舌は上顎に張り付いてしまったように、動かすにも動かない。のどには何か大きな塊がつかえてしまったようだった。アルドゥインは全ての力を失ったように、そこに立ち尽くしていた。
 幼い日に、友と駆け回ったなつかしい砂浜。柔らかで熱いその感触を、彼は足裏に思い出した。昼ごとに熱せられ、夜ごとにまた冷えてゆくその砂を、風と波がもてあそび、崩してはまた寄せる。
 捨てたはずの故郷が、いざ目の前に現出してみればこれほど懐かしいとはアルドゥインは自分でも思っていなかった。
 港には幾つもの商船が停泊し、波に揺られるたび、ぎしぎしと木と木が擦れ合う音をたてている。どんなに夜遅い歓楽街も、この時間では店じまいとなっているのだろう。街に灯は見当たらない。
 ただ静かな、ラウの夜。
(ああ――)
 辺りの目を憚ることはなかった。奇妙な、それでいてありがちな自尊心をも投げ捨てていたのなら、アルドゥインは泣いていたかもしれない。
(ここは我が故郷、我が同胞の地。我が愛してやまぬ幼き日の――)
(父上――母上)
 父や母、弟と妹、残してきた恋人や友人――。
 今となってはあまりにも遠い、過去の出来事となってしまったものごとがいちどきにアルドゥインの胸に蘇り、その剛毅な、ものに動じない魂をも揺さぶった。泣きこそしなかったが、アルドゥインの闇色の瞳は熱いものに濡れはじめていた。
(アスキア)
(俺は知らなかった。俺自身が厭うて捨てたはずのこの故郷を、これほどに懐かしく、心深く思っていたとは。……でもそれは、無理からぬところかもしれない。――この地に生を受け、この地に育ったのだから。たとえ自ら逃れたとしてもそれはこの地からではなく、俺の――俺の生まれが、それを強いたのであり、俺は決してこの地を嫌ってなどいなかったのだから)
(――一介の傭兵に身を落とし、長年の放浪ゆえに……また、我が第二の故郷と決めたメビウスの騎士、さらにディオン閣下の千騎長――そしてただ一騎、自らの兵を率いてイズラルまで乗り込む不逞の徒とさえ転変していったこの身の変わりようのあまりのはげしさゆえに、無理からぬこととはいえ、俺は――)
(忘れていた)
(俺は忘れていた。アスキアよ……。別れてより後、これほど多くのことが我が身に起こったのとおなじく、どれほどのことがお前に起きたのだろう?)
 砂浜は、海は、何も語ることはない。
(この海は何も変わらない)
 慕わしさが、アルドゥインの胸を突き上げた。
 すぐにでも駆け出して、かつて別れた友の姿を探したい思いがあった。
 何故に、肌に合わぬはるかな北の都で生きてゆこうなどとするのか、と心の内に囁きかけてくるものがあった。
(お前はかの地で何を望みとする? 立身出世か?――が、お前はすでにしてこの地の王、この地では最高の権力を持ちうる者であるのだ。こここそがお前の王国、お前が生を受けたその在り処、お前の心の地――。お前はここを忘れ、ここを捨ててどこに行こうとしていたのだ? どこに、何をしに、何故に――?)
(なぜ逃げることがある。今となってはお前を殺せる者などいない。どこに逃げようと、お前はその生まれを捨て去ることなどできはしないのだ)
(さあ、王よ、わがもとへ……)
(王よ)
(王よ……)
 数知れぬ囁きがいんいんと広がり、ついには砂浜の砂の一粒一粒が叫びを上げているかのごとくに広がった。風すらも喜悦の声をあげ、甘くアルドゥインの体を包み込む。星のきらめきも、彼を包み込もうとするかのようにあやしくその輝きを増した。砂はさわさわと彼の足を包み込む。
「待て!」
 やにわに、アルドゥインは叫んだ。
 足元で砂が崩れた。
「これは――これも、貴様の手妻なのだろう、コルネウス! 貴様だな!」
 アルドゥインはまとわりつくような風を払い、周囲を見回した。かすかに、空の彼方が嘲笑を響かせた。
「おのれ!」
 アルドゥインはほとんど駆られることもない、身を焼くような激しい怒りに歯をぎりっと噛み鳴らした。だがどこにもあやしい魔道師の姿は見えず、辺りに広がっているのはなつかしいアスキアの夜景だけだった。
「卑怯だぞ、コルネウス!」
 ほとんど悲鳴のように、アルドゥインの声は夜に吸い込まれて消えてゆく。が、どこからもいらえは返ってこない。
「出てこい、卑怯者め!」
 再びアルドゥインは叫んだ。
「姿を現せ!」
 声はむなしく、次々に夜空に吸い込まれてゆくが、どこからも、何かが現れてくる気配はなかった。それが判ると、アルドゥインは腰の短剣に手をかけて、待った。再び夜風はさわやかに冷たくなり、砂浜は先程までの静かなたたずまいをすっかり取り戻したかに見えた。
 だがアルドゥインはまだ、油断なく身構えて、四方八方に注意を払っていた。それから、ようやく最初の一歩を慎重に踏み出した。ことに最初のほうは、一歩ごとに動きを止めて少しでも異変はないかと目と耳とを澄ませた。だがようやく、その身の安全にいくぶん確信を持ったように歩き出した。
 広い砂浜を抜けると、暫くは防風と防砂をかねたアスキア松の林が続く。足元の砂はいつしか踏み固められた道に変わり、街に入ればそれは石畳に変わるはずだった。十七年間見慣れ、歩き慣れた町を違えるはずもない。彼の歩みは自信に満ちたものだった。
 と、ふいに海からの風が変わった。ふわりとアルドゥインの体を、巻き取るように流れはじめたのだ。
(出たな)
 すかさず短剣の柄を握りしめ、アルドゥインは立ち止まった。そのうちに風はさらに彼の周囲を取り巻いて、とうとうつむじ風が木の葉を舞い上げるように、彼の体を空中に舞い上げた。あたかもアルドゥインの長身から、全ての重みが失われでもしたかのようだ。肉体から魂だけが抜き取られ、ふわふわと漂いだしたような感じだった。さきに異次元空間で巻き込まれた大渦巻きの感覚に似ていないでもなかった。
 アルドゥインはあえて抗ったりせず、自身が一陣の風と一体となったように吹き流されていった。耳を、髪を風がなぶっていく。見慣れた街の見知らぬ上空を、彼は見下ろしていた。
 ふと気づいたとき――彼は、見覚えのある邸宅の上にいた。ラウの家はみな、白い漆喰づくりの美しいものである。南国といってもよいアスキアでは、たいていの大きな家は正面にバルコニーを持ち、夜風を取り入れることができるようになっている。
 その、上に――風がうなり、アルドゥインの体をゆるやかに降ろしていった。地に叩きつけるつもりではないのだから安心するがいい、とでも言いたげな、意思ありげな風の動きだった。
 すでにアルドゥインの方は、これもコルネウスの手妻と心得て、いっそ肚の内を見届けてやろうと心を決めている。
 眼下の邸のバルコニーに、人が立っていた。
 ほっそりとした、影のような姿。アルドゥインと同じ褐色の肌と、闇よりも暗い黒髪を持っている。白い夜衣のドレスが月明かりに青白かった。その顔は同じように青ざめて見え、かぼそく美しかった。
(――!)
 アルドゥインは思わず口をついて出そうになった叫びをかみ殺した。
(キリア――)
 バルコニーに一人佇んでいた若い女は、ふと目を上げ、空中に浮かぶアルドゥインを真っ向から見た。
 その口が動いた。だが、出てきた叫びはごく密やかなものだった。
「アルドゥイン」
 彼のかつての恋人――キリアは驚いたように、しかしきわめて静かにささやいた。

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