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 エトルリア公使はウジャス帝の耳に寄せていた顔を離し、信頼を求めるように老帝の目を正面から見た。
「今こそありていに申し上げますが、もともと駐ペルジア公使だったわたくしが今一度の任に駆りだされるにあたり、我が主は特に私だけを呼び寄せ、申しました。一つに、このたびのタギナエ侵攻につきペルジアの真意がいずくにあるのかを探り出し、真実を突き止めること、二つに、機会をうかがいウジャス陛下とご面会を果たし、陛下のお心いまだペルジアにあり給うか、それともペルジアを去り、エトルリアにお心をおかけくださるとのお考えのなきや、さらに……」
「もうよい」
 ウジャスは遮った。その様子は何かに怯えているようでもあった。
「わしもな――実のところ、わしも、この頃はいつアダブルに暗殺者を差し向けられるのか、このみじめな老人の命をいつ、きゃつらは無慈悲に奪うのか、日夜怯えて暮らしてきたのだ――」
「おいたわしい限り」
「わしとて、何も好き好んでこのような厄介者扱いに甘んじ、おどおどと怯えて暮らしているのではない。ただ、わしには何の武力も、権力も、財力もない。――今のわしに、いったい何ができようか。あるのはただ、このみじめな老いさらばえた命ばかり……。わしは、無力な哀れな老いぼれだ。だのに、せめてヒダーバードでひっそりと死ぬまでを暮らしたいという、それだけの小さな望みすら、あの悪人は脅かそうというのだ」
 言っているうちに、老帝はみじめな、悲しい気分に浸りはじめたようであった。しだいに彼は鼻をぐずぐず言わせはじめ、ついに声をあげて泣きはじめた。これにはエトルリア公使もへきえきしたようであったが、礼儀正しく、懸命に慰めようとした。しばらくするとウジャスも落ち着いて、恥ずかしげに、年を取ると涙の栓も緩んでしまって困る、と言い訳をした。
「では――、陛下には、もしも我らが陛下をお迎えするご用意ありと申せば、それを諾となさるお心なきにしもあらず――と、そのように理解して、間違いございませんか?」
「あ、あ……ああ。だが万一このことがペルジアに露見すれば、何よりも確実にわしの命は奪われるだろうよ」
「ご安心を。そのご懸念には及びませぬ。そうと決まればわがエトルリアは、全力をもって陛下をお守りする所存ゆえ」
「そうまで言ってくれるのか。ペルジア公家に、役立たずの、ただ飯食いの、厄介者扱いされておる、このわしに」
 ウジャスは涙っぽく言ったが、その声には皮肉っぽいものが混じっていた。
「それは、ですから、ペルジアに気兼ねをしておりましたところで」
 しかしガオ・スンもつわもので、そのくらいではびくともしなかった。
「それにたとえお年召したりといえど、またゼーア皇家にこう言ってははばかりながら昔日の勢いなしといえども、ゼーア皇家はゼーア皇家――なかなかに、その二千年の重みは軽々しく扱えることではございませぬ……」
「どうだな、アルドゥイン」
 にせアインデッドは囁いた。
「エトルリアの企みの筋は読めるかな? 今、東にはラトキアを併合し、意気盛んなエトルリアとしては、この上望むのはゼーア皇帝という名の後ろ盾――皇帝家そのものに何の力もないのは、それはあのウジャスも言うとおりだが、それでも、ことに地方ではゼーア皇帝の名はまだ重い。エトルリアにしてみれば、長年ヒダーバードがあるゆえにペルジアを盟邦中の長兄と立てざるをえなかった。それをこの際に、ペルジアを失点を機にして一気におのが利点とするよう覆し、ひいては跡継ぎのないゼーア皇帝の後継をウジャスの名においてサン・タオに与えられれば、いよいよこの大儀名分を押し立ててゼーア三国全てを制する戦いに乗り出してゆくことができる、と、そういうわけだよ。――やれやれ。疲れた。もうよいだろう」
 コルネウスは手を振った。すると途端に、ふっと目の前から全てのイズラルの様子、碧玉宮の部屋部屋が消え失せた。
 今はアルドゥインと、アインデッドの姿を写したコルネウスの二人は、どちらが上とも下ともつかぬ真の闇の中に、空間自体に受け止められ、浮いているかのようにふわりと浮かんでいた。
 上下左右、どこを見回しても何も見えなかった。明かりがないのでお互いの姿すら見えるはずもなかったのだが、にもかかわらず、どういった手妻によるものか、アルドゥインの目には何もかもがはっきり見えていた。
 この奇妙な状況には、しかしアルドゥインは覚えがあった。ヒダーバードで最初にコルネウスの接触を受けたときのことである。あの時も彼はこのような闇の中に投げ出されていたのだった。
 今、コルネウスは自分が魔道によって作り上げた、碧玉宮の内部での葛藤の綴れ織を、ようやく閉じたところであった。
 もしもこの三大魔道師のうちの一人、もっとも力のある黒魔道師と言われている《闇の導師》がアルドゥインをどうにかしようというたくらみを持っているのだとしたら、その動きはいよいよこれから現れてくるものとみて間違いはなかった。
 が、コルネウスはそんなアルドゥインの懸念や警戒も、すべて判っているのだ、というように、いかにも他意など無い様子を見せた。
「さて、これでおぬしはこの碧玉宮に見るべきものはすっかり見終わったというわけだ。――老い、淀み、沈滞した、古く活気を失って衰退の一途をたどる宮廷。てんでに私利私欲のみを求める人々、我欲、妄執、狂気、怯懦、怠惰、頽廃、責任逃れ、現実逃避――それらが寄り集い、よどみ、腐臭を放っている。それが現在ただいまの、ペルジアの様子だ。どうだな、獅子王?」
「それも貴様が見せた、愚かしい、小賢しい手妻だと言えるさ」
「おのれでも信じていないことを、口にするのはおぬしらしくない。――愚かな人間どもであれば、そうも言って、信じたくない現実――おのれの見たもの、聞いたものをたとえば悪魔の王たるサライルなり、闇の導師たるわれなり、他の者のせいだとして済ませておくだろうさ。だがこの世には絶対善も絶対悪もない。逆に、人間どもがそうやって、ありとあらゆる負の感情、恐怖の捨てどころとしてサライルを選び、その上に呪詛や言い訳を投げつけてゆくのではないか? サライルも我も、いわば人々の悪意、人々の闇によって、どんどんこのような、いまあるような存在に発展せしめられていった――そのようには思わぬか?」
「……」
 コルネウスはなだめすかすような声を出した。
「のう、獅子王よ。おぬしには全てが判っていようはず。おぬしに与えられた眼力、洞察力、その全てが余人をはるかに立ち勝っておる。この碧玉宮に入りし時より、おぬしは全てを見、聞き、感じたはずだ。おぬしにはとくから判っているのだ。このわしの言う、全てと同じことが。――おぬしは確かに、閉ざされた壁を透かし、屋根をはいで、その中で起こっている出来事を見聞きするわざを持たぬ。しかし、そうせずともおぬしは、ただ取り繕った人々の顔を見、その口から出る偽りに満ちた言葉を聞くだけで、全ての隠されたものが判るはずだ。それゆえ、おぬしには判っているはずだ。わしが偽りを言ってなどおらぬことが。おぬしを籠絡せんがため、姑息なたくみを巡らせて、にせの光景を見せ、騙してありもせぬ光景を見せているのではないと。――先に見てきたものは全て、この碧玉宮でたしかに起こっている出来事だと、おぬしには判っているはずだ……」
「それは判っている。コルネウス」
 アルドゥインは答えた。
「俺は別段、それを疑ったそぶりなど見せていないじゃないか。貴様がいつわりの手妻を使っていると、俺が一度でも非難したか? コルネウス、俺はお前が見せたいくつものちょっとした場面を、すべてまことにあったものだと、疑いはしない。が、また俺は言いたい。だから何なのだ、と」
「……」
 これは、コルネウスには予想だにしていなかった反応だったようだ。気を呑まれたように、コルネウスは黙り込んでしまった。
「……これはしたり、獅子王の意表をつく言葉を聞くものかな」
「何がだ?」
「だから何なのだ――とは?」
「貴様はさっきから、屋根裏からの覗きでもって、何やら大層なこの世の真実でも解き明かしたかのような口ぶりで言う。だが、それは貴様も言うように俺には最初から予想もされていたことだし、そんなこともあろうかということばかりだ。そういったのは貴様ではないのか? 《闇の導師》よ」
「…………」
「人の心、人とはそんなもの――愚かしく、か弱く、優柔不断で、時にはその悪意ではなく弱さによって重大な事態を引き起こし、あるいは自らの身を滅ぼし、愛するものを裏切るものだ。――醜く、我が身のみを大事にし、憎しみ、傷つけて浅ましく取り乱すもの。それは、俺自身がそうであるゆえによく判る」
「そう。人は愚かで弱く、醜きもの」
 コルネウスは調子を取り戻したようで、歌うように言った。
「そして王は、その人々を厭わしく、愚かと怒りを感じ、またその浅ましさ、醜さに愛想を尽かし、この世を無常と眺め、そして……」
「俺はそれを愛しいと、哀れだと思う。言っただろう。俺自身もそういった人間の一人なのだから」
 アルドゥインの声は笑みを含んでいた。
「貴様の考えはだいたい読めてきたぞ、コルネウス。貴様が俺の何を知っているのか俺は知らない。だが貴様はたしかに魔道師ゆえに、常人の知らぬものも見えよう。おそらく貴様は俺が激昂し、あるいは絶望し――何にしろ激しく心を動揺させるのを狙っているのだろう。その隙につけいるために」
「おぬしはまだおのれを甘く見すぎている。おぬしに付け入ることなどできるものか」
 こっそりと呟くように、コルネウスは言った。そして付け加えた。
「わしはただ、おぬしのその素晴らしい――溢れ出す泉のような精神エネルギーのほとばしりが欲しいのだ。おぬしの内には星の定めた人間の――いや、それ以上の力がある。まさに天から与えられた、な。そしてそれを抑えるだけの強い意志力もな。その鉄壁を崩すためには、やはりおぬし自身のエネルギーを利用するのがもっとも正しく賢い方法なのだ」
「なるほど。貴様はそのために俺を動揺させようというのだな」
 アルドゥインは笑った。
「王よ、おぬしにはこの言葉の意味が判るのか?――わしが何を言っているのか、理解できるのか。これを理解するには上級魔道をおさめ、万物生成の法則をひととおりおさめることが必要なのだぞ」
「そんなことは判らんさ。俺は初級魔道しかおさめてはいないからな。だが、貴様が何を言いたいのかくらいは判る」
 アルドゥインは言った。
「が、貴様の目的を果たすことは、この方法では難しいようだな。どんなに人の世のはかなさや虚しさ――人の愚かしさ、醜さを見せつけたところで、俺はその程度のことで傷つくことはない」
「それがおのれの身に及ぶとしても、そう言い切れるか?」
「できなければ俺はここに生きてはいまいさ」
 アルドゥインはおだやかに答えた。コルネウスは暫し、沈黙のうちに何か考えているようであった。が、ふいににやりと笑った。
「いいだろう」
 彼は言った。
「おぬしは元々が心の裡を明らかにするたちでなければ、揺り動かされてもそうとは認めるまい。ならばわしも、もう一度異なる手で試みてみるまでさ。――なに、手は幾らでもある。これを見るがいい、王よ!」

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