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                                *



 その恐ろしい言葉が発せられた瞬間、さしものトティラも気圧されたように黙ってしまった。
 リールは口に出してしまったことでいっそすっきりしたようで、肚を決めたように言い継いだ。
「この世に一人父といい母といい、兄弟姉妹もそれはすべてかりそめの絆にしかすぎぬ。それはむしろこの世では、私にとって呪いの絆と言ってもいい。もし気弱く、そなたができぬというのならば私が代わってやってもよいのだぞ。しょせん生きるに値せぬような役立たず、ろくでなし、愚か者、狂人の輩――むしろ早くサライルの黄泉に送ってやるのも娘なり、妹なりの、私の慈悲というもの。――人が私を恐ろしい女よ、親殺し、同胞殺しと罵るのならば罵ればよい。石など投げるがよい。そのようなもの、私は恐れはせぬ。そなたとひそかに契ったときから、私は国をも、神をもこちらから縁切っている。いまさら人の口など恐れようものか!」
「なんと、リール様にはそこまでお考えであられたか……」
 トティラはうなった。それからしばらく黙っていたが、やがて決心ついたように胸をどんと叩いた。
「そこまでご決心の固きところをお見せいただければ、もはやわが申すことはございますまい」
「私と組むか、トティラ」
「むろん、リール様」
「共にサライルの火炎地獄に落ちるか」
「落ちましょうぞ」
「それでこそ我が見込んだ男だけはある」
「それは貴女様も同じこと」
 二人はあやしく微笑みあった。
「して……具体的な方策は?」
「それでございますが」
 すでに何度も考えてきたことが明らかな様子で、トティラはすばやく答えた。
「ともかく、今メビウスを引き受けて、まっこうから戦う羽目になればペルジアにあまりにも不利。その中であれこれと策を弄しているいとまはございますまい。まずともかく、メビウスが――あのアルドゥインが無事ペルジアを立ち去るまでは、ことは起こさぬほうがよろしいかと」
「ああ、そうだな」
「その間にそれがしはアルドゥインと接触し、メビウスの真意をこちらの意図は見せぬままそれとなく探り出し、全ての責はアダブル大公にあること――もし大公がその責を負うならば、メビウスに対しはるかに友好的で協力的なペルジアが誕生するであろう、と仄めかしてみようかと」
「あの男は手ごわい――信じるかな」
「信ぜぬときはその時は、いくらでも言い訳のしようのあるよう、そこは言葉巧みに」
「それはおぬしが得意のこと。好きなようにするがいい」
「また、エトルリアにも密使を出し、エトルリアにこのあたりのことを内々にのみこませ、必要とあらば協力をとりつけましょう」
「むろんクラインにも、沿海州諸国にも、草原にも、これを認めさせるべく、さっそくに密使を送らねばなるまい」
「いかにも」
「ともあれ、この機を逃すは愚というもの」
「そのとおり」
「せっかく父上が何を思ったか、作ってくれた好機ゆえ」
 ふっと沈黙がおりると、それに耐え切れぬようにリールはまた口を開いた。
「トティラ」
「は」
「実は、このようなことがあるかと思い、今宵はこのようなものを持ってきた」
 彼女はドレスのかくしから何か、折り畳んだ羊皮紙を取り出した。
「ちと拝見」
 トティラは受け取って、それを広げた。
「――これは連判状、誓約書。さても用意周到なことで」
「血判せよ、トティラ。それとも嫌か」
「せよとおおせあらば、すぐにも」
 羊皮紙に神聖古代文字で書かれた文面にすばやく目を走らせ、トティラは短剣を取り上げ、その刃先を親指に押し付けた。たちまち血がにじみだすのを一回拭き取って、それから羊皮紙の上に指先をぐっと押し付けた。リールも同じように左の小指を傷つけて、その隣に血判を捺した。
「これでよい」
「さよう。これでよい」
「あとは話を詰めてゆくばかりだな」
「いかにも」
 トティラはうなずき、それからほとんど独り言のように付け加えた。
「しかしエトルリア云々はともかく、それがしがこれからメビウスと真意で手を組むことはありますまい。メビウスにはアルドゥインがいる。どのような展開になるにせよ、奴とはいずれ死を賭して戦わずばなるまい。アルドゥインと戦うため、私は決してメビウスとは手を組まぬ」
「それは、そなたの好きなようにいるがいい」
 それこそ、私の知ったところではない――とでも言いたげな、リールの薄笑いであった。どちらも腹に一物を秘めたまま、たったいま国と、主と、親に逆らうことを共に決めた二人は、早くももう互いを憎みはじめているかのようだった。
 そして――
「ウジャス陛下。――陛下、はや、お寝いあそばしたか」
 ひっそりと忍びやかに、扉を叩く音。囁き声。
「何者か」
 深夜の時ならぬ訪問者を押し止めようとする宿直の騎士たちの後ろから現れたのは、すでにアルドゥインの命令どおりこちらに回ってきていた、ヴェルザーのセリュンジェであった。その騎士たちも、アルドゥインの命令で、外には一応ウジャス帝の老近衛兵が立っていたが、御座所の周りをかためているのは、すべてセリュンジェの部下ばかりであったのだ。
「あっ、副官殿」
 騎士たちが彼に気づき、振り向く。
「どうした?」
「この者が、お約束もなくウジャス陛下に直接お目にかかりたいと申し、重大な、火急の用と申すばかりで、問いただしても姓名も、用件の内容も、頑として言おうといたしませぬので」
「ただ、帝がよくご存知の者、お目にかかりさえすればすぐ判ると、それのみを繰り返して」
 口々に報告するのを聞いて、セリュンジェはその深夜の訪問者を確かめるべく騎士たちをかき分けて前に出た。それはたしかに暗殺者と疑いたくもなるような黒い覆面とマントにすっぽりと身を隠した男であった。彼はセリュンジェを見かけると、ほっとしたようにセリュンジェの耳に口を寄せた。
「おお、おぬしが陛下の護衛を引き受けていたのか。それなら話は早い。おぬしはたしか、アルドゥイン殿の副官だな」
「いかにも。――して、貴殿は」
 男は、他の者には見えぬように、そっと覆面をずらしてみせた。
「あっ」
 セリュンジェははっとした。
「貴方は、エトルリアの」
「シッ」
 慌てて男は鋭く制止した。
「――心得ました。ただいまご案内つかまつりますので、少々お待ちを」
 ウジャス帝は老齢の上、今日は慣れぬ公式の場に出て、よほど疲れていたのだろう。すでに床に入って、ぐっすりと眠っている。だが、セリュンジェに起こされると、そこはさすが由緒ある帝王家の血筋で、すぐに目を覚まし、夜着の上からガウンをまとっただけで、もう知らぬ仲でもないのだから、とすぐに寝所に通させた。
「おぬしか、ガオ・スン。いったいどうしたことだ。このような夜遅くに」
「お休みを妨げまして、申し訳ございませぬ」
 エトルリア公使は、奥へ通されるとすぐに、そそくさとマントと覆面を取った。
「しかしこの機を逃しては、他にまたいつ、お目にかかれるのかも知れず――ヒダーバードにて拝謁をたまわるにしても、かえってあちこちに多くの人の目、どころかこの碧玉宮をでるには、大変にさまざまな手間のいることと存じ、思うにまかせず、悩んでおりました次第で」
「何を悩んでいるわけだ」
「心安く、陛下とだけお話ししたくも、ここらあたりにさえ、かの将軍めなり大公なり、その目と耳が光っておりましょうゆえ」
「いや、ガオ・スン。少なくとも今は、その心配は無用。幸いこの一角はアルドゥインの右腕が守ってくれている。何者も今はこの一角に近づくことはできぬ」
 だからこそガオ・スンも誰何されてなかなか入ることができなかったのだが、ガオ・スンは頷いた。
「それはまことにもって好都合」
「話があるのだな」
「はい」
「ではもそっと近う寄れ。――ベッドに近く寄れば、たとえ壁に耳があろうとも聞こえるまい」
「では、お言葉に甘えまして」
 ガオ・スンはベッドの傍ら近くに腰掛け、つと皇帝の耳に口を寄せた。セリュンジェは知らぬふりをして、入口のところで自ら張り番をつとめる。
「陛下」
 ガオ・スンは重々しく切り出した。
「陛下には、まこと、ペルジア大公の断を下せしというあのタギナエ侵攻を知りたまわぬまま、今日まであられましたので?」
「そう疑われるのはもっともだが、わしはまさしく何も聞かされてなどおらなんだ。恥ずかしくもな。かのアルドゥインがヒダーバードに参り、初めてそうと知らせてくれて、わしはどれほど驚き、また口惜しかったか」
「お察し申し上げます。――と申されますと、さきの謁見の時にはやはり少しはご存じあったと?」
「何も知らぬままでは、あまりにわしが惨めであろうが」
「ご尤も。――それにいたしましても許しがたきはペルジア首脳部。わが主人、エトルリア大公サン・タオは、盟邦中の兄分とこそ思えば、陛下のお世話をさせていただく栄誉をペルジアに譲り、いっさい口出しをせずに参りましたものを――それをそのように、陛下をないがしろにし、恬として恥じるところなきとは、あまりにも尋常ならざるペルジア大公のふるまい」
「うむ……」
「まあ、あえてそれもとやかく言いますまい。ペルジアにはペルジアの考えあってのことと存じますから。が……さきほどのリール公女の言うごとく、正将なる公女がイズラルに戻った上は、残留軍はもはや正規軍ではなく、ペルジア宮廷と関わりはないというような申しよう、あれはいただけませぬな。もとよりそれが言い訳にしかすぎぬことは五歳の幼児でもわかること。あえて強弁すればするほどおのれの後ろめたさを明らかにするだけのことでございましょう」
「うむ、そうだな……」
「が、ペルジアがそのように強弁したくもなる窮地もわからなくはございません。かの決議が成された時、その時エトルリア公使は私の前任者でしたが、エトルリア公使には全くの事後承認として伝えられました。もはや決定とのことあって抗議を申し立てることもできぬまま、前任者はこの決定を容認しがたしとして国表に戻りました。私はサン大公より後任を仰せ付けられ、昨冬着任いたしましたが、その私の目から見てもタギナエ侵攻はあまりにも異常にして得心ゆかず、さてはペルジア首脳部に発狂ありか、あるいは裏に隠れたる深きたくらみありやと、警戒をしておりました次第で」
「フム――……」
「が――ことここに及びましてはもはやそのような事は申してはおられませぬ。このままメビウスとペルジアが交戦状態に入るなり、またペルジアがこたびの侵略をすべてエトルリア承知のこととでもいったように言い繕い、我が国を巻き込むことでもありましては、事は中原全てに及ぶ戦火となるに相違ございません」
「……」
「万が一にもそのようなことになりました後には、もはやいかようにペルジアが申し開こうとも取り返しはつきがたく――さようの事になります前に、我ら忠誠なるゼーアの臣といたしましては、さようの憂いをあらかじめ絶つことが、正しき臣の道と心得ました」
「……」
「ただいますぐ、と申し上げては事が荒立ちましょう。また、このようなことの後とあっては、当然ペルジアもさようご不信もあろうかと警戒しておるはず。それがいったん緩みましてより後の話、とお心得下さって結構でございますが……」
 ガオ・スンはますます声を低め、ほとんど帝の耳に囁くように言った。
「かように奇妙の振る舞いに及ぶペルジア大公はもはや信ずるに値せず――陛下には、早早にペルジアに見切りをつけられ、このさいいっそ一思いに、エトルリアに御座所をお移し下さるお心さえあれば、後々のことは全て――」
「ちと待て、ガオ・スン」
 その申し出は充分に予測していただろうが、ウジャスは意外な言葉を聞いたようにガオ・スンを遮った。
「それはおぬし一人の独断にて申すことか、ガオ・スン? それとも、サン・タオもいくばくかは承知の上か」
「ご尤もな仰せにございます」
 ガオ・スンは頷いた。

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