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                                *



「……こんなものを見たがる貴様の気が知れん」
 ゆっくりと離れて、建物の外に出てからアルドゥインは呟いた。たしかにお世辞でももう一度見たいとは言えなかったし思えなかった。
「では気分直しに、麗しの三公女たちを産んだ当人たちが何をしているのかを見せてやろう。ほれ、聞こえるだろう」
 つい言われるとおり耳を澄ませてみると、かすかに泣き声のようなものが聞こえてきた。アルドゥインは集中するようにちょっと眉をひそめた。
「遠いな……東の塔か?」
「ご明察。さすが耳も良い」
 コルネウスは皮肉ではなく言い、笑った。彼らがいたのは碧玉宮の中心部に近い庭園の上空だったので、そんな遠くの声が聞こえるはずがなかった。そこで、魔道で増幅でもしているのだろうとアルドゥインは心中で結論付けた。
「さて、行ってみようか」
 またふわふわと移動をするのかと思ったが、今度は一瞬のうちに景色が変わっていた。《閉じた空間》を使ったらしい。次の場所は薄暗い部屋だった。窓がなく、蝋燭とランプしかないので、赤い不気味な光の中にぼんやりした影がわだかまっているように、最初は見えた。
 目が慣れてくると、眼下で起こっている一部始終を確認することができた。まだ若い、エトルリア系の美しい女が、全裸で車輪のようなものに縄で縛り付けられてすすり泣いていた。水責めの拷問を受けているようで、車輪の下には水を張った水槽がある。彼らが来る前からこのむごい仕打ちを受けているらしく、女の髪も体もびしょ濡れで、肌に走る縦横の傷が生々しく血をにじませていた。
「この姦婦め、エトルリアの間諜め」
 憎しみの籠もった低いののしりとともに、灰色の地味なドレスに身を包んだ中年の女が鞭を振り上げ、女の体をぴしりぴしりと打った。とたんに若い女は悲鳴を上げた。中年の女に見覚えがあるような気がしてしばらく考えていたアルドゥインは、さっきまでコルネウスとしていた会話と考え合わせて、それがペルジアの大公妃ファレンだと気づいた。
「デラ、回せ」
 ファレンが命じると、それまでずっと無言で車輪のそばに立っていた大柄な女が把手を掴み、逆さから女が水に浸かるように車輪を回しはじめた。水から上がってくる女をファレンは体といわず顔まで打ち据えた。
「この顔で、この体で、ようも我が君をたぶらかしたな。毒婦め、神にも背く不義者め!」
「お許し下さい、二度と御前を汚したりいたしません、お許しを……」
 女の言葉は再び水に潜ってしまったために途切れてしまった。ファレンは憎々しげになおも女を打擲し続けた。
「お願いです、お許し下さいファレン様」
「ええい、汚らわしい! わらわの名をそなたの口から聞くなど!」
 ファレンは女拷問吏に視線を移した。
「耳障りじゃ。デラ、二度と喋れぬように舌を切り取っておしまい。それから鼻も耳もそぎとって、二目と見れぬ顔にしてやれ。あとは、そうだ。その乳房も手足も切り落とし、明日の大公閣下の朝食に供してくれよう。いとしい閣下の血肉となれるのだ。さぞかし本望であろう」
 言ううちに、悦にいったような笑みがファレンの口許に起こった。
「それだけは! 命だけは!」
 女はいっそう悲痛な声で泣き叫んだが、拷問吏は容赦なかった。デラは何度血まみれの用途に使ったかわからぬ長いナイフを手にして、女に歩み寄った。哀願を続ける彼女の小さな口がこじ開けられ、ナイフが差し込まれたとたん長い悲鳴が起こり、彼女はとうとう気を失ってしまった。
「行こうか。これ以上血まみれの悪夢を見たいというわけでもなかろう」
 もうだいぶ前から嫌そうな顔をしていたアルドゥインに、コルネウス自身もあまり楽しまぬ面持ちで告げ、二人はまた塔の外の庭園に出た。
「あの大公妃も、エトルリアから嫁いできた最初は夫に仕え、貞節な妻たろうとしていた純真な処女だった。しかし男児に恵まれず、相次いで生まれた公女たちはあのような化け物ぞろい、そのせいもあってか夫の女遊びは止まらず、とうとうああして夫の愛人をなぶり殺すことだけに生き甲斐を感じるようになってしまったのだ」
「因果なものだな」
 というのがアルドゥインの短い感想だった。
「その心優しい血まみれの大公妃の因果な夫にして、美しくこまやかな姉妹愛につながれた公女達の父は、何をしているものかな」
「まだ続くのか」
 さも嫌そうに、アルドゥインは言った。コルネウスは妻と愛人の惨劇もすでに気にした風ではなくなっていた。コルネウスがアルドゥインの背中を押すようにして、彼らは再び宮殿内に戻ってきた。
「見てみるがいい、王よ。ここがアダブル大公の居室だ。彼が何を考え、また思っているのかを」
 にせアインデッド――コルネウスは仰々しく言った。見下ろしてみると、彼らの眼下にはもうほとんど灯も消えて、常夜灯だけが揺らめいている部屋がいくつも続いている。そのどれにも、騎士や小姓たちが詰めていて、眠っていたり、寝ずの番をしていた。それらの部屋のいちばん奥、次の間つきの最も広い一室が、大公の寝室であった。
 ドアの前にも、次の間のドアにも近衛兵が詰めている。その奥に天蓋つきのベッドと、豪華な寝椅子、机、椅子などが居心地よく具えられており、壁には代々の大公たちの肖像画がいかめしくかけまわされていた。
 ドアの横の、隠し扉のようになったドアを静かに叩くものがあり、そっと入ってきたのはアヴィセン宰相だった。
「閣下、もうおやすみであられますか?」
「いや」
 ベッドから身を起こしたのは、白い夜着姿の、まぎれもないペルジア大公アダブルであった。
「待っていたぞ。遅かったな」
「申し訳ありません。少々立て込んでおりまして」
 アヴィセンの方はまだ正装のままである。疲れたようにどかっと椅子に座ったその姿は、何か真面目に大きな仕事をこなしてきたと見えこそすれ、ちょっとした楽しみを終えてきたようには見えなかった。
「酒は?」
「いただきます」
 アダブルは手を叩いて小姓を呼び寄せ、二人分の酒を持ってくるように命じた。
「で――どう思う」
「はあ」
「この話だが、どうしたものだろうな。あやつ――アルドゥイン――まことの魂胆は何なのか」
「さようでございますなあ」
「沿海州の者は――特に南方の者はどうもよく判らん。顔色一つ変えはせぬ。どこまで信用していいものやら」
「はあ……」
「むろんイェラインの内命を受けてきているのだろうが、メビウス軍籍を抜けてきたと公言しているからにはメビウス政府に抗議するのは、ちと難しい。突っぱねられればそれまでだからな」
「はあ、さようで」
「なあ、アヴィセン」
 妙に気弱そうに、アダブルは言った。
「わしは一体、何を考えてタギナエに兵を出そうなどと決めたのだろうな?」
「は?」
 その時、小姓が酒を持って入ってきたので、アダブルは彼が出て行くまで口をつぐみ、それからまた口を開いた。
「どうも、悪い夢を見ていたような、変な気がする」
「と申しますと?」
「たしかに、クラインが介入をしないだろう今が好機だと思い、メビウス侵攻の決定を出したのはわしだ。いつどこの広間でそうしたのか、それははっきりと思い出せる。だから、わしのしたことなのに間違いない。そうでないなどと言うことは嘘になる」
「はあ……」
「それでな、アヴィセン。これはおぬしにだけ言うのだが――あの時、わしは全く気が触れていたとしか思えぬ。そうとしか考えられぬ。あの後もだんだんに不安が募ってくるのを抑えつつ、大丈夫、わしに任せよと言いつづけてきた。が、さっきからずっと、メビウスとペルジアの国情だの、エトルリアの状況、ラトキアのことなどつらつら考えてみて、これはいかに考えてみたところで、万が一にもペルジアのが勝てる戦ではない、とんでもない気違い沙汰だと思われるばかりだ」
「は……」
「まだ、対エトルリアの兵を起こすほうが納得できる。――してしまったことをあれこれいうのは男らしくないが、しかし一体どういうわけでわしはあんなことをしでかしてしまったのだろう――。あの時の、雷に打たれたような、そうせねばならぬという思いこみは、一体何だったのだろう」
「……」
「のう、アヴィセン。こう申しては、おぬしの心を傷つけるやもしれんが、いつもわしやトティラが行動に出ようとすると必ずといっていいほど優柔不断で水をかけるおぬしが、どうしてあの時に限って反対せず、逆にわしらと一緒にやれ、やれと燃え上がっておったのだ? どうもあれが納得いかぬのだが……」
「さあ……それは……」
 大公は首を振った。
「今更このようなことを言って、ふがいないと思うかもしれないが、あの男を見た途端、まるで憑き物が落ちたような気がして――そして、一体これはどうしたことかと思われてきたのだ。これまでのことはまるで悪い夢か、悪いものに操られていたことのように思えてならん。そして一つ、思い出したことがあった」
「はあ……」
「あの時――というのはメビウス侵攻を決めた時だが、その時、頭の中で一つの声が――いや、こんなことを言えばおぬしにどれほどか馬鹿にされようことは承知した上で言うのだが――。一つの声が聞こえてきて、告げたのだ。わしは思い出したよ。その声はこう言ったのだ。行って、神意を行え、と」
「……」
 アヴィセンは主君の正気を疑うような目を、まじまじと向けた。
「そのようにおぬしがわしの正気を疑うのはもっともだと思うが」
 アダブルは悲しげに言った。
「しかし、まことなのだ。たしかに聞こえたのだ。そしてその時、わしにはそれが絶対の威厳あるもの、何があっても従わねばならぬほどの力あるものと聞こえたのだ。おぬしの知ってのとおり、わしはさほど神話だとか、神秘だとかに興味を持ったり、いちいちお伺いを立てるような性格ではない。――それだけに、これはまことの神意を告げるものかと思い、深く考えることもしなかった。それのみか、その怪しい声のこともすっかり忘れておったのだ。が、今思い出した」
「ふしぎな――」
「一回それきり、という神意があるだろうか? いかにもこれは怪しいことであるが、今さら一国の大公ともあろうものが、何万の兵を動かし、しかもそれは益なく終わり、あまつでさえ多くの死傷者を出し、相手方から強く抗議を受けた――それを、あれは一つの夢、怪しい神託の声にたぶらかされたのであって、まったくわしの判断違いであったなどと認めることができようか? おぬしであれば、できるか? そんなことをしようものなら、わしの威厳は地に落ち、以後二度とわしを大公と仰いでくれる者など、この中原に一人としていなくなってしまうだろうよ」
「しかし、不思議なことでございますなあ……」
「不思議、だと」
 アダブルは明らかに機嫌を損ねて叫んだ。
「おぬしは、わしがこれほどにも悩んでいることに対して、不思議だとしか言ってくれんのか。宰相ともあろう、おぬしが」
「あ、いえ、いいえ。決してそのような意味で申したのではございませんで」
 アヴィセンは慌てた。
「実を言いますと、その――私も、その声を聞いたのでございます」
「何だと」
「神意を告げるようなものではございませんでしたが、これは正しいのだ、こうするしかないのだ――今叩かなければメビウスはやがて中原の脅威となる、と、白衣、白髯、杖を持った老人がそのように告げましたので」
「白衣、白髯、杖――それは、ヤナスではないか」
「それゆえに、わたくしもつい、大公閣下を強くお止め致しませんでした」
 衝撃を受けたようで、アダブルは黙り込んでしまった。それから、だいぶ経ってから弱弱しく言った。
「だからといって、そんなことを、あの男に言えるか? あれはみんな、ペルジア宮廷の重臣たちが、夢魔にたぶらかされたゆえの間違いであったと」
「それはたしかに、そうでございますな……」
「じっさい、いかなる夢魔に魅入られたものか」
 アダブルは長いため息をついた。
「トティラがどう思っているのか、あやつも何かの啓示を受けたのか、とうていわしには聞くことができん。あやつがもしも啓示を受けていなければ、こんな馬鹿げた話を聞いたら怒り狂って何を言い出すか判らん。――あの沿海州人もきつそうだしなあ……」
「はあ――さようで」
「はあとさよう以外に何か言えんのか、おぬしは」
「はあ、さようなこともございませんが」
「ペルジアはサライルに見込まれたのだ」
 アダブルは絶望的に布団を叩いた。
「このままもし、メビウスが総力で攻め込んでくればペルジアは負ける。といってこの疲弊したところをエトルリアに突かれても危ない。一体何だってこんな――」
「はあ……さようで」
「獅子王よ」
 いかにもうんざりしたようににせアインデッドは手を振り、すると彼らの眼下の部屋は消え失せた。
「見てのとおりだ。この国ペルジアはもはや手のつけようもないほど腐れきっている。その支配者も、最高権力者も、すでに年老い、判断力も決断力もない。ただの愚か者と化している。この国はもはや死んだも同然なのだ」
「黙れ。そう言いながら、大公や宰相の夢枕に立ち、怪しげな神託を吹き込んだのは全てお前の手、いかがわしい魔道にほかならんじゃないか。お前が手出しをしなければ平穏に過ごしていよう人々をそそのかし、惑わし、道を失わしめる。この妖怪め」
「こは心外な、情けなきお疑いよの」
 コルネウスは本当に情けなさそうに首を振った。
「では見てみるがいい。このさまを――」

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