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                                *



 物見の塔から下りてくると、ウジャス老帝はすぐに羊皮紙とペンを持ってこさせ、頼まれた書状を書きはじめた。数分後には書き上げられた親書をたずさえ、アルドゥインは仮の練兵場にしている馬場に向かった。
「アルドゥイン千騎長」
 ネイクレードが彼の姿をみとめて足早に近づき、並んで歩いた。石畳に、軍靴の音が重なり合って響く。
「第四隊、準備は」
「第一級軍装にて待機中。全員揃っております」
「よし。モデラート、第五隊は」
「同じく閣下のご命令を待つばかりです」
 密かな内心での反目があったことなどすでに感じさせない、彼の部下であることを誇るかのような口調で、モデラートは答えた。軍議のために集まった隊長たちの方にアルドゥインが歩いていくと、騎士たちは口々に歓声を上げ、陽気に話しかける。
「千騎長、早く戦わせてくださいよ!」
「エール・メビウス!」
 それに鷹揚に手を振ったりしながら、アルドゥインは軍議の輪の中に入った。
「カトライ」
「はっ」
 さっと出てきて跪いたカトライに、アルドゥインはついさっき書き上げられたばかりのウジャス皇帝の親書が入った封筒を手渡した。
「この書状を持って、今すぐにイズラルのエトルリア公使官邸に駆け込め。そしてペルジアが敢えてゼーア皇帝の身を害する危険を冒し、ヒダーバードに攻め込んできた、と伝えろ。どんな手段を使っても構わない。できるだけ装備、人数は少なく。単騎とは言わないが三人までとする。それ以上だと機動力が落ちる」
「しかし、千騎長」
 ヤシャルが心配そうに眉を寄せた。
「エトルリアが動かなかった場合はどうするのですか」
「おそらくそれは無い、と思うが――どうあっても動かす。そのためのゼーア皇帝のお墨付きだ」
 アルドゥインはにっと笑顔を浮かべた。
「エトルリアはゼーア皇帝などどうでもいいと思っているだろうが、同時にペルジアを追い落とすチャンスをうかがっている。ペルジアがゼーア皇帝を害そうとしているというのは、介入へのいい口実になる。間に合うように動かせるかどうかはこちらの腕次第ということになるが、できるな」
 そう言って、カトライを振り返る。彼は力強く頷いた。
「一命に代えましても、必ずや動かしてみせます」
「馬鹿を言うな。ガオ・スン公使がペルジアに益を図ろうとし、あるいはお前の身に危険があれば迷わず帰ってこい」
 リュシアンと同じことを、アルドゥインは命じた。
「かしこまりました」
「よし、行け」
 カトライは一礼し、その場を駆け去っていった。彼が行ったことを確認し、アルドゥインは改めて部下たちを見回した。
「もう皆わかっているとは思うが、ペルジア軍はヒダーバードに向かって進軍を開始した。破壊槌を備えていることから見て、ウジャス老帝がどうなろうと我々をひとのみにしようというつもりだろう。これについて意見は?」
「軍議のいとまはございますまい。かくなれば戦うまで。ヒダーバードの外で討って出れば老人たちに被害が及ぶこともございません」
「いや、マクロ百騎長、閣下がおっしゃりたいのはそのようなことではないはず」
 この中では一番アルドゥインの考えを読み取るのに長けているヤシャルが口を挟む。
「討って出るとしても、数の差は歴然。むしろイズラルの守りが薄くなった今を狙ってイズラルを落とすということも考えられましょう」
「しかし、我々がここから去れば、もはや護るものも無いウジャス皇帝を亡き者にしてしまおうとするのでは。むろん我々は宿を借りただけのこと、責任はないと強弁することもできようが……」
 サドワの言葉に、驚いたようにネメシアヌスが言う。
「まさか。仮にもおのれの君主を」
「相手が破壊槌を持っていることからして、ヒダーバードの市城がどうなろうとかまわないというつもりであるのは明白だ。そのくらい考えても不思議はない」
「では、どうするのだ」
「閣下」
 全員の目が、アルドゥインに向けられる。彼はこの紛糾を黙ってじっと聞いていたが、水を向けられて目を上げた。
「俺としては大規模な戦闘に持ち込まれる前にエトルリアからの介入があることを見込んでいる。それまで持たせることだけを目的と考えてくれ」
「ですが敵が眼前まで迫っているこの状態で、戦わぬわけにはまいりません」
 アルドゥインのおもてに、かすかな皮肉めいた、面白がるような笑みが浮かんだ。彼は周囲に広がるヒダーバードの建物を見回した。
「それは、むろん。ヒダーバードは元来がとりでとして建てられているから、護るに易く、攻めるに難いと聞いている。実際古くはあるが立派な城砦だ」
「では……籠城ですか」
「いや。それはあまりにも拙策というもの」
 アルドゥインは首を振った。
「大体、我々のこの人数では籠城が三日にもなれば市城の食料が尽きてしまうからな。しかし迎撃するのはヤシャルの言うとおり危険だ。だからこうしよう。ネイクレード隊とネメシアヌス隊、エウスタス隊はペルジア軍を迎撃する。モデラート隊とクンツェル隊はただちに市城の背後に回り、退路を確保。同時にイズラルへの道を確保する。残るディウス隊とサドワ隊、レムエル隊は今から指示する方法で籠城の構えを取る」
 おおっ、と隊長たちはどよめいた。
「さあ、忙しくなるぞ。何せ五千でいっぺんに籠城、出戦、迎撃の三つをやらなきゃならないんだからな。判ったか?」
「了解!」
「エール・メビウス!」
「私も第四隊へ入ってればよかった」
 クンツェルがつぶやいたのへ、アルドゥインは笑いかけた。
「退路確保だって重要……どころか場合によっては最重要事項なんだ。頼むぞ、クンツェル千騎長」
 籠城組に決定したディウス隊、サドワ隊とレムエル隊にこまごまとした指示を全て与え終わったところで、ウジャス皇帝がアルドゥインを呼んでいる、と老侍従が伝えに来た。最後の指示を慌ただしく済ませて、彼はだいぶ慣れて道筋も覚えてきた城館の中に入っていった。
「陛下、アルドゥイン殿をお連れ致しました」
 今回は最初に謁見を許されたあの重々しい広間ではなく、こちらはもっとくだけた雰囲気で客と会うか、それとも居間の一つとして使っているのだろう一室に通された。ウジャスはもうすっかり落ち着きを取り戻していて、これはどの部屋でも変わらぬ古びた椅子に力なく腰掛けていた。
「忙しいところを呼び立ててしまったかな、アルドゥイン」
「いえ、一段落ついたところでしたので、さほどのことではございません。陛下におかれましては、俺に何のご用向きでしょうか」
 略式の礼をしつつ、アルドゥインは答えた。老帝の周りでうろうろ、おろおろしている老人たちの様子を見ていると、どうやらウジャスは彼らをうまくなだめすかすことができなかったようだ。
「やはりヒダーバードは戦場となるのか? それだけが心配でならぬのじゃ」
 戦場と聞いたとたんに、老侍従と老女官たちは怯えたような悲鳴と泣き声を上げ、内容までは聞き取れない会話を一斉に始めた。ウジャスはうんざりしたように――実際うんざりしていたに違いない――静まるようにと一応命じた。
「先にも申しましたとおり、そうならぬように最善の策を考えております。ご安心ください」
 ウジャス帝にというよりは周りの老臣たちによく聞こえるようにアルドゥインははっきりと、なるべく大きな声で言った。ハイラス大僧正などはその時、しきりとヤナスの聖句を唱えていたのだが、一瞬驚いたようにアルドゥインを見た。
 良きにつけ悪しきにつけ、このヒダーバードにこれほど多くの兵士、若い人間が集まったことなどかつてなく、道路に馬の蹄の音が鳴り響くということも久しくないことだったはずで、稀に見るほどのにぎわいをみせていたのは確かだったが、それを老人たちが喜ばしく思っているのかどうかは言わずもがなであった。
 数少ない住人たちの中で、近隣に親戚があるものは戦禍を恐れてヒダーバードから彼らを頼って疎開していき、親戚のないものやその元気もない老人、皇帝とあくまでも運命を共にしようという本人たちにとっては非常に悲壮な決意をかためているものたちだけがいまやヒダーバードに残っていた。
 アルドゥインたちはこの居残った老人たちを三の丸、二の丸から中心近い本丸のほうまで避難するように言い聞かせ、市城の周辺部からメビウス軍以外の人間を追い払ってしまった。それは老人たちが、というよりは老人に気を取られて彼ら自身が危険に晒されかねないという懸念もあってのことだった。
 老人たちはこの突然現れた侵入者に対して文句を言ったりはしたけれども概して従順であった。恐らく長い間ペルジアからいろいろと命令されて言うなりになっていたために、逆らう行動に出るということももう思いつかないようになっていたのだろう。
 しかしアルドゥインたちは彼らの老いた頭に、彼らは凶悪な侵入者に皇帝ともども人質とされたのであって、もしペルジア宮廷が彼らの救出に不熱心であったり、攻め込んできたりした場合にアルドゥイン軍が彼らを護るなどと考えるのはお門違いで、自分の身は自分で護らなければならないのだということを叩き込まねばならなかった。
 ウジャスはもう老臣たちには目をやらず、アルドゥインだけを見て言った。アルドゥインは何度か繰り返した言葉をまた口にした。
「とはいえ、思わぬご迷惑をおかけするかもしれません」
「そのことはもうよい。落日とは申せゼーアの皇帝。二言は無い」
 老帝は微笑んだ。
「だが覚悟はできている、と言えばそれは嘘になるな。わしはな、どうやらまだこの世というものに未練があるらしい。そなたがトティラなのだと思い込んで、とうとう殺されるのかと思ったとき、まるで地面が足元から消えていってしまうかのような、何とも言えぬ心持を味わったよ。とうに覚悟はできていると思っていたのにな。おかしなことだ」
「人として、それは当然のことかと」
 アルドゥインはやや目を伏せるようにして、呟いた。
「して……きゃつらはどれほどでヒダーバードに着くものか」
「あと二テルもかからぬでしょう。すでに手は打ってあります。陛下はどうかお心安らかに、結果をお待ち下さい。たとえ我らが敗北を喫したと致しましても、そもそもペルジア軍は我らから陛下をお助け申し上げるべく駆けつけたものであるはず。陛下に危害を加えるなどということはございますまい」
「そうは思えぬから、不安なのだ」
 ウジャスは皺深い顔に苦渋に似た表情を浮かべた。それは恐らく、心からの述懐であったに違いない。老人たちのひそひそした話し声を破って、セリュンジェがアルドゥインを呼びに来た。それを潮時に、ウジャスも彼を解放することにした。
「聞きたかったのはそれだけだ。武運を祈るぞ、アルドゥイン」
「ありがとうございます」
 本来は君主だけが行えるものであったが、ウジャスはイェラインの代わりに、と言って手にしていた王笏でヤナスの印を切ってやった。
「第一隊がいつ出るのかって、やきもきしてるぜ」
 セリュンジェが言った。
「ああ……戻ったらすぐにでも指示を出す。もうだいぶ近づいたな」
 城館を出ると、すでに物見の塔のような高みに戻らなくとも、本丸ぐらいの高さからでもはっきりと旗印が読み取れるまでに敵軍が近づいていた。ペルジア正規軍の掲げる幟に描かれている、青地に百合の花はペルジア大公家の紋章である。
「全面衝突を避けられるかどうか、だな」
 独り言めいて呟いたアルドゥインのおもてには、たしかに憂愁に似たものがあった。

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