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     進軍ラッパが響き渡る
     剣を取れ 矢をつがえろ
     戦いが始まるのだ
     恐れおののく臆病者め
     逃げるなら今のうちだぞ
     城でも 敵でも構いはせぬ
     われらの行く手を阻むものは
     きれいさっぱりなぎ払え
          ――「陽気な五人衆」




     第二楽章 城のパッサカリア




 翌朝、アルドゥインは自分の身の上に起きた怪異のことなどみじんも感じさせない明るさで兵たちの前に姿を見せた。異国の軍勢とはいえ若い男が五千人も来たのである。通りや街角に兵士たちの姿をひんぴんと見かけ、ヒダーバードの人口はまるで倍に増えたかのように見えた。
「お早う、アルドゥイン。昨日は押しかけてすまなかったな」
 セリュンジェが彼を見かけて、近づいてきた。
「どうせ俺も眠れなかったところだったんだ。むしろ気が晴れたよ。お前とあんなふうに深い話ができるとは思っていなかったし」
 アルドゥインは有るか無いかの微笑みを浮かべた。よく気をつけて見てみれば彼の目の下にはうっすらくまができていたし、何となく疲れたようであったが、連日作戦を考えなければいけないのだし、寝不足ということもあるのだろうと思ってセリュンジェはあまり気にしなかった。
「そうか。それより、さ」
「ああ」
「ウジャス皇帝を人質にしたってことは、もうイズラルに伝わっているはずだよな。いつごろ攻めてきやがるかな。それについてはどうなんだ?」
「こればかりは向こう次第だからな。とりあえず放置しておくなどということはないと思っているが。今日か、遅くとも明日といったところだろう。――俺は皇帝陛下のご機嫌伺いに行ってくるよ」
 アルドゥインはなおも何となく考えに沈んだまま、ウジャス皇帝の居住区のほうへ入っていき、案内を乞うた。
 帝はハイラス大僧正や小姓たちと朝食の席に着いているところで、一緒につくようアルドゥインに勧めた。
「ところで、イズラルからは、反応はあったかな、アルドゥイン」
「いいえ、まだのようですが」
 ウジャスはちょっと眉をしかめた。
「遅いな。夕べのうちに、使者が着いているなら、どうあれ、朝一番には返答があるべきだが」
「いろいろと、意見の不一致を見てもめることもあるかと」
「頑固頭のトティラがいるかぎり、そういうことは考えられんが。あいつは、意見の不一致などということは、なかなかに許す奴ではなくてな」
 なおも帝はアルドゥインに朝食を共にするように勧めた。が、昨日の昼から晩餐と、たてつづけの精進料理は、アルドゥインほどの体格を維持しなければならない身としては結構こたえるものだったので、アルドゥインが無作法にならぬように、何と言って辞退したものかとあちこち見回しているときだった。
「閣下! アルドゥイン千騎長閣下!」
 転がるように伝令が駆け込んできた。体はアルドゥインに向けて、顔だけウジャスの方に向けて軽く一礼した。礼儀がどうのと言っていられる状況ではなさそうだというのはすぐに判った。
「ウジャス陛下、御前を汚したてまつり、失礼いたします。――閣下、ペルジア軍がイズラルを出、ヒダーバード方面に向かって進軍を開始いたしました!」
「何――だと!」
 叫んだのはアルドゥインではなかった。ウジャス老帝は手から銀のさじを取り落として、棒のように突っ立った。アルドゥインの方はさもありなんと考えていたらしく、冷静なままであった。
「数は」
「およそ一万強。ただし後続の有る無しは未確認」
「組成」
「二個騎兵隊、三個歩兵大隊、その内一個大隊は破壊槌、火矢、弩などを車にのせております」
「破壊槌!」
 今度はハイラス大僧正の手からぽろりと匙が落ちた。
「……。敵の速度は?」
「遅くとも二テル後にはヒダーバード圏内に先兵が姿を現しましょう」
「二テル。よし、すぐ行く。こちらの隊長クラスを馬場に」
「はいッ」
「陛下――陛下、お気を確かに!」
 つかつかと出て行こうとしていたアルドゥインは足を止めた。真っ赤な顔になってむせかえっていたウジャス老帝が小姓たちに抱え起こされ、ようやく水を一口、飲みおろすところだった。
「ア――アルドゥイン」
 よろよろと、ウジャスは立ち上がった。
「アダブルの奴……あ、あの恩知らずめ! 何という忘恩の仕打ち! 名目上あやつの君主にほかならぬこのわしを……わしを見殺しにしようというのか! ただ朽ち果ててゆくだけの老人を、剣にかけようと……」
「あるいは我々から陛下を救い出そうとしての派兵かもしれませぬ。お気を強く持たれませ、陛下」
「わしはあやつがどういう男かよう判っておる、判っておるのだよ、アルドゥイン。あやつは救い出すと見せかけて、その隙にわしを殺すことぐらい考え付きかねん。そうでなくともトティラがな」
 老帝はとうとう両手で顔を覆って、辺り憚らずおいおいと泣き出した。周りの廷臣や小姓たちも追従して――半分以上は彼ら自身の感情だったろうが――声を上げて泣いたり、床に身を投げ出して嘆きはじめた。これにはさしものアルドゥインも閉口した。
「陛下、陛下!」
 語気を強めると、やっとウジャスは顔を上げた。皺ぶかいその顔が、涙やほかのものでべとべとに濡れている。見かねてアルドゥインは手布を差し出した。
「仮にペルジア大公が陛下を害せんとヒダーバードに押し寄せて参ったのだとしても、この俺が騎士団あげてお護りし、至上の御身には指一本触れさせはいたしませぬ。ご安心ください。それよりも、陛下にしていただかねばならぬことがございます。お聞き届けくださいますか」
 泣き言を差し挟まれてはたまらない、とばかりにアルドゥインは一気に言い切った。ウジャスはその勢いに、思わず嘆き悲しむのも忘れてしまった。
「今さら、わしに何ができる」
 さすがに皇帝というべきか、ウジャスは周りの老人たちよりはずっと実際的であったし、頭の回転もここ二日のめまぐるしい状況についていこうとして、恐らくは以前よりもずっと早くなっていた。そのことにアルドゥインはいくぶんほっとした。
「在イズラルのエトルリア公使に、陛下からの書状をお願いしたい」
「エトルリア公使はガオ・スンという男だが、これはなかなかに抜け目のない男だ。のちの利益を考えて、ペルジアに益を計らぬとも限らぬぞ」
「ガオ公使が国益に忠実か、私益に忠実か、それが我々の運命の分かれ目、とも申せましょうな。これは賭になりますでしょうが、俺は負ける賭はいたしません」
 アルドゥインは薄く笑った。とはいえそれは酷薄なものではなく、むしろこの苦境を面白がっているふうであった。
 老人たちを安心させるための見せ掛けだったのか、本心からのものであったのかは定かではなかったが、とにかくアルドゥインの余裕はウジャス老帝を落ち着かせ、本来の冷静さを取り戻させるには充分役に立ったようだった。
「判った。その前に、我がヒダーバードに迫っているというペルジア軍の様子を見てみたい。ちと付き合うてはくれぬか。それが済んだら、そなたの言う用事にかかろう」
 ウジャスが行こうとすると、老小姓の一人がつと傍によって何か言ったが、彼は首を横に振った。
「いや、供はアルドゥインだけで良いよ。おぬしは待っていてくれ、ルドルフ」
 老帝がつと歩き出すと、老臣たちはてんでに跪いて、これが永の別れというでもないのにそのマントのへりや裾に口づけて恭順と哀惜を示した。それを鷹揚に許しつつ、ウジャスはアルドゥインをともなって食堂を出た。
「どうも、あの中にいてはわしまで老いぼれてきてしまう。いや、わしとてそなたから見れば立派に老いぼれだろうがな」
 ため息まじりに、ウジャスは呟いた。
「こう申してはあの者らには悪いがな、おぬしといるとおぬしのその若さ、気力が流れ込んできて、わしも若返ったような意欲が湧いてくるのだが、あの中におるとそのせっかくの気力も何もかもが吸い取られてしまうとでもいうようにな」
 ウジャスはやがて、昨日アルドゥインも登った物見の塔まで来た。
「わしはな、昔からよく供のものを下に待たせてここに登っては、世界に思いを馳せていたものだよ」
 遠い昔を懐かしむあの口調で、ウジャスは言った。何度も登ったことがあるというのは嘘ではなかったようで、案外しっかりした足取りで一歩一歩石段を踏みしめながら登っていった。アルドゥインはその後ろから、ゆっくりとついていく。やがてウジャスは足を止めた。
「ここでよい。ここからは階段が急になって、わしにはもう登れぬ。おぬしはもっと上に行くか?」
「いえ、お供つかまつると申し上げたからには俺もここで」
 そこは、塔の半分よりももう少しぐらい登ったあたりだった。アルドゥインはウジャス老帝の風除けになり、なおかつ眺めを邪魔しない場所にさりげなく移動した。老帝の目ははるかイズラルか、着々と近づいてくるペルジア軍の巻き上げる砂煙に吸い寄せられて離れない。
「どういうものかな。初めて見た気がせぬ」
 老帝はぽつりと言った。
「夢に何度も、かような情景を――この日が訪れることを見ておったせいだな。いつごろから見はじめたかももう判らぬ夢だ。アダブルが、トティラが、わしを弑せんとてヒダーバードに軍を差し向けてくる、それをわしは成す術もなくここからこうして見下ろしておるのじゃ」
「陛下……」
「だが夢と違うこともある」
 ウジャスは晴々とした顔で笑った。
「アルドゥイン、そなたがわしの隣にいてくれるという、この頼もしさじゃよ。――よかろう。塔を降りたらすぐにでも、そなたの言うとおりに書状を書こう。他に書かねばならぬものなどあるか」
「ございませぬ」
 よどみなく、アルドゥインは答えた。
「ただ――陛下の周りの方々に、ヒダーバードが戦場になることはない、心配は要らぬと、陛下から仰っていただきたい。陛下ご自身のお言葉の方が、俺が言うよりも信用していただけよう」
「それは、任せておくがよい」
 ウジャスは頷き、またゆっくりと、しかし確実な足取りで階段を下りはじめた。

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