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                                *



 酒も尽きてしまうと、セリュンジェは突然押しかけたことを詫びながら自分の寝所に戻っていった。一人きりに戻り、アルドゥインはまた眠れぬままに寝台にゆくこともせず、漫然と外を眺めていた。
 古びていて、趣深いこの街の風景は、初めて訪れるアルドゥインにしてみればそれなりの目新しさ、美しさを感じさせたが、七十年もの間この景色だけを見て過ごすという気分はどうしても想像できなかった。そう考えてみれば、ウジャス皇帝の辿ってきた人生というのも、なかなかに凄絶なものであるように思われた。
(飼い殺されるのも王族ゆえ、暗殺されるも王族ゆえ、か)
 アルドゥインはそっと右肩に手を当てた。その背には、彼が逃げようとした、そして逃げ切れぬ過去の全てがある。
(あれからもう、七年になる)
 捨ててきたはずなのに、忘れることはできないものだ。
(父上はまだ、探さずとも俺が戻ると思っているのだろうか。それともこのような不肖の息子はもう廃嫡されたか――)
 そう考えると、一抹の寂しさにも似た感覚が湧き上がってきた。連れ戻されることを恐れていながら、完全につながりが途絶えることも恐れている自分にむしの良さを感じることもあった。
(俺が失踪すればあの叔母たちもさすがに思い直すと思ったが、結果として嫡男としての責任全てをヒュラスに押し付けてしまったし、婚約直前だったのにキリアには悪いことをしてしまった。俺という人間がどれだけ他人と関わっているのかということを考えもせぬほど、俺はまだ若く愚かだった)
「王よ――、獅子の王よ」
「えっ?」
 突然何処からともなく響いてきた声に、アルドゥインはびくっとして周りを見回した。だが部屋に彼以外の人間がいる気配はなかった。
(今、確かに誰かが何か言ったはずだが……)
 その時、怪異が起こった。風もないのに常夜灯の火が伸び縮みし、照らし出す家具やカーテンの影を不気味に揺らめかせた。窓から差し込む月影が床に黒々と落とす影も、その動きに合わせるかのようにぐねぐねと動いている。
 自分は動いていないし、月光が揺らめくことなどあり得ない。それを確かめるためにアルドゥインは振り返ろうとしたが、体はその空間に縫いとめられたように動かず、首を曲げることもできなかった。
「これは……」
 青白く床を照らしている月光の枠が浸食されたように少しずつ狭まっていく。やがて全てが闇に飲み込まれた。
(うわっ)
 いつの間にか足を地に付けている感覚すら失われていた。かといって浮いているような感じもしない。アルドゥインは身動きが取れぬまま目を閉ざしているのか開けているのかも判らないような闇の中に放り出されたのだ。しかし不思議と慌てはしなかった。
「おお、さすがは王。泰然としているものよ」
 かすかに、面白がるような響きを持った声が降ってきた。いや――それも正しくはなかった。その声は上から聞こえたようにも、下から聞こえたようにも思えたし、かといって左右のどちらからも聞こえてきたように感じられた。さながらアルドゥインを取り巻く空間全体が声を発したかのようだった。
「お前は誰だ? こんな怪しい手妻を使うとなれば、魔道師だな」
 相変わらず体の自由は利かなかったが、声を出すことはできるようだった。
「先程は故郷を思い出しておられたか。かように懐かしまれるのであれば、いつなりともお戻ししてさしあげますぞ」
「ふざけるな! 俺に話があるなら姑息に闇に隠れず、さっさと姿を現せ。用がないなら俺を戻せ。下らんお喋りに付き合うぐらいなら寝たほうがまだましだ」
 アルドゥインは大声を上げた。そうしながら、こんな大声を上げているのに扉の外にいるはずの衛士なり、隣の部屋の副官なりが気づかないのもおかしなことだと思った。あるいはここはすでに魔道師の結界の中なのかもしれなかった。
「ホッホッホッ」
 からかうような笑い声が空間で弾けた。そのあまりの音量にアルドゥインは思わず耳をふさぎたくなったが、体が動かなかったので歯を食いしばって耐えた。
「その落ち着きに相反する激しさ――まさに若き獅子と言ったところですな。しかし短気はよろしくない」
「こんな状態で悠長にしてられる奴がいるならお目にかかりたいものだな」
 むっとしながら、アルドゥインは言い返した。相手は何も言わなかったが、嘲笑するようなざわざわとした空気がなんとなく伝わってきた。それはあまり気持ちのいい経験ではなかった。
「俺は暇じゃないんだ。さっさと名乗るなり用があるなら言うなりしろ。俺にだって多少は魔道の心得はある。ここは貴様の結界だろう。抜けることはできなくともお前に迷惑を掛ける方法ぐらいは持っているぞ」
 ともかく相手が魔道師なら人間なのだし、そう思うと気持ちに余裕が出てきた。
「おお、王よ、王よ。短気を起こされるまい」
 相手はなだめすかすような声を出した。
「星を見る魔道師は申しませなんだか。王はペルジアにて力強き助けを得ると。なぜわれがその助けではなかろうかとお思いになられぬ?」
「なに?」
 怪訝そうに、アルドゥインは問い返した。
「さよう、我こそ王の助けとなるべく星に定められし魔道師。そのようにキャスバートは申したはず」
「確かにそんな予言は受けているが……お前がその予言の助けだというのか」
「こは情けなや、情けなや。王は我を疑われるか」
 相手の少々芝居がかったような言い方と台詞に、アルドゥインは辟易した顔をしたが、相手は見えていて無視をしたのか見えていなかったのか、それについては何の反応もしなかった。
「……お前は予言された助けなのか? 何にかけてそれを誓える」
「この世の最も神聖な侵すべからざる神々の名にかけて」
 今度は打てば響くように、声だけの相手は答えた。
「そこまでいうのなら、それは真実なのだろうな」
 アルドゥインは、内心ではかなり驚きや、不安を感じていたはずなのに、自分の声がいやに落ち着いていることに我ながら感心した。
「ペルジアを操り、メビウスを害せんとしているものの正体をお前は知っているのか。それに打ち勝つ術が俺にできると言うのならばそれも」
「むろん」
 自信ありげに、それは答えた。
「教えてくれ、それは誰だ? 俺はどうすればいい?」
「では――我に剣の誓いを行われるのだな?」
 ごくかすかに――注意深く聞いていなければ聞き逃してしまうほどかすかに、その声に巧妙なものが忍び込んできていた。それは非常にたくみに隠されていたので、いまだ半信半疑で聞いていなかったなら、アルドゥインは聞き逃していたに違いなかった。
「剣の誓いを?」
 それは全ての武を生業とするものにとって、最も神聖にしておかすべからざる誓いである。おのれの命を託す剣を差し出すことで、その誓いをするものは相手への絶対の、無条件の服従、生命をその相手に捧げるという契約を行うのである。武人たるものは他のどのような誓いは破れても、剣の誓いにだけは背くことはできず、それに背くよりは、自死をもって償うことを選ぶのだった。
「その神聖なる誓いによってのみ、求める答えが得られるのだということを王は既に知っておられるはず」
「……」
「さあ、剣を」
 隠そうとしても、その声にはあからさまに期待と興奮が紛れていた。彼の沈黙に、声の主はやや不安になったように問いかけた。
「なぜ黙っておられる」
「ばかばかしくて笑う気にもなれん」
 アルドゥインの声は冷たかった。試みに腕を上げてみると、体の自由はすでに取り戻されていた。
「俺を助けたいと真実思うのであれば直載に言えば良かろう。このような回りくどいやり方でわざわざ俺をおのれの結界中に取り込み、さらに剣の誓いを要求するなど、正しき道を歩む魔道師のやり方ではない。魔道に通じておらぬとしても、俺にはお前の言葉に悪意が満ちていることが判る。そしてそれゆえにお前が悪であることもな。これは貴様の手妻なのだろう。貴様が言うほどに貴様の力が強いというのならばむしろ堂々と正体を現し、名乗るがいい。さあ名乗れ! 黒魔道師!」
「おのれ、ようも悪しざまに言うてくれたな。世界のことわりなど何も知らぬ、赤子の如き分際で、このわしを侮辱するか」
 声の調子が変わった。宇宙的な響きは変わらなかったものの、憎々しげな棘のある声音になってきていた。
「俺は名乗れと言ったはずだ」
「問うならば教えてやろう。我はコルネウス。世に聞こえた三大魔道師の第一、《闇の導師》コルネウスだ。覚えておれ、いずれ闇と光の力を完全に我が物としたときには、誓って貴様を足元にひれ伏せさせ、その大言壮語を後悔させてくれるわ。その時になってほたえよるなよ、若造め」
「覚えておこう。ただしそんなことはありえんだろうがな」
 コルネウスは相変わらずの芝居がかった言い方をした。
「おお、おお、何たる倣岸、無礼よの。ヴィラモンテの城に在りし頃の、薔薇の頬した初初しき少年と同じ人物とは思えぬわ。あの頃は非常に愛らしく、まこと美しい少年であったものを」
「な、なにが薔薇だ。ふざけたことを言うな」
「我は何でも知っておるのだよ」
 急にアルドゥインの声が揺れた。コルネウスの声は逆に平静を取り戻し、むしろにやりと笑う様子すら見えるようであった。
「そなたのその背に、叔母たちの放ちし刺客が付けた傷痕の残ることもな。ヴィラモントの若殿よ」
 それが決定的に相手の言葉を認めてしまうと判っていながら、思わずアルドゥインは右の肩口を掴んだ。くくく――とコルネウスは嗤った。
「他の事どももよく知っておるぞ。九つの時には毒を盛られ、十二の年には寄りかかった手すりが削られておった。事故に見せかけてそなたを転落死させようとな。あれを誰がやったか、知りたいか?」
「……どうせ叔母の誰かだろう。今更そんなことを、俺が知ってもどうなるものでもあるまい」
 というのがアルドゥインの答えだった。
「まあ、よい。そなたはいつでも命を狙われておった。よくもまあそなたの父も叔父も、黙って見過ごしておったものよ。逃げ出したのは正解と言わずばなるまいな。ラストニアの王位ごとき、何になろう。我に仕えれば、それよりも大きな帝国をそなたに授けてやることもできるのだぞ」
「何が嫌で、俺が全部捨ててきたと思っているんだ、貴様は。誰が貴様なんぞに仕えて、わざわざ捨てたものを取り返そうなどと思うものか。だいたい貴様、何故俺の昔のことまで掘り返してくる。趣味が悪いぞ」
 アルドゥインは噛み付くように言った。コルネウスはすっかり己の優位を確信し、調子を取り戻した。
「それはほれ、オルテアのしょぼくれた星見も言うておっただろう。そなたの上に獅子王の星が輝いておる、とな。そなたの星の大きさ、魂の強さはただの人間としては最上の部類に入るだろう。そのあまりの輝きゆえに、そなたは我を惹きつけるのだ」
「それで、俺に剣を捧げろなどと言うわけか」
 納得したようにアルドゥインは呟いた。魔道師の力というのは精神的なものであり、本人の元来持っている精神力がその魔道師の力を左右する。そこで自身の力よりも強大な力を得たいと望む魔道師は、より精神力の大きな相手の力を、方法は多々あれども借りて魔道を使うのだ。
「だが残念だな。俺の剣はメビウスに捧げたイェライン陛下のもの。絶対に貴様に剣を捧げなどしない」
「と言うと思っておったさ」
 コルネウスは動じた様子など見せなかった。
「だが獅子の王、ヴィラモントの若君よ。そなたとはまた会うこととなるだろうよ。その時には色好い返事をもらえることを期待しておるぞ。或いは助けが欲しくなればいつなりとも我が名を呼ぶがいい」
「呼ぶものか」
 きっぱりとアルドゥインは言い切った。再び、コルネウスの含み笑いのようなものが辺りを満たした。
「人の心とは弱きもの――また近いうちに会おう」
 絶対に来るな、とアルドゥインが言う前に、コルネウスの気配は急速に遠ざかっていった。そして彼の体は空中で支えを失い、恐ろしいほどの勢いで落下しはじめた。数秒後に、全身を強い衝撃が走った。
「うわッ!」
 思わず上げた声で、アルドゥインは完全に意識を取り戻した。周りは先程と何も変わらぬ室内。窓辺に座っていた姿勢のままだった。空を見てみると、月は全く動いていなかった。異変が起こった初めの時から五分と経っていないようだ。夢か、とつぶやいてはみたものの、彼自身はそれが夢であったとは全く信じていなかった。
(コルネウス……あいつが助けなどであるはずがない。キャスバートの言っていた《真の敵》ということか)
 いいかげん体を休めなければならない、とアルドゥインは寝台にもぐりこんだ。だがちっとも眠気は訪れてくれなかった。

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