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                                *



 その日は何の動きもないままに過ぎ去り、はや夜となった。割り当てられた室の窓際のアルコーヴには石の席があり、古びてほつれかけた布が掛けられていた。そこに座り、アルドゥインは何を思うでもなく外を見ていた。
 もうすぐ満月を迎える月はふっくらとした弦を描いて空に高い。ヒダーバードの夜はことのほか早く、まだナカーリアの刻にもならぬ前からほとんどの明かりが落ち、ヤナスの刻を過ぎた今では明かりの点いている家は全く見えない。
「まだおやすみではないのですか、閣下」
 ふいに静寂を破るノックの音がして、声がかけられ、アルドゥインは振り返った。そこに立っている相手を見て、彼は顔をほころばせた。
「何だ、セリュか。変に敬語なんか使うから、判らなかった」
「その割にはあんまり驚いてねえな」
「で、どうした?」
「もし寝てなかったら、一杯どうかと思ってさ。起きててよかった」
 セリュンジェは言いながら、室に入ってきた。その手の盆には酒のつぼと足つきの杯が二つ載せられているところから、どうやら眠れないままに彼と飲み交わそうと思ってやってきたようだった。
「熱くした火酒だぜ。つまみもある」
「そりゃいいや。こっちに来いよ」
 アルドゥインはアルコーヴに来るように手招きした。セリュンジェは盆を窓際に置くと、手際よくつぼや杯を並べた。それから反対側の席に座って、アルドゥインが見ていた窓の外をひょいと覗いた。
「何か面白いものでも見えるのか?」
「いや。何もないなと思って見ていたんだ」
「違いねえや。言っとくがな、アルドゥイン。ここはとんでもねえところだぜ。長逗留は無理だ」
 セリュンジェは断言した。
「子供もいなけりゃ若い女も――いや、若い奴らなんていやしねえ。いるのは辛気臭いじいさまとばあさまだけ! 市場にゃ干からびた蕪だの菜っ葉だのしか置いてねえし、唯一肉らしいものといったら、いつ殺したものだか知れたものじゃねえ塩漬け豚の他には何もねえときた。こんな所に三日もいたら、皆気がふれて外に飛び出してくか、それとも油っ気が抜けて干からびて、戦士としてものの役に立たなくなっちまうぜ。剣の戦士ってだけじゃねえ、キュティアの矢の戦士としてもな」
「ああ」
「まあ、お前ほど抜け目のないやつが、そんなことに気づかないはずがないとは思ってるけど」
「長くいるわけにもいかないことは判ってる。ヒダーバードを賄っている食料はみな皇帝領からのわずかな年貢だし、俺たちときちゃここの老人たちの一年分の食料をひと月で食い尽くしてしまうだろうからな」
 アルドゥインは苦笑めいた笑みを浮かべた。
「だが、そんなことにはならないような手は考えてある」
「ほんとかよ」
「イズラルが俺たちに、好きにしろ、いつまででもいるがいいとでも言わないかぎり大丈夫だ」
「確かに、そんなことはあり得ねえだろうな」
 セリュンジェはため息にも似た深い吐息をもらした。それから思い出したように二人分の酒を杯に満たして、アルドゥインにも差し出した。受け取って一口飲むと、温かさが胃から全身にしみ通るようだった。
「もう一杯どうだ」
「ああ、貰おう」
 お互いに口をつぐんだまま酒を口に運んでいたが、やがてまたセリュンジェの方から話を始めた。
「アルドゥイン、今は何を考えてる?」
「色々とな」
「色々、かい」
 セリュンジェはわざとのように繰り返した。ふだんは快活な灰緑色の瞳が、気を悪くしたように細められ、拗ねたような光を帯びた。
「言いたくねえなら、それでもいいけどよ」
「そういうわけじゃない。本当に、いろいろ考えてるんだ。オルテアのこと、イズラルのこと、ウジャス皇帝のこと――今に関わる全てのこと。そして、どうすれば早くこの戦を終わらせられるか、戦わずして勝利をおさめることができるかを」
「ここまで来て、戦わねえのかよ」
 驚いたようにセリュンジェは言った。
「数の不利を補う作戦はいくらでもあるが、できれば全員連れて行ったときの人数のままで、無事に帰りたいんだ。誰にも被害が出ずに済む方法があるのならそれを使いたい。戦いたいと言う気持ちはわからないでもないが、戦えば必ず死者が出る」
「命が惜しくないって言ったら嘘になるが、皆覚悟はできてるぜ」
「俺だって、できてるよ」
 アルドゥインは呟くように言った。
「でもディオン閣下と約束したんだ。必ず生きて戻る、と。それは俺だけでなく、連れてきた皆のことだと俺は思ってる。俺についてきてくれたということはすなわち命を預けてきてくれたということだ。だから俺は皆の命に責任があるし、その責任は果たさなければならない。そうだろう?」
「いつだったかディオン閣下がそんなことを言ってたような気がするよ。お前たちはわしの子供のようなものだ、だから死なせたくないといつも考えているってね」
 セリュンジェが言ったのはそれだけだった。
「ところでアル、どうしてまたイズラルを直接攻めようなんて考えたわけだ? すんなりと通してくれたからよかったものの、もしかしたら本当に、ルシタニアのどこかで全滅の憂き目を見るなんてこともありえたのに」
「グレインズで最初の戦闘があってからの二日間は、俺もこんなことは考えてなかった。だが問題はあのゾンビー騒ぎだ。覚えてるか?」
 問われて、セリュンジェは思わず身を震わせた。信心深い北の民である彼にとって、生きているとも死んでいるともつかぬゾンビーの存在は、普通に悪魔が出てくるよりも恐ろしいものだった。
「やめてくれよ。俺は見なくて済んだが、一回あれを見ちまったら、もう二度と忘れられるもんか。見た奴の中には、いまだにうなされてるやつまでいるんだぜ! あんなのはもうごめんだぜ」
「あれはペルジア側の使う魔道だと説明してきたが、どうもペルジア軍の意思とは別のものの意思が働いていると俺は思ったんだ。グレインズのペルジア軍を率いているリール公女は根っからの武人で、あんな手を使うような武将ではないと聞いている」
「それで、その別のものってのを突き止めるために?」
「ああ。これは誰にも……だから、お前に初めて打ち明けるわけだが、オルテアを出る前にキャスバートとかいう魔道師から予言を受けてな」
「キャスバート? 《星見》のキャスバートか」
 セリュンジェはびっくりして大声を上げた。もっと驚いたのはアルドゥインだった。
「知ってるのか?」
「知ってるも何も、オルテアじゃ有名な予言者だよ。めったに姿を現さねえし、予言も自分の気に入った相手にしかしてくれねえ。でもそれはとてもよく当たるって噂だ。お前、そんなすげえ魔道師に気に入られたってことかよ」
 アルドゥインは首を傾げた。
「それはよく判らないが……とにかく、呼びつけられて変な予言を色々もらったのは確かだ。その中に、『真の敵はペルジアに非ず』っていうのがあったんだ。ゾンビー騒ぎで確信したよ。そもそも今回の無謀な侵犯を行わせた奴というのが、ペルジア政府を操っているんだ」
「そいつも魔道師、なんだろうな」
「多分な。キャスバートが言うには、俺がそれを突き止めて、ペルジアを解放しなければならないんだそうだ。そのためには命令を出したイズラルに行かなきゃ始まらない。『俺が』やらなきゃならないということはつまり、逆に考えれば俺だったらイズラルまで無事に行くことができるってわけだ。実際こうして来れた」
「俺はこの数日、ずっと考えたんだが」
 ため息をついて三杯目の酒を注ぎながら、セリュンジェは言った。
「お前の頭の中ってのは、いったいどうなってるんだろうな! 俺なんかにゃとうてい想像もつかねえことばかり考えてるのは、どういう気分なんだろう」
「セリュンジェ」
「まだ酔っちゃいねえ。ちょっと喋らせろよ。実はそれが気になって気になって眠れなくなっちまって、それで来たんだよ」
 セリュンジェはアルドゥインが何か言いかけたのを遮って続けた。
「最初にお前とニハーレ通りでぶつかったときは、そりゃこっちも小せえつもりはねえけどあんまりお前の背が高いもんだからよ、驚いたさ。だから随分でかい奴だ、こんな奴が仲間にいたら面白いだろうなって、そんなつもりで連れていったんだ」
「あれは最悪の出会い方の一つだったな」
 アルドゥインが述懐すると、セリュンジェも頷いた。
「だな。だがまあ、今にゃ関係ない。アルはディオン閣下に認められてめでたく紅玉騎士団の一員になり、おまけに一足飛びに千騎長なんてもんにまで出世しちまった。皆はそれがあんまり納得いかねえみたいだったし、今もそう思ってる奴がまだいるかもしれない。でも俺には、剣の勝負で負けちまった時から判ってたよ。お前は他の、ただの傭兵どもとは何か違うんだって」
 セリュンジェは自分に言い聞かせるように首を振った。
「俺とお前が出会ってから、まだ三ヶ月と経っちゃいないし、一般的に言うなら人付き合いとしては短いとしか言えねえだろうが、それでも俺には判ることがある。お前は、一介の傭兵や平騎士で終わるようなタマじゃねえってことだ。お前は大将軍、へたをしたら帝王の器だよ、アルドゥイン」
 少しの酒で酔ったとでもいうように、セリュンジェは鼻の頭や頬を赤くしていた。
「俺みたいのが副官でございと、友達づらして隣にいられるのも今のうちだと思うし、本来俺なんかがそばにいるようなタマじゃねえんだよ、アルは。オルテアに戻ったら将軍か何かに昇格して、きっと俺なんか及びもつかねえぐらい偉くなっちまうにちがいない。これはひがんで言ってるんじゃないんだぜ。むしろその逆だ。俺は嬉しいんだよ。アルに最初に出会い、紅玉騎士団に連れてきたって名誉は俺にあるんだからな。予言の話も最初にしてくれたし。俺はお前の、オルテアでの最初の友達だろう?」
「ああ、それはもちろん」
 アルドゥインが頷いたのを見て、セリュンジェは満足そうだった。
「だからな、その親友のよしみで頼むよ。もしお前が偉ーくなっちまったとしても、俺を昇格させようなんてことだけはしないでいてくれないか。お前は傭兵ではおさまらないだろうが、俺は今のままの、気儘な傭兵暮らしがいちばん性にあっているし、それでいいと思ってる」
「それはずいぶん早手回しな上に、変な願いだな」
 アルドゥインはもう勝手に酒を注いだ。
「この行動をイェライン陛下に許して頂けるか、オルテアに戻れるかどうか、それも判らないのに。でも、聞いておこう」
「ありがとう」
 セリュンジェはにっこりした。
「たとえオルテアに戻ることが許されず、本当に流浪の軍勢になったとしても、俺はいつまででもお前についていくよ。なあに、もしそうなったって、中原にはいくらだって切り取り先はあるんだ。俺たちの国を作っちまえばいいさ。どういうわけかな、お前についていきさえすればうまくいく、お前の命令なら何も心配ないって、そんな気がするんだよ、アルドゥイン。お前にはきっと、どこにいたって何をしていたってうまくいくような星の護りがあるに違いない」
「また、大きく買いかぶったな。おだてたって何も出やしないぞ」
 低く笑って、アルドゥインは空になっていた二人の杯に最後の酒を注ぎ分けた。杯をちょっと差し上げて、セリュンジェは言った。
「我らが大将軍の戦勝を祈って乾杯」
「馬鹿言うなって」
 それでもアルドゥインはそれ以上たしなめようとはせずに、差し上げた杯をかちりと触れ合わせた。

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