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     闇ありての光
     光ありての闇
     御身があらずば
     また光もなかりせば
     いざや讃えんその御名を
          ――サライル讃歌




     第一楽章 皇帝円舞曲




 アルドゥインはとっくに食べ終わってしまっていたのだが、ウジャスのほうはゆっくりとまだ食事をしたためつづけていた。それは一つには、彼が食べては思い出話を一つし、また一口食べて話す、というのを繰り返していたためかもしれなかった。アルドゥインはもっぱら聞き役に徹していた。
 どんな形であれ、客がこのヒダーバードにやってくるなどということはほとんど滅多にないことであったろうし、それも公式の使節くらいだったはずなので、思う存分昔話ができる相手をそうそうこの老皇帝が放すとは思えなかった。
「おかしなことだな、アルドゥイン」
 ウジャスはカサカサと笑った。
「たまたま、何千年か前に、我が先祖が少々目端がきいて、剣を振るうのがうまかったというようなどうでもいい、つまらぬことがある。すると何千年かのちにはそれが絶対となってしまう。実際おかしなものだ――切り取り強盗は武士のならいと古来より言うことで、べつだん、わしなどから見れば、この期におよんでゼーア皇帝のお墨付きだの、形を整えたところで仕方ないではないか――ここまでないがしろにしておいて、なにが今さらと思うのだが――おかしなものだな、文明とやらいうのは! なまじ文明国だの文明社会だの言うばかりに、自らの手を自らでいましめて、互いにその縄の端につかまっているようなものだ。こういう、世の中とはまったく関係のないところにいれば良く判る。連中の愚かしさがな」
 ウジャスは木の実入りのパンの最後の一片で、ていねいにスープの皿をさらえてから言った。
「自分でどう思っていようと、傍目から見て、わしの一生がなかなかにあわれな、悲惨なものかも知れぬのは、いたしかたのないところだ。人はみな言うだろうな。他の誰彼よりもわしを見てな。王族だの皇族だのと生まれるのも、なかなかに運がいいとは言ってやれないものだ、とな」
「俺には少し前まで、共に旅をしていた二人の友人がいました。それから、その二人と同じような男を一人知っています」
 アルドゥインはなんとなく考え込むようなようすだった。
「一人は王族とは何の関係もない、ただの平民に過ぎないはずの男――かつて王に仕える身であったけれども、王よりも王らしい魅力や力があり、それゆえに国を追われた男でした。もう一人は王家に生まれたけれども、その母が自らの王族としての生活を捨てた人であったために、彼自身はその事を知らずにいて、自分は私生児だと思っていました。しかし二人ともどうしてか、人をひきつけずにはいられぬような魅力を持っていた。俺はよくその二人のことを思い出します。生まれながらの王というものがあるのなら、きっと彼らのような男を言うのだろう、と。そしてまたもう一人、俺の知る男は、かつて王族であったがその煩わしさから逃れて、一介の傭兵として生きることを選んだ者でした」
「わしだったら、その三人目の男がいちばん賢い、と言うだろうな。二人目の男は知らぬのがさいわいというものだ。一人目はまあ、仕えた王が悪かろう」
 ウジャスは笑った。
「確かにそなたの言うとおり、人の生まれなど本当はどうでもいいことなのだよ。だが仮にクラインで、成り上がり者がその王座についたとしても、国民誰一人それに肯じるまい。あの国は聖なる皇帝の血筋をたてまつることで成立しているし、そのための体制も整うておるからな」
「俺はよく存じませんが」
 クラインの話が出てくるのだったら、サライが出身者なのだからもう少し聞いておけばよかったか、とアルドゥインはふと思った。だがウジャスはあまり気にしたようでもなかった。
「メビウスもだいぶ古い国だが、皇家にあの難しい多民族国家を一つにとりまとめ、とりしきってゆく実力や求心力がなければ、ただそれのあるものに誰であれとってかわられるだけだ。――ところがゼーアと来ては、クラインほど古いがその実態は有名無実、そしてメビウスほどややこしい事情を国内に抱えているが、何人もの大公の誰一人として、ゼーア王を名乗るなりしてそれらすべてを抱え込んで取り仕切る力を持つものなどおらぬときているのだからな」
 アルドゥインは頷いた。
「たしかに、ゼーア三大公国は特殊な国です。そのかたちも、その成立の仕方も。こうした形そのものが不安定だし、変則です。それゆえここ何世紀、中原の戦火というと必ずゼーアが火種になっている。が、それも決して長くは続くまいと思いますが」
「ああ、おぬしの言いたいことはよくわかる、アルドゥイン。わしが死ねばアダブルやサン・タオのたてまつっているゼーア皇帝家がなくなり、きゃつらの抗争は目に見えたものになるだろうからな。ラトキアをペルジアから奪い取り、また再び併合したエトルリアのようにな」
 ウジャスは小気味良さそうに笑った。
「ペルジアも、老いぼれてきたでな――!」
 ウジャスは楊枝をもってこさせ、歯をせせりながら言った。
「国も人と同じだ。老いてくれば歯が抜け、目がかすみ、気ばかりは若いころと同じつもりだが、体の方は鈍くなり、動かなくなり、ついていかなくなる。ペルジアはたしかに老いぼれてきた。ゼーアそのものと同じだけ歴史のある、ゼーア領でもいちばん古い大公国じゃからな。ペルジアが今エトルリアとぶつかれば、何があろうと必ずエトルリアが勝つよ。それをうすうす勘付いているから、ラトキアを取られるだのと何をされてもいま一つ強気に出られん。ずっと、黄色い西方人の移民だの、淫らな西方文化の流れだのと下に見ていたエトルリアに、いまやペルジアはびくびくしている。いい気味だな。じっさい。だからこそ今回ペルジアがメビウスに攻め込んだというのはいかにも解せないわけだが」
「……」
「ともかくだな、アルドゥイン。わしはこの七十年ずっと、アダブルに――むろん最初はあやつの父大公に――吠え面かかせてやりたい、地団太踏んで悔しがるところを見て溜飲を下げたいと、ただそれだけを生き甲斐にして、このヒダーバードにしょんぼりと閉じ込められて暮らしてきたのだよ。わしの、この無駄に費やされた七十年の恨み――といって、そうでなかったらどのような偉大な功績を残したのだと問い詰められれば困ってしまうが――わしの、あまりに若いまま不思議な事故で死んでいった兄たちの恨み、そして、たまたまわし付きに任命されたばかりにヒダーバードに骨を埋めることになってしまった老友たちへの申し訳なさ。それらが凝り固まって、ただ一度、アダブルに吠え面かかせてやりたいものだ、サン・タオに地団太踏ませてみたいものだと、ずっとわしは念じておったよ。突然そのほうが来て、はからずもわしにその機会をくれたのだ。これこそ、わしの程遠からぬ死の日を前にしての、ヤナスの厚情、アティアの天命というものかも知れぬ。わしには、そのように思えるよ」
 ウジャスは既に済んでいた食器を押しやり、椅子を引いて立ち上がると、ゆっくりと、テーブルをまわってアルドゥインのほうに近づいてきた。
 そして、彼のかたわらに立って、つとしわ深い手を差し出した。
「そのほうが、わしの生涯の終わろうとするころになって、わしの待ち望んでおった機会を運んできてくれたのだ、はじめ、人質に――というそのほうの言葉を聞いたときは、さてはやはり陰謀かと皆ずいぶん騒いだものだが、わしはすぐ、そのほうの言わんとすることが飲み込めた。この手を取ってくれ、アルドゥイン。そのほうには確かに他意のなきことが、わしには感じられる」
「陛下」
 アルドゥインは立ってひざまずき、老帝の手をおしいただくようにした。
「あるいは、思わぬご迷惑をおかけするやもしれませぬ」
「それはもうよい。わしとても、落日とは申せゼーアの皇帝――二言はない」
「すでに伝令に、アダブル大公宛の親書を持たせ、イズラルへ走らせました。遅くとも、明朝には何らかの対応があることと思います。それしだいでは、あるいはイズラルへご足労をおかけするかもしれません」
「イズラルか」
 ウジャスは言い、遠くを見るような目の色になった。
「もう、何十年もイズラルへ行ったことはない。おかしかろう、このように、近くにありながら、な。わしは、ヒダーバードしか知らぬ。――夢の中ではいくたび全世界を、自由自在に駆けめぐったことかわからぬが。――一生に一度、どこか好きな場所への旅行を許してもらえるものであったなら、アルドゥイン、わしはヒダーバードの北側のネルア山に登って、わしが七十年の間、そこしか知らぬこの市城を、真上からしげしげと眺めおろしてみたい。さぞかしちっぽけで、せせこましいちまちまとした、大地にへばりつくしみの如きものであるだろうよ。――それを見下ろしながら、生きるも死ぬもそれだけのことでわしは翻然大悟することもできるだろう」
「陛下は既に、悟明の域に入っておられる」
 アルドゥインは言った。ウジャスはゆっくりと、首を振った。
 食事も済んでいたので、まだなんとなく引き止めたそうなようすのウジャスに昼食の礼を述べて、彼はそこを引き取った。丁寧に礼をして、下がってゆくとき、最後に振り返ると、この孤独な老人は、じっと誰も相手のいなくなったテーブルに向かって座り、自分の内なる声に耳を傾けるとも、自らの来し方としみじみ語り合うとも見えて目を伏せ、うなだれて、動かないままだった。
 アルドゥインはそれを見やって目を伏せたが、すぐにマントをひるがえして歩いていった。彼らには宿舎として市城の南の一角があてがわれていたが、そこにすぐ戻っては行かずに、本丸とも言うべき中央の建物に入っていった。本来は物見の塔として建てられたのだろうが、日常その役目を求められているとも思えず、訪れる人とてないままに捨て置かれているようであった。
 石造りの階段を大股に一段か二段は飛ばしながら上がっていく。アルドゥインは並よりもずいぶん背が高いので、そのぶん足も長かったわけで、彼にしてみれば三段くらい飛ばしても平気だったが、何しろ古い建物であるので崩れることを心配してそれは避けることにした。
 だいぶ風が強くなってきたことに気づいて、アルドゥインは足を止めた。冷たい乾いた風が横殴りに吹いていて、マントのすそが激しくはためいている。かなり高くまで登ってきたようだ。地上からもう二十バールはあろうかという高さである。そこからは、足元のヒダーバードとイズラルの街の両方が眺め渡せた。
(イズラルはどう出てくるか……。これは本当に賭けだな)
 ヒダーバードの森を抜けた向こう、イズラルの方角そのものが青くかすんで見えるかのようだった。アルドゥイン軍がヒダーバードに侵入したことは遅くとも今日の夕方にも知るところとなるだろうが、まだ何の動きも見せてはおらぬ。
(だが勝たなければ――イズラルに入らなければ、この戦争は何も解決しない。それに何も成さぬまま帰ることは許されない)
 ふと胸中でつぶやいた言葉に、アルドゥインはどこかほろ苦いような、甘いような気持ちを味わった。
(帰る――そう、俺には、帰るべきところがある)
 リュシアンとも約束したのだ。
(ラストニアに、何の懐かしいことがあるだろう。アスキアはもう捨てた。俺のふるさとは、メビウスなんだ)
 懐かしい思いで、アルドゥインは北の方角を眺めてみたけれども、むろん後にしてきたメビウスを見ることはできなかった。


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