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「待て、待て。わしは老人だ。そのように急に色々言われても、頭が混乱してしまう。ともかくわしはペルジアとメビウスが戦いを始めたこともそちが話すまで知らなんだ。アダブルとももうこの十年かそこら、一年に一回か二回ぐらいしか会っておらぬ。あやつは新年のあいさつすら有象無象の代理ばかりよこすのだからな。それでどうして心当たりなどがあろうか」
「では、ペルジアのメビウス侵犯は」
「おおかたアダブルが勝手にやったことじゃろ」
 玉座に戻って座りながら、ウジャスは答えた。
「全くこの件について陛下は、ペルジア大公の主君であるにもかかわらず関与なさっておらぬということか」
「そちはわしに恥をかかせたいのか」
 悲しげに、老帝は言った。
「どうしてもわしの口から、わしの生まれてこの方よりの生活を、惨めな境遇を話させたいのか」
 やっと忘れかけていた悲哀を思い出したようにウジャスは力なく呟いた。
「わしはこの七十年というもの、こんな郊外のヒダーバードに閉じ込められ、捨扶持をあてがわれて生きてきた。皇帝の玉璽や御物もアダブルめが持っておる、お飾りですらない、名のみの廃帝だ。そんなわしがどうして、遠い所で起こった出来事もともかく、イズラルでの出来事も知れると思う。野に遊ぶ小ウサギや空に舞う雲雀など、わしのこの身に比べれば神のように自由なものであろう。そんなこともわからぬほど、わしは耄碌しているわけではない。わしはおそらく、いや、必ず、ゼーア最後の皇帝だろう。わしがひっそりと土に還ることこそ、アダブルやサン・タオが考えうる、わしの最大の利用価値なのだろうよ」
「貴きあたりにお言葉を返すのははばかりながら」
 アルドゥインは言った。
「恐れながら、俺はそうとは思いません」
 ウジャスが驚いたように聞き返そうとしたときだった。
「お上、お上!」
 ふいに老いた、長ものの裾を引きずった廷臣が二人、裾をからげ、足をもつらせて、拝謁の間に駆け込んできた。
「たいへん、たいへんでござります」
「おそるべき、おそるべき事態が……」
「恐るべき事態だと」
 七十七歳――自称するのが正しければ――の皇帝は、思わず玉座から突っ立った。そして支えようとする小姓たちの手を振り払い、その廷臣たちの方へ歩み寄っていった。
「ずっとわしのこれまで置かれてきた幽閉よりもたいへんな事態など、ここにはありはせぬわ。――ジュード、リウス、いったい何事だ。そうぞうしい」
「大変でござりまする」
 老臣たちはアルドゥインに突き当たりそうになって、あわてて飛びのいた。アルドゥインは避けようとして妙に足をもつらせてしまった。
「いずこのものとも知れぬ騎馬武者の大軍が、このヒダーバードになだれこんでまいりました。ものものしい甲冑をつけ、だんびらをさげ、旗印も何も持たぬ屈強の兵士たちが続続と大門から流れ込んでまいります」
「先の軍勢が衛兵を門から追い払い、この大軍のために大門を大きく開け放って迎え入れてございます」
「ああ、陛下、その数およそ一万はあろうかと思われます! 広間までお出まし頂ければ、この世の終わりかという有り様を、ご覧になることができましょう!」
 口々に報告するのを聞いて、居並んでいた老人、老女たちにも非常な動揺が巻き起こっていた。ウジャスはアルドゥインを睨みつけた。
「今のを聞いたか。その軍というのはそのほうの軍か」
「いかにも。残しきたる軍勢に急ぎヒダーバードに進軍し、ここで我らと合流するように命じておきましたゆえ」
「総勢は」
「ご老人がたの目測は少々大目というもので、五千」
 卒中でも起こしはせぬかと心配になるぐらい、ウジャスは顔を真っ赤にして両手をもみしぼって、アルドゥインを睨みすえた。
「何のつもりだ。口うまくあれこれ害意のないようなことをほざきながら、その実何を企むのだ。わしをどうしようというのだ」
 ウジャスは怒って、手にしていた扇を床に叩きつけた。
「ペルジアの肚を探ろうなどとは真っ赤な嘘、その実何をたくらんでおるのだ。おぬしの目的は何だ。ありていに申せ」
「別に、陛下の御身をどうしようというわけではございません」
 アルドゥインは落ち着き払っていた。声も変わらない。
「とはいえのんびりと談じている暇もあまりなきところ、そろそろ、我々も次の行動に移らねばと思っておりました」
「やはりこやつ、暗殺者かと――!」
「上へ、上へ!」
 慌てて廷臣たちがウジャスとアルドゥインの間に割り込もうと駆け寄ってきた。
 アルドゥインは彼らの気持ちを和らげようとしたのか、それともこの反応が面白かったのか、微笑んだ。
「人質に、なっていただきたい」
 淡々と告げた言葉は、ウジャス老帝を腰が抜けるほど驚かせた。
「ひ、人質……?」
「さよう。人質とあらば聞こえは悪かろうが、つまりはこのようなこと」
 アルドゥインは大騒ぎの中でも凛と通る声で続けた。
「我ら五千の軍勢ではいかにも少なく、イズラルの真意を質すに足りぬは明白。またウジャス陛下はメビウス侵攻について何もご存じあらぬという。そこで……」
「アダブルめに、奴の名目上の君主であるゼーア皇帝――わしが問いただすという形をつくれ、と申したいのだな。そなたは」
 ウジャスは後ろに控えていたセリュンジェたちが驚いたほどすぐにアルドゥインの言わんとしているところを理解した。さすがに帝王学を学び、君主たる教育を受けてきただけはあるようだった。ついていけないのは老臣たちで、かわいそうなぐらいあたふたとしているのに、ウジャスは彼らを見回して落ち着くように手真似で示した。
「落ち着け。こやつらに害意はないと、わしにはわかる」
「しかし、いかにも乱暴な……」
「落ち着けと言うておろうに」
 自分たちの大君がそのように落ち着いていたので、彼らもやっと落ち着きを取り戻さなければならないと思ったらしく、まだざわざわとしながら大半は元の位置に戻った。再びアルドゥインの方に向き直り、老帝は土気色の顔をほころばせた。
「おぬしの申し条はよくわかった。そのほうの願い、聞き届けてしんぜよう。そのほうのよきにはからえ。このウジャス、老いたりとはいえど栄えあるゼーア最後の皇帝、二言はない」
「身に余るありがたきお言葉」
 アルドゥインは跪いて、丁寧に帝王への礼をした。供の騎士たちもそれに倣う。
「ではこれにて謁見は終わりであるな」
 ウジャスは妙に晴々とした声で言った。
「この後の昼餐の席にはアルドゥイン、おぬしも同席せよ」
「かしこまりました」
「うむ。では下がるがよい」
「お目汚し奉りました」
 行きに案内係をした老小姓が再び彼らの先に立ち、彼らは拝謁の間を後にした。
 朝もはや過ぎて、老小姓の一人がアルドゥインを呼びにきたとき、アルドゥインはこまごまとした最後の打合せをして指示を与えているところであった。
「わかりました。すぐ参りますと」
 指示を急いで与え終わると、軍装のままではどうかと思われたので鎧はとり、第三級軍装の簡単ないでたちで、軽く埃を払って、小姓に伴われてゆく。先の拝謁の間を通り過ぎたさらに奥の、これもがらんと天井の高い一間に大きなテーブルがしつらえられ、二人分の昼食の用意がととのえられていた。すでに中天にかかった太陽の光が、古い、しかしよく磨きこまれた銀器にうつって光っている。
 ウジャス老帝はすでに、上座に掛けて待っていた。
「かくいやしき身に、御陪食の光栄をお許しくださり、この上なき名誉」
 アルドゥインは椅子につく前に、その傍らで膝折礼をし、重々しく述べた。
「見てのとおり、大したもてなしはできぬがな。そのほうのように若い者には野菜より肉、魚のほうが好ましいであろうとは判っているが、何分勘弁してくれ。だが野菜だけはなぜか、このヒダーバードでは質のよいものができる」
「さようでございますか」
 アルドゥインは席に着きながら、言った。昼食会といっても、ウジャスとアルドゥインの二人きりである。一人ずつ、小姓がついて給仕をし、あとは厨房から運んできたものを給仕に手渡すだけで、広い室内は怖いくらいにしんとしていた。
 さきにウジャスがことわったとおり、テーブルに並んでいるものは豆を煮込んだもの、何かの葉っぱのクリーム煮、根菜のスープなど、野菜中心の料理だった。唯一肉料理といえそうだったのは、豆や玉葱を塩豚と一緒に煮込んだスープだったが、これはアルドゥインのために用意されたものらしく、小姓が注ぎ分けようとするのをウジャス老帝は手を振って断った。
「そのほうには、とうていひと冬、いや一旬も我慢できぬような生活だろう。肉もない、魚もない、酒もない。楽しみらしいものは何一つとしてないのだからな」
 熱いスープを気をつけてすすりながら、老帝は言った。
「イズラルから馬でわずか半テルという近さだというに、ここははや地の果てのようなものじゃ。イズラルの奴らもそう思っておろう」
「陛下は、その――ずっと、ここに?」
「さよう。七十年じゃ」
「そのように長く」
「短くはないな、アルドゥイン。たしかに短くはない」
 アルドゥインの言葉に、ウジャスは咳き込むような笑いを返した。
「わしは七歳の時、イズラルの碧玉宮でわけもわからぬままにゼーア皇帝に即位し、ヒダーバードに幽閉の身となった。そのころわしは母と――母アルシノエはペルジア公女じゃったがな――気に入りの玩具に囲まれていさえすれば機嫌のいい、ほんの子供じゃった。だからこそここまで生き長らえてこれたのじゃろう。わしは第四皇子として生まれたが、その時には父、セオフラステュス帝はすでに退位させられておった。在位はたしかたったの六年であったと覚えておるよ。それから兄たちが順繰りに即位していったわけじゃがな。この墓のようなヒダーバードでしょんぼりと長生きしておっても、自由じゃった兄たちがみな三十はおろか二十の年を迎えることもなく死んでいったことを思うと、あながち不幸とも言い切れぬ、と思うよ」
 悲しみとも自嘲ともつかぬ表情で、ウジャスは呟いた。
「一番上のフラヴィウス兄はわしの生まれる前に謎めいた事故で、たった十四歳で死んでしまった。その次のカエリウス兄が一番在位は長かったが、年はフラヴィウス兄とそう変わらぬ十五の年に、狩りの途中どこからか流れ矢が飛んできて殺された。末のホラティウス兄が一番長生きをしたが、これも十九の年に乗馬中に狂い虫が馬の耳に入ったとかで落馬して……な。まこと奇禍としかいいようのない事故で皆死んでいった。父帝は――父帝がどうして死んだか、おぬしは知っておるか?」
「いや、存じ上げませぬ」
 アルドゥインは首を振った。
「自ら首くくってくびれ死んだのじゃよ。父上は御心を病んでおられてな。それで退位させられたのじゃ。しかしなぜ父上がそうなさったのか、年を取るにつれてわしにもわかったよ。息子を次々に喪い、それが何のためにかも判っていながらどうしようもできぬということに、父上は絶望なされたのじゃろ。幸いながらわしはヤナスの思し召しで皇子には恵まれなかったが、そのヤナスの思し召しというのには、ペルジア大公やエトルリア大公の思惑が多分に入り込んでいたのだろう」
「……」
 アルドゥインが黙っていると、ウジャスは微笑んだ。
「おぬしは、わしを哀れだと思うか?」
「いや、そのような……」
「……さほど哀れむことでもないよ、アルドゥイン。何千年の由緒ある家柄だ、傀儡皇帝だなどと考えるからで、さもなくば別段不自由のない暮らしだよ。このヒダーバードはいい所だ。世のうきふしとは、まったくかけ離れた別天地。しずかで、水も野菜も麦も布も、必要なものはすべてととのうている。夜になれば星も月も見え、春は花々が咲く。たしかにわしは若いころは、自由になりたい、好きに諸国を旅したいなどと思うたが、今となっては思うのだよ。結局、すべては同じことだ――わしら人間は所詮はこの肉体の内の囚人に過ぎぬ。そうではないだろうか」
「実に、立派な深いお考えかと」
 アルドゥインは静かに答えた。濡れてきらめく黒檀の目の中には、たしかに悲哀に似たものがあったけれども、それが果たしてこの老帝に向けられたものであったのかどうかは定かではなかった。

「Chronicle Rhapsody11 哀しみの街」 完

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