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                                *



 北のほうに、砂埃が巻き上がっているのを見つけたのは、アルドの方であった。
「兄ちゃん、あれを見て」
 彼が指差す方角に、バリスタも目を凝らした。かすかな地響きのようなものが耳を打ちはじめた。と、それはみるみるうちに近づいて来、彼らの登ったハスクの木が揺れるほどの振動となった。
 その頃には、何が近づいてきたのかはっきりと見分けることができた。
「ああっ……」
 そして――
 彼らは見たのだった。
 白銀色に光るよろい、かぶと。その胸の背景の朱色もあざやかに打ち出された金獅子の紋章。赤いマントがかすかに風にはためいている。
 およそ五千の軍勢が一様に騎乗し、街道を南下してきているのだ。初めて見るその光景に、兄弟は目を丸くした。もちろん怖さもあったが、それよりも未知のものに出会った驚きが彼らの心をいっぱいにした。
 まだ遠いけれども、馬に乗っているせいか、彼らはとても大きく見えた。むろんペルジア人種に比べればメビウス人というのは大柄だったが、これは少年たちの心象によるところが大きかっただろう。
「すごい……」
 バリスタがつぶやいた。好奇心と、大人たちが恐れるばかりで直視しようともしないものの正体を見てきて自慢してやろうという気持ちも多分にもって見に来たのであったが、そんなことも忘れてしまい、彼は呆然と見つめていた。
 兜の中からのぞく顔は、ゼーア人種とはまた別の、北方人種の青や灰色の瞳と、色白の肌だった。その中で、彼らの目はひときわ背の高い騎士の姿に引き寄せられた。
(見たこともない色の人だ)
 アルドはその姿をよく見ようと目を凝らした。
 その人はかぶとをかぶらず、そのおもてを少年たちの目に露にしていた。彼らが日焼けしたとしてもとうていなりえない、ほとんど褐色に近い浅黒い肌。しかし少年たちは肌色の違いを奇異とはとらず、むしろ美しいと思った。それには彼の容姿やいでたちも大いに関係していたかもしれない。
 子供たちに小難しい表現はできなかったけれども、彼は美しかった。よく言われる造形の美や、女のような線の細いそれとは違う、男性的な美しさである。顔立ちそのもの非常に整っていたが、それよりも彼の騎馬姿の精悍さ、毅然とした姿に子供たちの目は釘付けになった。
(悪魔みたいなやつだとか、じいちゃんや父ちゃんは言ってたけど、この人はまるでワイアじいちゃんが話してくれた、カシウスみたいだ)
(あんなふうに馬に乗って、たくさんの兵隊を連れて……)
(どこから来たんだろう?)
 兄弟はすでにただの興味から、憧れに変わった眼差しで異国の行軍を見つめた。
 それは幼い兄弟たちが知るよしもなかったが、その騎士はメビウス軍籍を離れイズラルを目指す五千の部隊をひきいる千騎長アルドゥインであり、彼らがルシタニアのシュム、フリック、バールガウを無傷で突破した、その翌日のことであった。
 バールガウ守備隊を率いるルシタニア伯サルヴィアスは、イズラルからののろしによって追撃の兵をおさめている。シュム、フリックはもとより立たない。シュムなどはただの平和な農業の町であったから、置かれているのはせいぜいが千人もいればいいほうの民兵なのだ。
 フリックを過ぎればバールガウ‐イズラル間は馬で二日ほどしかかからない。この頃にはすでに謎のメビウス軍が目指すのが公都イズラルであることは、ペルジア側の知るところとなっている。ペルジア正規軍がイズラルの城門を守るべく待ち構えていると、のろしの連絡で伝えられている。
 全てを公都軍にゆだね、バールガウ、シュム、フリックは、算を乱して逃走する兵があれば捕らえるべく、じっと待機している。
 ここまで深く敵の国に入り込んできているのである以上、相手ももとより生還を期しているのでもなかろう、とペルジア軍はイズラルで取り込み、迎え撃つべく手ぐすねひいて待っていたのであった。
 そのペルジアの思惑を知ってか知らずしてか。
 国旗も軍章もかなぐり捨てた騎士たちは、街道をひた進む。これほど深く敵の懐に入り込んできている以上、不安も恐れもあるだろう。この先どうなるのかという思いもあるに違いない。
 だが、しかし。騎士たちの一人とて、長に対しこの進軍に疑問を呈したり、反対するものはいない。
 彼らはただ、紅玉将軍リュシアン・ド・ディオンから託された朱と金の采配を手にした馬上の英雄――彼はまさに、騎士たちの中では英雄となっていたのだ――を信じて身も命も預けている。
 あるいはアルドゥインを新参者、うろんな沿海州の傭兵と見るものもまだいたかもしれなかったが、彼らが絶対の信頼を寄せる紅玉将軍その人が采配を託し、全ての判断を委ねたとあらば彼の判断は全てリュシアンの判断と同一のものであり、逆らう理由はなかったのである。
 すでに噂は高まっており、通り過ぎてゆく先々の人々は、正体も知れぬ招かれざる客が何事も起こさずさっさと通り過ぎてくれることを祈って家にこもり、年寄りや子供を隠して戸につっかい棒を立てて、何の役にも立たぬ鋤や鍬を握りしめて通過をやり過ごしていたのであった。
 好奇心にかられて窓から覗くものもおらず、まさに無人の野を行くが如くに、メビウス軍は進軍を続けていた。
 アゼルでは、偵察役を買って出て街道筋に出ていた若い農夫が慌てて村に駆け入ってきていた。彼の帰還こそが「かれら」の来たことを告げるものであったから、村人たちはすぐさま外に出ていた者を家の中に呼び入れ、あちこちでばたばたと扉が閉ざされた。
 その中の一軒の農家で、女の悲鳴に似た声が響いた。
「何だって、バリスタとアルドが出ていっちまったの? どうしてそれをもっと早く言わないの!」
 あまりの剣幕に怯えるギュメットを問い詰めようとした母を、リゾレッテは体で妹をかばうように押し止めた。
「そんなこと、後でいいわよ! あの子たち連中をとても見たがってたから――街道まで出てったに違いない!」
「あの子たちが殺されちまう!」
 慌てて出て行こうとする妻を、夫は引き止めた。
「ばか、お前まで出ていってどうするんだ。こうなったらバリスタとアルドの運に任せるしかない」
 腕を掴まれて、カイエンヌは激しく身をよじった。
「離してチュニス! バリスタとアルドが危ない!」
「諦めろ、カイエンヌ!」
「行かせてッ」
 カイエンヌはとうとう夫の腕をもぎ離し、解き放たれた小鳥のように家を飛び出した。ただならぬ騒ぎに、何が起きたのかとあやしんで、閉ざされた家々の扉がほんの少しばかり開けられて、その様子を窺う。
「戻ってらっしゃい、坊や!」
 せっかく耕したばかりの柔らかな畑の土を踏み、スカートをたくし上げて、彼女は街道を目指して走っていった。
 異国の騎士たちをうっとりと眺めていたバリスタとアルドは、風に乗って聞こえてくる叫びのようなものを耳にした。そちらに目をやると、葉むらの合間から野原をこちらに向かって走ってくる母親の姿が見えた。その後ろを、父親をはじめ十数人の村人がばたばたと追っている。
「いけない、母ちゃんだ!」
 叱られる、という恐怖でアルドはここが滑りやすい枝の上だということも忘れて立ち上がろうとした。そのとたん、足の裏で木肌がつるりと滑った。バランスを崩し、体がよろめく。弟を助けようととっさに出した兄の手を掴むことには成功したが、彼もその重さを支えることができずに体勢を崩した。
「バリスターッ! アルドーッ!」
 カイエンヌの耳をつんざくような悲鳴。
 掴んだ手の中で、柔らかい枝と葉っぱが千切れた。
 子供たちの小さな体が街道の敷石に叩きつけられ、無慈悲な兵士たちの馬がひづめにかけ、踏みにじっていく――
 その想像がまざまざと脳裏に浮かび、カイエンヌは半ば気を失って倒れかけた。
 だが、聞こえてきたのは子供の悲鳴ではなく、驚いたような歓声であった。チュニスの腕の中で気を失いかけていた彼女は本能的に自分の子供たちが助かったのだと知って目を開けた。
「危なかったな。もう少しで間に合わないところだった」
 頭のすぐ上で、低いけれども快活な声がした。もう落ちて死んでしまうのだとばかり思っていたバリスタはびっくりして頭上を見上げた。そこにはさっきまで見つめていた黒い騎士の顔があった。頭を巡らすと、騎士の左腕には自分と同じように、目を回してしまっているアルドが抱きかかえられていた。
 あの一瞬の騒ぎの間にアルドゥインは子供たちに向かって馬を走らせ、間一髪で両腕に抱き留めたのだった。いつのまにか、全軍は停止している。アルドも意識を取り戻して、この展開に驚いて目をぱちくりさせた。
「怪我はないようだな。どうしてあんな所にいたんだ? 危ないだろう」
「い……異国の兵隊が来るっていうから……」
「それでここから見物していた、というわけか」
 彼が愉快そうに笑ったので、どうやら怒られているわけではないらしいと感じてバリスタは安堵した。そしてじっくりと間近でこの騎士を見た。思っていたよりもずいぶん若いようだ。それによく笑う。ちっとも恐ろしくなどなかった。
「おにいちゃん、きれいだなあ!」
「俺が、か?」
 面白いことを聞いた人のように、アルドゥインは笑った。
「そんな事を言われたのは初めてだ」
 あまり彼が納得していないようなので、アルドは一生懸命になった。
「きれいだよ。髪なんか、母ちゃんのとっておきのしゅすみたいにつやつやしてて、目だってそんな真っ黒で。ぼくね、カシウスが本当に兵隊を連れてやってきたんだと思っちまったくらいだもの」
 それは中原に広く伝わる伝説の戦士の名前だった。
「カシウス、か。嬉しいことを言ってくれるな」
「ねえ、名前はなんていうの?」
 子供らしい率直さと遠慮のなさで、バリスタは尋ねた。
「俺はアルドゥイン」
「わあ、ぼくの名前と似てるや!」
 嬉しそうに手を叩いたのはアルドだった。それに興味を引かれたのか、アルドゥインが尋ね返す。
「お前たちの名前は?」
「ぼくはアルド」
「おれはバリスタ。アルドの兄ちゃんだよ」
「そうか。さっき弟を助けようとしていたんだったな。勇敢だな」
 アルドゥインはそう言って、鞍の前に乗せているバリスタの栗色の髪を撫でてやった。物語から抜け出てきたような騎士に褒められて、彼は胸を張った。
「アルドゥイン、どこから来たの?」
「メビウスからだ」
「ずいぶん遠いところから来たんだね。どこに行くの?」
 今度はアルドが尋ねた。兄弟からふと目を上げ、アルドゥインは遠くを見やるような顔をした。
「イズラルへ」
「ビエルソよりも遠い?」
「ビエルソ?――ああ。それよりもずっと遠くだ」
 アルドゥインは頷き、街道で待つ隊列の方へ馬首を向けた。
「何をしに行くの? いくさをするの? アルドゥイン」
「いくさを終わらせに、だよ。バリスタ」
 わずかに微笑んで、アルドゥインは答えた。それから彼は、街道のわきに平伏している兄弟の父母と村人たちに近づいていった。もう別れの時が来たのだと気づいて、バリスタはとっさに何か思い出になりそうなものを渡したくてポケットの中をさぐった。幸いなことに、パンはもうだめだったが乾しカディスは無事だった。
「これ、あげるよ」
「ぼくも!」
 アルドも負けじと自分の乾果を差し出した、この小さな贈り物をアルドゥインが嫌な顔一つせずに受け取ってくれたので、二人はすっかり嬉しくなってしまった。
「ありがとう」
「母ちゃんが作ったんだ。母ちゃんはアゼルでいちばん、乾しカディスを作るのが上手いんだよ!」
 嬉しくなったついでにアルドは叫ぶように言った。その時には彼らはアルドゥインの馬から、従者に抱き抱えられて下ろされていたのだ。一秒後には、彼らは半狂乱になって抱きしめる母親の腕の中にいた。
 二人が無事両親のもとに戻ったことを確かめて、アルドゥインはつとおもてを引き締めた。礼を言おうと出てくる村長を制止し、采配を上げる。
「進軍開始!」
 彼の朗声がアゼルの野に響く。再び、軍勢は大河にも似た進軍を開始した。何度も何度も地に額を擦り付ける両親たちの横で兄弟はそれを見送った。アルドゥインは一度彼らを振り返り、手を挙げて軽く振った。
 この時が過ぎればこっぴどく叱られることは間違いないし、大人たちが平伏している今のうちに逃げるのが得策だと判っていたが、兄弟はずっと立ち尽くしていた。
 異国の騎士たちのよろいのきらめき、そしてアルドゥインの瞳の吸い込まれるような黒さ。それは、アゼル村のバリスタとアルドの、大人になっても忘れることのできない思い出の一つとなるのだった。

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