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     ゆきなさい、その望むところへ。
     ひとはみないつか
     そのゆくはてに運命を見いだすのだから。
                     ――ラスフィア




     第一楽章 風の如くに




 景色は灰色の土と、青灰色の空の、それだけだった。
 今は国力が衰えているとはいえ、元来ペルジアは肥沃な土地に恵まれた国である。閑散とした集落が時折街道沿いにあるが、それ以外に目に入るものといえば遠景の山と一面の麦畑。それだけしかない。
 その中を銀色の大河にも似て進んでいく兵士たちは、変わり映えのせぬこの風景に目をくれることもない。一路イズラルを目指しメビウスを出てすでに三日。紅玉騎士団から抜けた五千の騎士たちはペルジアのルシタニアに入った。
 かれらが通り抜けていった、そしてこれから通る先の村や町では、人々がしきりに噂をし合っていた。
「あんなにたくさんの兵士たちが、一体どこに行くんだろうね」
「あれはメビウスの兵士だろう? ああ嫌だ。このあたりはもう抜けていったから、戦場にはならないのかもしれないが、いくさだけは嫌だよ」
 大人たちがざわざわとしているので、子供たちまで何となく不安な気持ちにかられて何が起こるのか尋ねるのだが、大人は子供が心配することではない、と一蹴してしまうのだった。
 心配することではないと言われても、畑の手入れや牛馬の世話もいいかげんに終わらせて、あとは何やかやと集まって話をしている状態を気にしないでいることは、どんなに聞き分けのよい子供でもなかなか難しいことだった。
 バリスタとアルドの兄弟もその例に漏れず、興味津々でこのなりゆきを見守り、首を突っ込みたがっている子供の一員であった。彼らはアゼル村で農具や種を扱うチュニスとカイエンヌの、二十一を先頭に七人の子供の最後の二人で、そういった大家族の中ではありがちなことだったが、ほとんど誰の目も引かない子供たちだった。
 そんなわけだったので、彼らに別段他の子供たちより何か優れたところがあるとか、違ったところがあるとは、周りの人はおろか親やきょうだいたちにさえ思われてはいなかった。
 だが実のところこの仲の良い兄弟は他の子供と少々違っていた。二人は秘密基地にしている村の裏手の藪の中に入り込んで、今日も大人たちが心配している何かについて議論していた。
「ねえ兄ちゃん、いったい何が来るんだろうね? ワイアじいちゃんは悪魔が来るとか何とか言ってたけど、父ちゃんは嵐が来るって言ってたよ」
 悪魔というのが、彼も実際には見たことがない化け物のことではなくて、それと同じぐらい恐ろしいものという意味だ、ということや、その嵐は雨や風のそれとはどうも違うものらしい、ということは九歳のアルドにもなんとなく判ることであった。アルドよりも三つ上のバリスタには、もう少しよく判っていた。
「ばかだなアルド、そんなもの来やしないよ」
「じゃあ兄ちゃんは知っているの?」
 バリスタは秘密めかして弟の耳に囁いた。
「――外国の兵隊が来るんだよ!」
 兄の放った言葉に、アルドはびっくりした。そして外国という響きと兵隊という言葉に胸をときめかせた。
 アゼルはルシタニアでも田舎の田舎に入るような小さな、吹けば飛ぶような寒村であったので、生まれてこの方アルドは村人以外の人間など数えるほどしか見たことがなかった。兵隊というものも見たことがない。街道を抜けていく通りすがりの傭兵ぐらいならば見たことがあるが、それも全てペルジア人であったわけで、異国の兵士というだけでそれはすでにロマンだったのである。
「すごいなあ! どこの国だろう?」
「それはおれも知らないよ。だからさ、アルド」
 バリスタは自分も胸をわくわくさせながら、何か素敵ないたずらを思いついた子供特有の、きらきらした目でアルドを見た。
「なに、兄ちゃん」
「軍隊が来たら、こっそり見に行こうよ」
「ええっ?」
「しーっ。声が大きいぞ」
 慌ててバリスタはアルドの口を塞いだ。もう大声は出さない、という意味を込めて頷いて、手を外してもらった。
「でも見つかっちゃったらどうするの? 兵隊って、剣とか弓とか持ってる怖い人達じゃない。それもたくさんいるんだよ」
「街道沿いの藪の中か、木に登って隠れてれば大丈夫さ。かくれんぼでも見つからないんだから」
 自信たっぷりにバリスタは言った。兄の忠実な部下であり仲間である弟は、すぐに納得した。
「いつ来るのかな」
 見たこともない――これから見ることもないだろう異国の風景に思いを馳せ、夢見るような瞳でアルドは呟いた。
「父ちゃんたちの話をよく聞いていれば判るよ、きっと。そうしたらすぐ走ってって、待ってればいいんだ。でも、これは内緒だぞ。ばれたらきっと止められるし、怒られるからな」
「うん。判ってるよ、兄ちゃん」
 二人だけの約束を交わして、兄弟は村に戻っていった。
 二日後には、いつものように大人たちはひそひそと噂の繰り返しをする代わりに、年頃の娘を持つ家は娘の顔にかまどの灰や鍋炭を塗りつけ、年寄りを家の奥に隠したりしはじめた。どうやら決行の日が近づいてきたらしいということがバリスタとアルドにも感じられた。一番上の姉のリゾレッテも顔に炭を塗りだしたところから、彼らは決行の日を明日と決めた。
 しかしどうして大人たちがそういう行動をとるのかということは目敏い彼らにも判らなかったことで、とうとうアルドは、母が自分も顔に炭を塗る必要があるだろうかと父と祖父に尋ねたときにその質問をぶつけてしまった。
「ねえ母ちゃん、どうしてリズ姉ちゃんは顔に炭を塗るの?」
「そりゃあアルド、どこの軍隊にだって、女の嫌いな男などおらんからだよ」
「お祖父さん、つまらないことをアルドに教えないでくださいな」
 祖父が黄色い歯を見せて笑ったが、母は厳しい顔をしてせっかくの彼の質問を蹴飛ばしてしまった。それでアルドが炭を塗る意味を知るのはずっと先のことになってしまったのだった。
 結局母が顔に炭を塗ることはないだろうという結論に落ち着いたのであったが、夜になっても父母と祖父は眠らずにずっと何かの相談をしていた。同じベッドで寝ているバリスタとアルドは、それに聞き耳を立てていた。
「だからな、わしゃあギュメットとバリスタと、アルドだけでもチュリンのところにやったほうがいいんじゃないかと思うんだ。ビエルソならルシタニア街道から遠いし、奴らだってそこまでは行かんたろうからな」
「でもお義父(とう)さん、あのひとたちはシュムでもフリックでも略奪だとか、そんな無法なことはしなかったっていうじゃないですか。アゼルだって大丈夫ですよ。リゾレッテに炭を塗る必要もなかったんじゃないかしら」
「カイエンヌ、それが奴らの思うつぼというものなんだ。そういうふうに見せかけておいて、油断させようというのに決まっている」
「もしあの子らをチュリンに預けたとしても、ここが戦場になってしまったら、それっきり会うこともできなくなるかもしれない。そうなるくらいだったらいっそ最初から皆でいたほうが……」
 父が悲しげに言った。もしも父母が祖父の言に押されて彼らを長兄のところに行かせてしまったら、決行も何もなくなってしまう。そうならないことをバリスタは祈った。アルドはアルドですぐ上の姉、ギュメットが一緒にならないことを祈っていた。何しろ彼女はすぐに姉貴風を吹かせて命令するし、何かあるとすぐに言いつけようとするのだから。
「そうやって油断しとる間に奴らがやってきて、後悔したときには胴と首が泣き別れ、ということになったってわしゃ知らんぞ。わしゃあ年寄りだからもう先のことは見えとるで、いいかもしれんがな。アルドたちが可哀相で泣けてくるわい」
 脅しつけようとしているのか、祖父はことさらに怖そうな声を作っていた。首と胴が泣き別れというのも、子供たちにはいまいち理解できない言葉であった。しかしどんなに祖父が頑張ったところで、バリスタとアルドにとって「異国の兵士たち」は異国への憧れとロマンの体現、溢れるばかりの好奇心の対象だったのであって、決して恐怖の対象ではなかったのである。
 次の日の朝、兄弟は顔に真っ黒な鍋炭をつけたままのリゾレッテが起こしに来る前に目を覚ましていた。それで彼女は幼い弟たちが心配で眠れなかったに違いないとあわれに思ったのだが、実のところ眠れなかった理由は別のところにあった。
 二人が一緒に一階に下りてゆくと、父親と母親、二番目の兄と姉はすでに畑仕事に出かけたあとだったので、テーブルについているのは祖父だけだった。ギュメットはいつものように水汲みにでかけたようだ。テーブルに並べられている大皿には、もう残り僅かになったじゃがいもの焼けたのと、干からびたチーズのかたまりが乗っていた。
 リゾレッテが深皿に鍋の底に残った最後のミールの粥を掬ってくれた。二人は大急ぎでこの貧しい食事を終えた。それから夕飯まで外で遊んでいてほとんど戻ってこないのが常であったから、リゾレッテは昼食とおやつに、茶色のぼそぼそしたパンとカディスの乾果を渡してやった。
「あんたたち、街道の方まで出て行っちゃ駄目よ」
 姉の声を背中に聞き流して、兄弟は家から出ていった。今日は外で遊んでいる子供たちも少ない。家から出ないように言い含められているのだろう。
 家々の煙突から紫がかった煙が立ち昇っているのはいつものとおりであったけれども、普段とは何か違った緊張感のようなものが村中に張り詰めていて、村全体が息をひそめているかのようだ。
 村の門近くに来ると、そばの井戸端に女の子たちが何人か集まっていた。それぞれ手に水桶を提げている。水汲みの途中でお喋りに熱中してしまうのは老若を問わないらしい。その中の一人がバリスタとアルドを見て甲高い声をあげた。
「バリスタ! アルド! 門から出たらひどいわよ!」
 ギュメットの声だった。何も言っていないし、まだ門の手前にだって来ていないのに、どうしてこうも鼻が利くのだろう。バリスタはくるりと後ろを振り返って、思い切り顔をしかめて舌を出した。
「えばりんぼ! 悔しかったらついてこいよ!」
 言うなりバリスタは駆け出した。アルドも慌ててそれに続く。ギュメットの声が追いかけてきた。
「父ちゃんに言いつけてやるからね!」
 それも無視して二人は村から出て、灰色の枯れ草の野を突っ切って走っていった。さすがにアルドの息が切れだしたところで、バリスタは速度を緩めて弟が追いついてくるのを待った。街道の煉瓦色はもう見えている。
「ギュメット姉ちゃんに見つかっちゃったね」
「かまうもんか。女なんてのには、何が大事なのかってことは分からないのさ」
 知ったような口をバリスタは利いた。誰か大人が言っていた言葉をそのまま使ってみただけだったが、アルドには受け売りだろうが兄の創作した言葉だろうが意味が判らないのは変わらない事だったので、大した違いはないようだった。
 バリスタは周りを見回して、街道が見渡せてなおかつ身を隠せそうな場所がないかどうかと探した。
 街道の路肩から少し離れたところに一本立っているハスクの木がちょうどよいぐあいに葉を茂らせていたので、彼はそこに隠れることに決めた。つるつる滑るハスクの幹を、手に唾をつけて登りはじめる。木靴だと滑ってうまく登れないので脱ぎ捨てて裸足になった。すぐ後ろからアルドも続く。
 滑らないように気をつけながら、バリスタはしっかりした枝を見つけてそこにまたがって座り、アルドを引っ張り上げてやった。一日の長のせいか、木登りにかけては弟はまだ兄には及ばなかったのである。
 枝の上に落ち着いてからチョッキのポケットに手を入れて、アルドが情けない声を出した。
「パンがつぶれちゃった」
 もともと水気が少なく粘りもないパンは、木登りの最中に木にぶつけたり、体と幹の間に挟んだりしてしまったために見るも無残につぶれてぼろぼろに壊れてしまっていた。バリスタは兄らしく気前のよさを見せた。
「いいよ、おれのを半分やるから」
「うん」
 二人は仲良く並んで、南北に延びる街道のどちらから来るのか判らない軍勢を探して反対の方向をそれぞれ見張ることにした。待つ時間は長かったが、期待に胸をふくらませている彼らにとって、それほど長いようには感じられなかった。
 二人が村の外に見物に出ていってしまったことを、もうそろそろギュメットが告げ口していてもおかしくはなかったが、まだ彼らを探しに来る人影すら見えなかった。

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