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 戦いが終わった頃には、東の空がうっすらと明るみはじめていた。とはいえ大勢はその前に決まっていたようなもので、あとはペルジア軍が残兵をまとめて引き上げるのを追うだけのことであった。
 ペルジア軍はグレインズを捨てて今度こそ本当に森の中に逃げ込んだようだったが、国境を出てしまうと、積極的に出てはならないという皇帝の厳命に逆らうことになるので、リュシアンは追撃させなかった。
 しかしそんなことで彼らの高揚した気分にいささかの水もさされることはなかった。何しろ久々に思う存分に戦い、本領を発揮できたのである。おまけに今までのことはすべて作戦であったと判ったし、それがあまりにもうまくいったというのでずいぶん気分が良かったのだ。
 リュシアンはもともと風邪気味で体調が思わしくないところをおして出てきていたので、戦闘終了後ただちにピウリに戻っていった。親衛隊以外の騎士たちは引き続いて残り、その日は祝勝の宴が朝から開かれていた。
 短い仮眠と休息を取ったのち、宴に加わることもせずアルドゥインはピウリに赴いた。彼がこの戦いの立役者だということを、止める間もなくセリュンジェたちが大いに話して回っていたので疑わしい目を向ける者はほとんどいなくなっており、どころかは彼に向けられるものは賞賛の眼差しに変わっていた。
 本営の奥といっても革張りの天幕に過ぎなかったが、その入口の布を持ち上げ、アルドゥインは声をかけた。
「ディウス隊所属アルドゥインが参りました。ただいまお時間はよろしいでしょうか、将軍閣下」
「おお。待っていたぞ」
 リュシアンは嬉しそうにアルドゥインを迎えた。彼のアルドゥインに対する感想が今回の戦闘でまた新たにいくつか加わったことは間違いがないようだった。
 彼は暖かそうなひざ掛けで足をくるみ、小さなストーブを前にして手を炙っていた。また体調を崩させてしまったか、とアルドゥインは心配そうな顔をした。それに気づいてリュシアンは笑った。
「わしはもともと寒がりなのだよ、アルドゥイン。心配せずとも良い。それより座れ。ストーブの近くにな」
「では失礼いたします」
 アルドゥインはいつものように答えて、リュシアンの斜め正面にある床几に座った。いくさの昂りも、彼には関係のないことのようだ。
「おぬし、怪我などは無かったか」
「はい。おかげさまで、かすり傷もございません」
「まこと鬼神のような働きぶりであったからな。遠くにいたわしからでも、ああ、あれはおぬしに違いない、と判るほどであったよ」
「恐れ入ります」
 彼は儀礼的に頭を下げた。
「そちらの方はどうだ」
「とむらいの杯を上げた後、祝勝の宴を開いております。――みな沸き立っておりますから、開くなと言ってもきかないのではないでしょうか。歩哨には百人単位であたっておりますが、おそらく今日明日の再戦はないものと存じます」
「わしもそう思っておる。騎士団の者らを今まで騙していたようなものだから、少々羽目を外させてやってもよかろう」
「して、我が方の被害はいかほどでございましたでしょうか」
 アルドゥインが聞きたかったのはその事だったようだ。
「うむ。死者が七十一名、負傷者が四百三十七名だ。最初の混乱とあの乱戦を考えれば少ないほうだろう。ペルジア側の死者は数えておらぬが、おそらくこの倍ではきかぬだろうとのことだ」
 おのれの部下の被害が少なかったことを、リュシアンが心から喜んでいるようなのは、その雰囲気から読み取れた。
「これでペルジアが和平を持ち出してくればいいのだが」
「勝つつもりのない戦争を仕掛けてきたわけですし、この程度の敗戦で終わらせることはないでしょう。新たに援軍を送り込んでくるやもしれません」
「だろうな」
 リュシアンは軽く頷いた。
「おぬしのあの作戦を聞いたときにはこのわしもさすがに驚いたものだったが、こうも簡単にペルジアが罠にはまるとは思わなんだ。実は内心ひやひやしていたのだ。このままきゃつらが罠に食いつかず、騎士団も緩みきるところまで緩むのではないかとな」
「そんなことにはなりません、と申し上げましたでしょう」
 アルドゥインはかすかな笑みを浮かべた。
「ああ。実際おぬしの申すとおりになった。――アルドゥイン、これからのいくさは力だけでは勝てぬ。頭が、必要だな」
 老将軍はしみじみと呟いた。
「おぬしのような男が我が騎士団に、いや、メビウスに現れたのも、これもヤナスの導きの一つなのかもしれぬ」
「俺がそれほどのものだとは、思っておりませんが」
「そう、謙遜するな」
 リュシアンは朗らかに笑った。
「ところでアルドゥイン。おぬしがこの作戦を立て、実行させたことを、まだ誰も知らぬのか?」
「それが……言いふらしている者がおりますので、おそらく明日中には全軍の知るところになってしまうのではないかと……」
「それはいい」
 困ったようにアルドゥインは言ったが、リュシアンは得たりとばかりに膝を叩いた。何がいいのだろう、と彼は首をかしげた。しばらく一人で納得して頷いていたリュシアンはつとおもてを引き締めて、重々しく名を呼んだ。
「アスキアのアルドゥイン」
「はい」
「今日のそなたの働きとたくみは、実に見事なものであった。今日の勝利はそなたのはたらきに因るところが大きい。この功績を以てそなたを五番隊の千騎長に任ずる。これからも励めよ」
「ええっ?」
 騎士にしてやると言われた時と同じくらい――それ以上にアルドゥインは驚いた。メビウス軍における千騎長、百騎長というのは実際に千人の隊、百人の隊を預かっている隊長のことではなく、役職の名前であって人数も一定していない。中隊長から小隊長クラスにあたるのが百騎長であり、千騎長はほぼ准将にあたる。五つの大隊を率いているのは、それぞれの隊につき二、三名いる千騎長のうちの一人である。
 それに、いきなり抜擢するというのだ。アルドゥインが驚いたのも無理はない。
「皇帝陛下に諮らずにそんな決定をなさってよろしいのですか」
「任命はわしの一存で決められることだ」
 アルドゥインの最後の望みはリュシアンの一言で片付けられてしまった。肩を落とした彼に、リュシアンは不思議そうに尋ねた。
「おぬし、出世したいとは思わぬのか」
「出世のために作戦を考えたのではありません。ただ、どうすれば早く終結させられるかと、それだけを考えていたので」
「しかしな、アルドゥイン」
 リュシアンは言った。
「ただの騎士の身分でしかない者がわしに意見するよりは、なにがしかの地位を得ておいたほうが皆も納得しやすい。それに、おぬしが申していたもう一つの案を実行するためには、おぬしが兵を率いて出て行ける理由が必要だ」
「……ですが閣下、あれは……君命に逆らうことになります。閣下ご自身がそう言われたではありませんか」
「わしも色々と考えた」
 それには答えず、彼はストーブに手をかざした。
「イズラルがおちればこの戦いはすぐにも終わる。それはおぬしの言うとおりだ。それにイズラルは平城――守るに難く、攻めるに易い。イズラルを落とすのは簡単だ。むろんそれはこちらから討って出てはならぬという陛下の厳命に反するし、れっきとしたペルジア侵略そのものにほかならぬ。たとえ公使の奪還という大義名分があろうとな。だが、それはメビウス軍に対する命令だ」
「どういうことですか」
 リュシアンは後ろの方に控えていた小姓に声をかけた。
「グンデル、わしの書簡箱を持ってまいれ」
「かしこまりました」
 ただちに小姓は出て行き、リュシアンの愛用している書簡を収めた木箱を捧げ持ってきた。それを受け取ると、もう一度席を外すように命じた。真鍮の留め金を外し、彼はきれいに巻かれた書簡を取り出した。
「陛下からの密書だ。三旬ほど前にいただいた。おぬし、字は読めるか」
「はい」
 うなずくと、リュシアンは彼にその羊皮紙を手渡した。彼がその上に書かれた文字を追っているのを横目で見ながら、リュシアンはひとりごとのように言った。
「判るか、アルドゥイン。わしはすでに陛下より全権を委任されておる。このいくさはわしの決定しだいなのだ。そしてわしの心はすでに決まっている」
「しかし……」
「――軍籍を抜けた軍隊の単独行動という形でならば、君命には触れぬ」
 アルドゥインは羊皮紙を元のように巻き直し、リュシアンに返した。
「難しいぞ。やれるか?」
 試すようなリュシアンの視線を真っ向から受け止め、アルドゥインは挑戦的に老将軍を見つめ返した。
「閣下のご命令とあらば、不肖アルドゥイン、守り神たるナカーリアにかけて必ず成功させてみせます」
「よし」
 満足げにリュシアンは頷いた。
「兵はいくらいる」
「五千ほどお貸しいただきたく存じます」
「良かろう。五千なら、援軍を代わりに加えておけば当座敵の目をごまかせる。おぬしには四番隊と五番隊を貸し与えよう。して、いつ出る」
「今日には無理ですが――三日ほどあれば」
「ではアルドゥイン、そこの箱を取れ」
 言われたとおりの箱を持ってくると、開けるように命じられた。中には、紅と金で彩られた将軍の采配が収められていた。アルドゥインは驚いて顔を上げた。リュシアンは采配を取り出してアルドゥインに向かって差し出した。
「おぬしはわしの代理としてペルジアに行くのだ。よいな」
 アルドゥインは采配を押し頂いた。
「かしこまりました。命に代えましても、必ずや」
 リュシアンはそれを遮った。
「命など賭けるな」
「ではこの命と陛下に捧げた剣は戻る日まで、閣下にお預けいたします」
 きっぱりと言った後で采配に目を落とし、彼らしくもなくやや逡巡してから、アルドゥインは顔をもう一度上げた。
「閣下に命をお預けするからには、もはや何事も隠しはいたしません」
 そう言うと、二人きりしかいない天幕でも誰かに聞かれることを恐れるようにアルドゥインはリュシアンのそばにつと顔を寄せて、低く小さな声で何事か囁いた。リュシアンは驚いたように目を見張り、若者の顔を見つめたが、そのおもてに浮かんだ決意が何だったのかまでは読み取ることができなかった。
「そうか……おぬしはやはり……」
「……過去を捨てたつもりで今まで生きてきましたが、結局閣下の仰るとおり、それは難しいことです。そのために殺されかけたとしても、俺は生きるにも死ぬにも、一族の軛から逃れることはできないのですから」
 自嘲するように、アルドゥインは声を出さず笑った。それからまた真剣な眼差しでリュシアンを見た。
「もしも運命の我が味方にあらず命令を果たせぬ時には、どうか――息子はおのれの信ずる道を行き、満足して死んだと、父にお伝えいただけぬでしょうか」
「それは、聞かぬ。無事に戻ってまいれ。これはわしの命令だ」
 鋼色の瞳と、闇色の瞳がひたとぶつかった。
 やがて、アルドゥインは誓いのように言った。
「――和平成らせた後には、必ず生きて戻ります」



「Chronicle Rhapsody10 グレインズの戦い」 完


楽曲解説
「間奏曲」……劇やオペラの幕間に演奏される器楽曲。
「ガリアルダ」……三拍子の快活な舞曲。あの話の何が快活なのか……。

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