前へ  次へ


                               *



 何を言われても、アトの愁眉は晴れなかった。
(サライ様はこの頃、陛下に気をつかって……いえ、つかいすぎていらっしゃる。いくらなんでも、このままではいつか本当にまいってしまわれるに違いないわ。もう少し発散していただければいいのに)
「それにしても」
 アトの憂いに気づかぬまま、サライは独り言のように呟いた。
「メビウスがそんなごたごたに巻き込まれているとなると、ヴェンド公との話はちょっと先延ばしだな。いつ陛下に申し上げようとか思っていたけれど……。だから公のほうもあれから何も言ってこなかったのかな」
 彼が何の話をしているのか、すぐにアトには判った。しかし、ヴェンド公ヘルリがレウカディアの戴冠式の席で、サライと自分の娘の縁組を打診してきた話は、ごく一部の近しい者しか知らない話であった。
 高位の貴族ともなれば、その結婚には少なからず王族のそれのように国際政治や権力均衡といった問題が絡んでくるわけで、当事者の意思だけというわけにはいかず、皇帝の許可が必要となる。十二選帝侯は言うに及ばず、カーティス公も政治的影響力を考えてみればいくら平民出身だとはいえ同じだろう。
 また相手も大貴族というような場合には、当事者だけでなく、それぞれの君主の間でも意思を確かめるという面倒な手順がある。まずサライがレウカディアに婚姻を願い出て、それがゆるされればレウカディアがイェラインにヴェンド公の息女とカーティス公の縁談を持ち出す。それからイェラインがヴェンド公にその縁談を伝える――要するにお互いの君主を仲人にする形になるのだ。それだけを考えてみても、彼の地位というのが不自由な身分であったのは確かだった。
「それほど大掛かりないくさでもございませんし、陛下に奏上なさるだけでしたら何の問題もないと思いますけれど」
 アトは何となく複雑な思いで言った。サライはため息をついた。
「でも戦争勃発の話の後にする話じゃないから、また今度にするよ。全く――貴族というのは面倒なものだな。結婚ですらこれだ。おまけに相手の顔も性格も、何もわからないときた」
「それは先方も同じことですわよ」
「まあね。イスメーヌスの戯曲みたいに、結婚してみたら悪魔でしたなんてことはないと思うけれど」
「あら、サライ様は金の瞳をお持ちでしょうに」
「向こうもセラード人だから、ひょっとすると二人とも悪魔かもしれないよ」
 アトが心やすだてにからかうと、サライは皮肉っぽい笑みを浮かべた。以前と変わりない笑みに見えたけれども、静かで冷静な表情の下で彼がだんだん塞ぎがちになってきていることに、アトのようなそば仕えの、ごく目端の利く者は気づいている。
 それは彼がカーティスに戻ってきてからずっと続いてきた変化であったけれども、この頃になってやっと、聡いものには判る程度に表に表れはじめたのだ。それが主にレウカディアとの関係にあるのだということは、これは誰にしもわかる事だった。
 レウカディアはじっさいよくやっていたかもしれないけれど、やはり二十歳の、国を治めるための学問もほとんど修めぬままに帝位についた少女であった。それは他ならぬ彼女自身がいちばん判っていたことだろう。二十歳ともなれば立ち居振る舞いはしだいに子供らしさが抜けて、大人の女性の落ち着いた物腰に変わっていく。けれども彼女の場合、それは意図的にそうしようとしている所が大きかった。
 しかしレウカディアはもともとそう気の長いほうではなかったし、末っ子で、幼いうちに母を亡くしたということもあって甘やかされて育った、言ってしまえばわがままなところが多分にあった。
 だから威厳を示そうとして始終しかめつらしい顔をして笑顔を見せなかったり、少しでも皇帝らしくしようとしていることは、彼女の本来の性格からは全く程遠いことで、一旦宮廷を下がると、レウカディアが何に腹を立てたのか突然女官や小姓たちに物を投げつけたりということがたびたびあった。
 年長者ばかりの家臣たちの中で若年ゆえと見くびられぬようにしようと無理をして、失態を取り返すためにさらに無理を重ねるという悪循環を繰り返していたのである。それは彼女にとってまた大きなストレスになっていることは間違いなかった。
 まだ正式な即位から二ヶ月しか経っていなかったのに、彼女の頬は笑みを忘れてしまったかのように強張っていた。誰も彼女を老成していて頼りがいのある、威厳のある女帝だとは思っていない代わり、助けてやらなければならない若い女帝だと思っていたのだが、彼女はそれに気づいていなかった。
 サライをはじめ、金獅子宮の家臣たちは、賢明にもそういった彼女の行動を見て見ぬふりをしていた。しかし何も言わなければレウカディアは相手を腹黒い、計算高い人間に違いないと疑ったし、なにか言えばそれはそれで腹を立てて席を立ってしまった。それでサライは、楽しみにしていた学生や学者を招いての勉強会もほとんどやめていたし、友人を自宅に招いたり、客と長時間話し込むことすらやめていた。
 そんなふうに、レウカディアはクライン宮廷の中でしだいに困惑の種になりつつあったし、彼らの生活を耐えがたいものにしていたけれども、それでもクライン宮廷の人々の心はレウカディアから離れてはいなかった。
 サライがそう思っていたように、レウカディアは何しろ即位してまだ二月めにしかならなかったし、これは一時的で無理もない反応で、もう少し時が過ぎてこの混乱と動乱の時期が過ぎればいずれ落ち着いていくだろうと思っていたからである。
 とはいっても、サライに忠実なアトにとっては、彼がそのように自分を抑えつけ、そのせいで鬱屈していくというのは自分の身に起こったことよりも辛く、見ていられないものだった。
(もう少し宮廷内が落ち着いたら、視察の形でもいいから、旅行なさるように勧めてみよう。そうしたら少しは気が晴れるかもしれない。ローレインか、アーバイエか、どこか景色の綺麗なところに)
 アトはこっそりとそう考えた。
 不意にサライが驚いたような声を上げて立ち止まった。
「どうなさいました?」
 言いながら彼が見上げた空に目をやって、アトにも理由が判った。数十羽の鳥の群れが北を目指して羽ばたいていた。遠目にも鮮やかな水色と白と黒の色彩を持った羽は、冬のあいだ暖かな気候と餌を求めてメビウス北部からクラインに移動をする種類の小鳥のそれである。
「もうすぐ春なんですね」
 アトは声を弾ませた。だから春になったら、旅行を――と言いかけたが、サライの声に遮られた。サライが思っていたことは彼女とは全く違っていたようだった。
「あの小鳥たちは冬の間だけクラインにいて、春が来る前に北に帰る。その全てが北に帰れるわけじゃないだろう。途中で力尽き、死ぬこともあると判っていても飛び立つのだろうか?」
 ものうい声で、サライは呟いた。その響きに何か不吉なものを感じ取って、アトはまた眉をひそめた。
「彼らは飛んでいく。生きているかぎり、風に逆らい、山を越えて、大陸を渡って。何の迷いも恐れもなく」
「そんなことなど考えていませんわ、きっと」
 アトは低く言った。
「あのような小さな生き物は、ただ、本能に従っているだけでしょう。でも私たちはそんなふうにはいきません」
「そうだね。人と人とのしがらみとか、さまざまなものに足元をからめ取られて身動きができなくなって。それでも、鳥に生まれついたものは空へ飛び立っていく。何もかも投げ捨てて」
 サライは絶望的に首を振った。金の髪がさらりと揺れた。
「私にはできないことだね」
 それは、誰のことをおっしゃっておいでですの?――アトはそう尋ねたかったけれども、言葉にできなかった。
(彼が鳥なのだとしたら、投げ捨てさせたのは私だけれど――)
 もう、小鳥たちの群は雲間に紛れて見えなくなっている。サライはまだ名残惜しそうに空の彼方を見つめていた。その心に浮かんでいたのは誰の姿であったのか、アトには判りすぎるほど判っていた。
 涙こそ浮かばなかったけれど、サライがあの時の自分の選択を今も悔やみ、おのれが捨てた友人の行方を思っていることは、一度も言及がなかったけれど何とはなしに読み取れることだった。
「あの人はきっと、元気だと思います。もともと流れてゆく人でしたし、どこにいても、誰といてもうまくやっていける人でしたもの。あのことは、サライ様のせいじゃありません。あれは、あの人とサライ様の運命だったんです」
 アトの言葉に、サライははっとして振り返った。淡い驚きの表情はすぐにぎこちない笑顔にとって代わられた。
「アインデッドと私の運命は、もう重なることなどないの? 私のラスフィア」
 アトは失敗したことに気づいた。だが何を言ってもそういう時のサライには効果がないことを知っていた。
「それは……判りません。でも、サライ様とあの人と、アルドゥインさんは、あれだけのつながりではない、ということだけは判ります。というよりも、見えるんです。三人の星は決して、一つ一つ離れて輝くものではないと」
「困らせてしまったね。すまない。もう言わないよ」
 優しく彼は言い、少女の髪を撫でた。サライは歩き出し、つと花壇から摘み取ったアラリアの花をそっと口許に寄せて香りを楽しんでいる。しかしその白い横顔は、また静かに深い放心に落ちていこうとしていた。
「サライ様……」
 アトの声も、もう届かないようだった。
(何を――考えていらっしゃるんです?)
 隣を歩いているはずなのに、なんと遠いのだろう。この人は、どんどん遠ざかっていく――アトは不吉な、奇妙な不安に駆られた。手を伸ばせば確実に届くところにいるのに、まるで声も届かぬ彼岸にいるかのようだ。
(あなたは何処に行こうとなさっているんですか? いつもそうやって、何もかも隠してしまわれて、私には心配することしかできないんですね)
 肩を並べているのに、サライの周りの空気だけは水底のように透き通って、周囲と隔てられているかのようだ。
 太陽の光そのままの髪も、紫水晶の瞳も、白い肌も、あやうい美しさをたたえた横顔も、全てがこの世のものとは違う不可思議な物質でできていて、いつかふっと溶けて消えていってしまうかと危ぶまれた。
(いけないわ)
 アトは背筋を通り抜けた、寒さとはまた違った冷たさに肩を震わせた。
(この世の人が、こんなふうに静かなのは。こんなに……何というのか……透き通ってしまうのは、良くない。不吉だわ……)
 だからといって、アトにはどうすることもできなかった。彼女にはこの世のものならぬものを見る力が備わりつつあったけれども、それ以外のことについては無力な十七歳の少女でしかなかった。
 二人がそうして、お互いに意味は違う沈黙に落ちていこうとしていたとき。
 宮殿の方から、年のころはアトとそう変わりのない小姓が駆けてきた。すっきりと白いシャツに細身の青いズボン、なめし革のベストはレンティア小宮殿に仕えるものの制服である。
「どうした、コアロ」
「摂政公閣下、陛下がお呼びです。テラニア運河の件で閣下にお命じになりたいことがあるそうで、至急金獅子宮に登城するようにとの仰せです」
「テラニア運河……すっかり忘れていたな」
 サライはちょっと苦い顔をした。
「ありがとう。すぐに支度をするから、馬の用意を頼む」
「かしこまりました」
 コアロはすぐにきびすを返して、宮殿に戻っていった。それを見送って、サライはアトの方を振り返った。
「すぐに終わるだろうから、供は要らないよ」
「わかりました。それではお気をつけていってらっしゃいませ」
「じゃあ」
 サライは手にしていたアラリアをアトの髪に挿してやると、コアロの後を追って宮殿に向かった。アトは不安げなおももちを変えられぬまま、その後ろ姿を見つめた。まるで見つめていなければ消えてしまうとでも言うように。

前へ  次へ
inserted by FC2 system