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      臣下は何事にも優れたものも良いが、過ぎぬものはな
      お良い。主を過ぎたるは驕りを生み、驕りは往々にして
      叛心を生むものである。
      臣下は荒馬と、その掌握は馬術と似たものである。
      手綱を放せば国は乱れるが、逆に乗りこなし、操ること
      ができればこれほど力強い味方はない。
                         ――「アルカンド夜話」




     第三楽章 雲の間奏曲




 鈍色と白色の筋となった雲が、灰青色の空を流れていた。おそらく上空では烈しい風が吹いているのだろう。その動きは驚くほどに早い。しかし地上の人々には、微風ていどの風しか感じられない。
 一年を通して穏やかな気候が続くクラインである。カーティスでは滅多に雨が降ることもなければ雪が降ることもない。しかし冬から春へと移り変わる時期は気候が荒れがちになる。この日も晴れてはいたが時折、思い出したように雲が太陽を遮っていた。
 カーティス城からやや離れた、カーティス市の南部に位置するレンティア小宮殿。元々は皇帝の夏の住まいとして建てられたものであるが、その役目を終えた現在ではカーティス公爵の居城となっている。
 季節の花をいっぱいに咲かせた花壇と、庭師たちが創意を凝らして動物や人の形に刈り込んだ植木、その合間に配された大理石の彫像が自然と人工の美を見事に調和させた、レンティアの庭園は美しかった。
 さらさらと水の流れる白亜の噴水に雲が影を落とし、アラリアのほのかな香りが有るかないかの風に乗って運ばれてくる。今は、水色のアラリアの盛りだった。
 その庭園の中ほど――ラウリスの木の根元に、彼は座っていた。
 膝には何かの書物が置かれていたけれども、先程から目を通していたわけではないようで、たゆたう視線はどこか愁いを帯びて、おのれの想念を追うかのように流れる雲を追っている。
 ほっそりとした身にまとうのは、襟から袷の部分にかけてと、袖口に金糸でぎっしりと縁取りと刺繍をほどこした白い上着とズボン。同じ白い長靴にも、金の留め金がついている。その上には摂政公の正装を完成させるマントの代わりに、これは全くの普段着と変わらない、少し色あせた茶色の革のコートを重ねていた。
 それはまたとなく美しい一幅の絵のようだった。
 彼の瞳の色にも似た紫水晶が真ん中におさめられた銀の額環は、金と銀の違いこそあれ《皇帝の輪》と同じ造りをしており、彼が皇帝からその権力の一部を委任され、大権を与えられていることを示している。
 銀の額環に飾られた秀麗な白い額に続くのは、整った弓形を描く眉。その下には、見るものを吸い込むような、深くあやしい濡れたような輝きを持つ淡い紫水晶の色の瞳。長い睫毛がそこに影を落としている。すっきりと切れ上がったまぶたが作り出すアーモンド形の目は少女のように優しい。
 細く高い鼻梁と、うっすらと内から浮き出るような赤みを帯びた唇。肌は絹のようになめらかで、一度も陽に当てたことなどないのではないかと思われるほどに白く、青白い。いくぶんやつれたためにはかなさを増した繊細な輪郭。それらをふちどり、このたぐいまれな美を完成させるのは、黄金の輝きにも勝るつややかな髪。
 黄ばんだ本の上にそっと置かれた手は華奢で細く、女のように白い。ただそれだけの所作なのに装飾品のようにさえ見えた。
 それが、クラインの戴く二十一歳の若き摂政公――サライ・カリフの姿だった。
「ここにいらっしゃいましたのね、閣下」
 優しくいたわるような声に、彼は視線を空から地上に戻した。規則正しい足音と、剣の鞘が布と触れ合うかすかな音。
「ああ――君か、アト」
 彼の斜め前に跪いたのは、濃い青みを帯びた黒髪を一つに束ね、青いボタンで留めるぴったりした白の胴着に、右肩からふわりと青いマントを流した女騎士――アトだった。彼女が着ているのは現在のカーティス公爵の誕生とともにその身辺警護を目的として結成されたカーティス騎士団の正装であったが、彼女は完全な男装はせずに、膝までのスカートをはいていた。
「どうしたの? 何かあった?」
 答える代わりに、アトは尋ねた。
「お一人でおいでになりたいところを邪魔してしまいましたなら、のちにいたしますけれど。――寒くはございませんか?」
「平気だよ。コートを着ているし、今日は風もないからね」
 言ってから、サライはふっと笑った。
「ねえアト。私と二人だけのときぐらい、閣下は無しにしてくれないか? そう呼ばれると自分がずいぶんと年を取ったように思える」
「でも、摂政公になられた以上は閣下ですから。閣下と呼ばれる自覚を持っていただかないと」
 アトは真面目に答えた。サライは本を閉じて、じっとしていて凝ってしまった首を動かした。
「まだ一月しか経っていないのに、自覚なんてあるわけないよ。だいたい、私は役職とか敬称だけで呼ばれるのが嫌いなんだ。私にはサライ・カリフという名前があるんだから。君だって副団長と呼ばれるのは好きじゃないだろう?」
「わかりました。サライ様」
 ちょっと肩を落として、アトは言った。
「やはり、のちにいたしましょうか」
「いや、構わないよ。そろそろ戻らなければと思っていた」
 それからどちらも何を言うでもなく黙っていると、またサライは放心に引き戻されたように、ふっと視線を落とした。摂政公の激務が続いているとはいえ、このような隙のある姿をアトのように身近なものにさえ見せることは今までなかったことだった。それゆえ、彼が疲労しているのだということがうかがわれた。
(この人は、いったい何を思っているのだろう)
(また、そうしてここではないもの、ここにはないものを見つめて――。あなたは、何を見て、何を考えていらっしゃるのですか?)
 一抹の悲しさのようなものにふと胸をつかれながら、アトは彼の横顔を同じように見つめた。
(この頃、気が沈みがちでいらっしゃる。心なしかまたお痩せになられたようにも見えるわ。そのせいかしら……前よりもはかなげというか、消え入ってしまいそうな雰囲気が増したように思える)
 そういうふうにサライが物思いにふけることは前からよくあることだったのだが、急に何か不吉なものを感じてアトは声を出した。彼を呼び戻さなくてはならないような気がしたのだ。
「サライ様」
「――どうした?」
 サライは今度こそ現実に戻って彼女を振り向いた。アトは軽くおもてを伏せた。
「何を……お考えになっていらっしゃったんですか」
 なにかを聞きたくて呼んだわけではなかったので、その声は小さかった。しかしサライは素直に答えた。
「それは難しいな。一つの物事を考えているというわけじゃないから。さっきだって何か考えていたわけじゃなかったし、今は……そうだね。この雲はどこに行くのかと考えていたよ」
「雲の、行き先ですか」
 アトは問い返し、サライはそれに応えて頷いた。
「ごらんよ、アト。空の上では風が吹いているんだろうな。あんなに早く流れていく。風の吹くままに流されて、分かれ、一つになり――。雲はどこに流れていくのだろう。世界の果てまでゆくのか、それとも――」
 そこまで言って、サライは小さく笑った。
「これはケナンが発表した新しい論文なのだけれどね――ほら、この前君にも紹介したはずだ。ゾデボルクで地学をやっている」
 学生たちを集めての小さなサロンを、サライがレンティアで週に一度ほど開いていることはアトも知っていたので、軽く頷いた。
「彼の説によると、この世界は大きな球のようなものなのだそうだよ。だとしたら、いま吹いているこの風は昔ここを吹きすぎた風が戻ってきたのかもしれないし、この雲もやがて戻ってくるんだろう。そう考えてみると、世界は巡りめぐる環のようなものなのかもしれない。君はどう思う?」
 急に尋ねられて、アトは驚いたようだったが、答えはよどみなかった。
「私たち人はみな世界そのものなんです。サライ様の言葉をお借りするなら、環の一部、とでも言うのでしょうか。世界の環は永遠に止まることはありません。命は過去から未来へ続き、遠い過去は未来の源に続いている、環なんです」
「……」
 非常な興味をそそられたようで、サライは黙って次の言葉を待っていた。アトは流れるような言葉で語り続けた。
「これは私も、予言の力に目覚めてから気づいたことなのですけれど。力が私を支配するとき、私は世界から切り離された存在になるんです。世界から切り離されてしまうと、いろいろなものが見えてきます。そして気づくのは、世界とは決して誰とも切り離されるものではなく、誰の中にでもある、そして世界は誰をも一人にしていないということです。だから切り離されるというと違うのかもしれません。ほんの少しの間、世界の環から外れたところに魂が行ってしまうだけのことで、私を形作るものは本当はそこにあるのですから。私を形作る最後のものは世界の中にある。また世界を形作る最初のものは私の中にもある。その本質は同じものなんです」
「……君はほんとうに、神に選ばれた者なのだね。他の誰が、君のような答え方をできるだろう」
 優しく言われて、アトは急に恥ずかしくなって俯いた。サライはそれには気づかぬようで、明らかにもう現実に戻らねばならないことに疲れている、といった風情でゆっくり立ち上がった。
「余計なことばかり喋ってしまった。それで、何の用だったの」
「よろしゅうございますか」
 気を取り直して、アトは念を押した。
「ああ、構わない」
「オルテアのノカールから報告が参りました。昨年のヤナスの月の四旬に、ペルジアがメビウス国境のアヴァールを侵攻したとのことです」
「それでは陛下の戴冠があった頃――いや、私と君がクラインに戻る途中には既に起こっていたというわけか。戴冠式にはペルジア使節もメビウス使節も揃っていたわけだから、少なくとも一方は知らされていなかったのだね」
 アトは頷いた。
「戦闘の拡大を恐れてメビウスでは今まで国おもてには内密ということにしていたようです。本日正午に正式にペルジアに対し宣戦布告を行いました。情報によればタギナエ候領の村グレインズがペルジア軍に占領されたとのことで、両軍は現在もグレインズ近郊で膠着状態を続けているそうです」
「あの雪ではどのみち戦いにはならないからね。春が来たら動き出すか、それとも厳寒期の間に和平が成立して終わるだろう。それにしても、ヤナスの月は入れないにしても今はネプティアの月だろう? 実質一ヶ月以上も隠し通したとは恐れ入る。それで――遠征している騎士団は何?」
「陸軍大元帥リュシアン・ド・ディオン率いる紅玉騎士団です。それにタギナエ騎士団が合流しています。正将はおそらくディオンでしょう」
 その言葉に、サライは足を止めた。
「紅玉……ということは、アルドゥインもこの戦いに出ているということか。元気でやっているのかな」
 ほんの短い間だったが旅の苦楽を共にした仲間の姿を、サライは思い出しているようだった。その思い出は同時に、もう一人についての辛い記憶を呼び戻すものだったが、何を彼が考えていたのかは、アトには判らなかった。
 想念を振り払うように、サライはかぶりを振った。
「ではノカールには引き続きオルテアにとどまるように命じておこう。対ペルジア戦役がクラインにまで影響してくることはないだろうけれど、駒を置いておくにこしたことはない。やはり情報収集に魔道師を使うのは正解だったな。送ったとたんにこんな情報を掴むことができるなんて。もう少し自由に使える魔道師を増やせるように塔に働きかけてみよう。こんな地位にいると、自分で動くこともできないからね」
「かしこまりました」
「この話は後ほど陛下にご報告して、裁量を仰げばいい。不干渉主義をとっておられるから、動くことはないな。他には?」
「ございません」
「そう」
 サライはまた歩き出した。それから、ふと思い出したように付け加えた。
「ああそうだ――今の話は、陛下にご報告するときに私も初めて聞いたということにするから、そのようにね」
「サライ様も、苦労なさいますわね」
 そう、彼女は呟いた。最近になって、善かれ悪しかれ、レウカディアの皇帝としての資質がだんだんに明らかになってきている。彼女は何事にも一所懸命だったし、それは何も悪いことではなかったけれども、何もかもを自分一人で裁量しようとして逆に自分を追い詰めているきらいがあった。
「陛下も、もう少しサライ様や他の方を信頼して任せるということを考えてくださればよろしいのですけれど」
 サライは、何も言わない。もとから本心を見せたりするような人ではなかったが、カーティスに戻ってきてからというもの、バーネットやアトにすら同意の言葉も言わぬようになった。
 もともと彼は人を強く惹きつける天性の引力というか、魅力を備えた人であったけれども、摂政公になってからはますますそれが強くなっているように思われた。美しく怜悧な摂政公を慕う人々は少なくない、どころか日増しに増えているような状態だった。
 しかしサライとしては自分から人を集めようと働きかけていると思われないように極端に気を使っていた。武官であった頃からよく開いていた学生を招いての勉強会やサロンなども、ごく小規模なものにとどめるように努力していたのである。
「あまり言うものじゃない。陛下は陛下なりに、よくやっておられると思うよ」
 やがて、サライはぽつりと言った。

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