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                                *



 初戦の翌日――ヤナスの月の二十五日は、アヴァール地方でも珍しいほどの寒波が見舞った日であった。雪こそ降らなかったが、空気がガラスのように凍り付いて、触れられるのではないかと思われるほどの寒気が大気に満ちていた。
(何でこんなに寒いんだ)
 寒さで目が覚めるなど、アルドゥインは今まで経験したことがなかった。ストーブはまだ燃えているし、天幕の中にいるのに、この寒さは何なのだろう。毛布をしっかりと体に巻きつけても、まだ寒い。戦友たちはと見ると、アルドゥインと同じような砂色の芋虫のようにごろごろと転がっている。幸いなことに遠かったが、どこかから迷惑な鼾の音が聞こえてくる。目を覚ましてしまったのは彼一人のようだ。
(もうすぐ新年だってのにな……。それに、誕生日も来るってのに)
 一月生まれのアルドゥインは、もうすぐ二十四歳になる。彼は深いため息をついた。そして、突然襲ってきた寒けにぶるっと身を震わせた。腕や背中に鳥肌が立っているのが触らなくても判る。
 そのまま眠れなくなってしまったが、体を動かすとそこから冷気が入り込んでくるので寝返りも打てない。それでなくとも狭い天幕に二十人近くが押し込まれているのだから、寝場所はきつかった。
 どうしようかと思案していたら、目の前で寝ていたセリュンジェがごろりと向きを変えて、目が合った。酒こそ飲んでいなかったが、昨日はアルドゥインが帰ってきてからもずっとザムニで遊んでいたせいだろう。目が充血している。彼は目をこすりながら、寝ぼけた声でもごもごと言った。
「あー……おはよう」
「今、何刻か判るか?」
「さあ……」
 まだ寝足りないようで、セリュンジェは大きなあくびを一つして、枕代わりの雑嚢を抱き抱えた。彼に聞いてもまともな答えは返ってこないと分かり、アルドゥインはちょっと首を曲げて、天幕の上部に開けられている換気用の小窓を見てみた。空は青をかすかに含んだ黒一色で、星明りはだいぶおぼろになってきている。だがまだ夜明けまでには時間があるだろう。
(だいたいルクリーシスの二点鐘くらいかな)
 空を見てアルドゥインはそう推理した。冬の今は夜が明けるのも遅い。日が射しはじめるのはマナ・サーラの刻近くになってからで、起床も夜が明けてからになるので、あともう少しは毛布の恩恵に与かっていられる。全く、今奇襲をかけられたとしても毛布から出たくないとすら思ってしまうくらいの寒さであった。
 しかしいくらそう思っていたところで、時間は止められなかった。間もなくグレインズの一帯に朝日が射し初め、起床を知らせる銅鑼と声があちこちで鳴り響きだした。にわかに天幕の内外が慌ただしくなる。
 これが冬でなければ兵士たちは外で眠っていても一向に構わぬのだが、何しろ今日の冷え込みようは北部のヴェルザー出身で寒さには慣れっこのはずのセリュンジェも悪態をつくほどであり、外で食事が配られることにも文句たらたらであった。
「タギナエでこの寒さは異常だぜ。小便でもしたら、した先からキュティアの矢まで凍っちまうんじゃねえのか」
「食事中に下品なこと言うな。大体、口に物入れたまま喋るなよ」
 アルドゥインが顔をしかめると、一緒に車座になって朝食のミール麦の粥を食べていたカレルが顔を上げて、不思議なものでも見るように彼を見た。その視線に気づいて、今度は疑問の意味を込めてアルドゥインは顔をしかめた。
「カレル、俺の顔に何かついてるか?」
「いや、そうじゃないんだが、お前って何だかおふくろみたいなことを言うな」
「俺のおふくろはうるさかったんだ。ああだこうだと」
 そう答えて、アルドゥインはひょいと肩をすくめた。
「気を悪くしたなら謝るよ。ただ、反射でつい言っちまうんであって、上品ぶってるつもりはないんだ」
「誰も気を悪くなんかしてねえよ」
 安心させるような口調でカレルが言った。
「ときにアルドゥイン、あんたの家族ってのはアスキアにいるのか」
「そうだよ。家を出たのは俺だけだ」
 アルドゥインは答えるために、口に運びかけた匙を止めた。喋ってから、粥の最後の一すくいを口に入れた。点呼まではまだ時間があったので、カレルは思いつくままに身の上話をはじめた。
「俺もさ、ラガシュ出身だから家族は皆そっちにいる。普通の農家の三男だったから兵役義務はなかったんだが、どうしても軍に入りたくって志願したんだ。このディウス隊は志願兵の部隊だから、全員がそんなところだけど。アルドゥインはどういった訳で傭兵になったんだ?」
「訳ってほどの事はねえんだけど」
 アルドゥインはこめかみの辺りを人差し指でちょっと引っ掻いた。二人の会話を聞いていた他の三人も興味を示して、聞かせろよ、などと言うので、引っ込みがつかなくなってしまった。
「俺ん家には叔母さんが三人もいて、三人が三人ともおふくろと仲が悪いんだ。おふくろには双子の弟――だから俺にとっては叔父さん、がいるんだが、叔父さんには子供がいなくて……それで従弟たちと俺と、誰が叔父さんの家を継ぐかで、おふくろたちが姉妹で争って。顔を会わせたら、目から火花が散ってんじゃねえかってぐらい睨みあうんだよ。それが嫌で家出した」
「家を継ぐって……商家か何かか?」
「ああ」
「じゃあ実家じゃ、お前のこと探してるんじゃないのか」
 ジョーンの質問に、アルドゥインは肩をすくめて首を振った。
「わからねえ。もう七年も前の事だし、うちには弟もいるから、俺がいなくたってどうとでもなるさ。それに親父たちに本気で連れ戻すつもりがあったんなら、今頃こんなところで戦争なんかしてねえよ」
「お前、寂しいことを言うなあ」
 ジョーンの口調は同情めいていた。
「それじゃあまるで、見捨てられたみたいじゃないか」
「俺があの家を見捨てたんだ」
 アルドゥインはまずいものでも吐き出すみたいな顔と声で言い捨てた。強がりなどで言っているのではないらしいその表情に、四人は顔を見合わせた。四人は四人とも、意外なものを見たような顔をしていた。それまでのアルドゥインは、過去を捨てた人間というようにはちっとも見えなかったのだ。
 彼らは何となく次の言葉を見つけられずにいたが、アルドゥインは重くなってしまった雰囲気をはねのけるようにちょっと空を見上げて呟いた。
「あーあ。にしても寒いな」
「この雲行きじゃ、また降るかもな」
 セリュンジェが彼に答えた。アルドゥインと同じように空を見上げて、アロイスは苦笑いした。
「俺たちゃユンクスによほど好かれてるらしい」
「ユンクスって、何だ?」
「知らないのか? 雪の精だよ。髪から肌までみんな真っ白いきれいな女なんだ」
「雨の精レイラの妹」
「へえー……」
 今まで見たことがなかったのだから当然だったのだろうが、雪とか氷とかに関する言葉にはほとんど知識の無いアルドゥインは首をかしげ、逆に有り余るほどの知識と経験を持つ四人は口々に教えてやった。
 彼らがそんなふうに時間を潰している間に、点呼が始まった。それが終わると今度は隊ごとに割り当てられた当番に従って、昨夜のうちに天幕に積もった雪を下ろしたり、雪を掻いて道を作る作業が待っていた。
 雪掻きの作業は単純であったが、重労働だった。中年の職業軍人などは腰を痛めただのと理由をつけてこの作業から離れたがるものだから、しわ寄せは二十代から三十代の若い兵士たちに全て来るのだった。しかし若い彼らは戦時下という憂さ晴らしにか、雪掻きの合間に雪合戦を始めたりしては上官にたしなめられるのだった。むろんアルドゥインたち五人も例外ではなかった。
 この重労働と遊びのおかげですっかり体が温まったところで、大抵のものが天幕に戻っていった。この日はペルジア軍にも何の動きも見られず、不思議なほど平穏無事に過ぎて言った。
 翌日も同じように、点呼とちょっとした訓練、雪掻きだけで一日が過ぎていこうとしていた。一つだけ昨日と違ったのは、寒くはあっても晴れていた天気が崩れ、風はないものの雪が激しく降り始めたということだった。砂糖のようにさらさらとした粉雪は音もなく降っていた。
「明日になったら、何もかも埋もれちまってるような気がするな」
 誰かがそう呟いたのも無理はなかった。雪の積もる音など聞こえはしなかったが、まるで足音をひそめた雪の精が、おのれの白い衣で静かに彼らを押しつぶしてしまおうとしているかのような、そんな気配ともいうべきものが肌に感じ取れるのだった。
 日暮れ近くなっても降り止まぬ雪に皆がうんざりしはじめていた頃。
 突然、召集を告げる伝令の声が響いた。
「敵襲――敵襲! 総員ただちに戦闘用意!」
「この雪で……。信じられねえな」
 陣内はにわかに慌ただしくなって、鎧どうしのぶつかる金属音や人の声で騒がしくなりだした。大部分の者が気を緩めて寛いでいただけに、この敵襲はまさに意表をついたものであった。
「一番隊は楯による防備線を張れ! 二番隊、三番隊は後続、矢部隊を配備せよ! 残る隊は総員第一級軍装のまま待機!」
 しかしいざ戦いとなれば尚武の国、その動きは実に素早い。ただちに命令がくまなく行き渡り、兵士たちは命令どおりに行動を開始する。アルドゥインが所属している隊は待機を命じられた五番隊だったが、アルドゥインは将軍の護衛のために彼とともに行動するようにという別命令が下った。
 まだ当番は回ってきていなかったし、彼以外にも将軍付の小姓や騎士には事欠かないはずだが、と腑に落ちないまま将軍の旗印のもとに行くと、リュシアンは彼を見て満足そうに頷いた。しかしその意味は彼には判らなかった。
「五番隊アルドゥイン、ただいま参りました」
「うむ。さっそくだが、ちと敵の様子を見てまいれ」
 他に当番はいくらもいるのにどうして自分がやらなければならないのかと思ったが、アルドゥインは命じられたまま、開戦を待ち構えて混みあっている合間をすり抜けて、身の丈ほどもあろうかという楯を構えた兵たちがずらりと並んでいる前線のところまで走っていった。
「おいあんた、危ないぞ。下がってろ」
「見てこいって、リュシアン閣下に命じられたんだ」
 アルドゥインに注意した相手はちらりと彼を見て、将軍付のしるしである赤の徽章を腕に巻いているのを確認して納得したようだった。それで、またまっすぐ前を見直して小声で警告しただけだった。
「面頬は下ろしといたほうがいい。矢が飛んでくるかもしれないからな」
「ああ」
 言われたとおり面頬をしっかり引き下ろして、アルドゥインは楯の隙間から前方に目を凝らした。前回の停戦申し入れの時に、緩衝地帯として定められた二百バール区間内――おそらくは百五十バールくらいのところに、ペルジア兵らしき人影が薄闇の中でぼんやりとわだかまっていた。だが、ペルジア軍であることを示す旗印のようなものはいっさい見当たらない。
「おかしいな。あれは本当にペルジア軍なのか?」
 隣の、さっきから色々と注意してくれる兵に尋ねたが、彼も否定の意味を込めて首を振った。鎧をしっかりと身にまとっていたので、そうすると首鎧と兜がぶつかってがちゃがちゃと鳴った。
「いや。判らない。旗印がないからここからでは見分けがつきにくいが、鎧はどうやらペルジアのもののように見える。だが数が異様に少ない」
「……たしかにそうだ」
 げんざい相対しているのがペルジア軍だからそうではないかということで、本物のペルジア軍であるかどうかの判断はまたこの距離では掴みきれなかった。それがいま一つ、彼らを戸惑わせたのだ。

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