前へ  次へ


                                *



 一時停戦が決まったので、その日の午後はもちろん警備を怠るようなことはしなかったが、比較的みなくつろいだ気分で過ごすことができた。相手の油断を突いて奇襲をかけるという戦法もあるが、礼儀を重んじる古い国、とくにゼーア帝国と同じくらいの歴史を持つペルジア軍、ある点では騎士道精神を重んじるリール公女が、自分から申し入れた約定を破るはずが無かった。
 メビウス軍では、各々が自分に割り当てられた哨戒をこなし、武具の手入れをし、或い者は戦友の見舞いに出たり、雪掻きをしたりと、それなりに忙しかった。それに雪掻きに関しては、これはいくらやってもやり足りないということはなかった。この日は良く晴れたので降り続くことはなかったが、時折やってくる暗い雲が置き土産のように雪を降らせていくのだった。
「アルドゥイン殿、紅玉将軍がお呼びです」
 その呼び出しがかかったのは、もう夕方になんなんとする頃だった。アルドゥインはセリュンジェたちと共にザムニに興じている最中であった。ザムニは中原で広く知られている、一から十二までの数と十二神の絵柄が色違いで二組ずつ記された計四十八枚のカードで、幾つかの遊び方があるが、その時彼らがやっていたのは、カードの絵柄や数で役を作ってその高さを競うナージェスというゲームだった。
「あ……はい」
 将軍自らに呼ばれているのに待たせるわけにも行かないので、アルドゥインはカードを置いて立ち上がった。
「何だよアルドゥイン、勝ち逃げか」
 もちろんからかい口調だったが、カレルが非難がましく言った。ちょうどその時アルドゥインは、ヤナスの絵と十二を揃えるという一番高い役を出して、勝ちが決まったところだったのだ。
「絡むなよ。別に賭けをしてるわけじゃないんだし、負け逃げするんじゃないんだから」
「違いねえ。さっさと行ったほうがいいぞ」
 セリュンジェは早く行けという手振りをした。他の三人はまた新しくゲームを始めるためにカードを集めて混ぜている。アルドゥインはちょっと手を振り返して、彼を呼びに来た伝令兵の後ろに従った。
 将軍の天幕に着くと、伝令兵が入口の布をさっと掲げて呼ばわった。
「ディウス隊所属、アルドゥイン殿をお連れ申し上げました」
「ご苦労」
 リュシアンの声がそれに応えた。伝令兵は一礼してその場を去り、リュシアンはまだ天幕の前で待っていたアルドゥインに入ってくるように命じた。
(まだ何の功績も失敗もないはずだが……)
 漠然とした不安を感じながら、アルドゥインは天幕に入った。中は一般兵の天幕とは違ってやはり広々としており、敷物や折り畳み式の調度類も彼らが使っているものより立派なものだった。
「只今参りました。して、何用でございましょうか」
「用というほどの事でもないのだがな」
 リュシアンは真ん中に置かれたストーブ前に床机を持ってきていて、そこに腰掛けていた。のんびりと言いながら、まだ入口の手前にいたアルドゥインを、もっと近くに来るように差し招いた。
「わしはそなた自身になかなか興味をひかれておる。それで話をしたいと思ったのだ。――時間は空いておるか?」
「はい。哨戒当番は既に終えましたので」
「それはよかった。このような折りではあるが、非常時でもなければなかなか若い者らと話をする時間も空けられぬものだからな」
 自分の何に興味をひかれたのだろう、と首を傾げながらアルドゥインは答えた。
「そなたら、少々下がっておれ」
 何を思ったか、リュシアンは片隅に控えていた当番の騎士を下がらせた。すでに日が落ちてしまった森の中は闇に閉ざされようとしていて、かがり火やランプがあちこちで灯されはじめている。
「アルドゥイン、ずっと立っているのが好みというわけでもあるまい。そこの椅子に座ることを許そう」
「ありがとうございます」
 実際その通りだったので、アルドゥインは指し示された椅子にありがたく座った。そうして座ってみても、やはり彼の方がずっと背が高いので、リュシアンを見下ろすような形になってしまうのに変わりはない。だがそれについてリュシアンが何かを思ったわけでもないようだった。
「まあ、そう緊張するでない。アーフェル水でも飲むか?」
「いただきます」
 リュシアンはまだ話をするでもなく、ストーブの上に置かれている錫製のポットを取り上げて、中の液体を把手と蓋付きのカップに注いでアルドゥインに差し出した。口許に持ってゆくと、アーフェルの匂いのする湯気が立ち上った。
 自分も温めたアーフェル水を啜りながら、リュシアンが尋ねた。
「そなた、この戦をどう見る?」
「とは、いかがな事で。本日の戦のことでございますか」
「ペルジアが今頃我が国を侵犯したことについてどう思うか、だ。よければそなたの考えた戦略などあれば言うてみよ」
 リュシアンの真意を量りかねて、アルドゥインは怪訝な顔をした。
「俺などに答えられる質問ではございません。それは、指揮官殿かに尋ねられたほうが宜しいのではありますまいか」
「良いのだ。わしはそなたの意見を聞いてみたい」
 せっかくもらったアーフェル水も、飲んでいるどころではないようだ。アルドゥインはずいぶんと困って、何を言うべきかと考え込んだ。
「……戦略と仰られても、それは俺には少々無理です。ペルジアの今回の侵犯については……エトルリアのラトキア併合に触発されて、領地拡大をもくろんだと考えるのがごく一般的な見解かと思いますが……」
「が、何だ」
「俺の私的な意見になってしまうのですが」
「かまわぬ。それが聞きたいのだ」
 リュシアンは促した。アルドゥインはだいぶ口ごもった末に、早く話せ、と無言の圧力をかけてくるリュシアンの視線にとうとう負けて口を開いた。
「ペルジアが、よりによってメビウスに仕掛けた理由が分かりません。もともとペルジアの領土であったことですし、ラトキアの割譲を求めてエトルリアと戦うほうが自然です。中原の目をこちらに向けておいて、他の事をこの戦に紛らわせて行おうとしているということも考えられます。それに……」
「それに?」
「俺がもしペルジアの指揮官だったら、グレインズに騎士団が到着する前、あるいは騎士団をここに引きとめて、別働隊でオルテアを目指します」
 リュシアンはびっくりして言った。
「馬鹿を言うな。イズラルではあるまいし、オルテアには琥珀騎士団も瑪瑙騎士団も常駐しておれば、二万や三万で落とせるものではないぞ」
 それは予想していた反応だったらしく、アルドゥインは頷いただけだったので、リュシアンはもっとびっくりした。
「ええ、ですから勝てるはずのないいくさということは向こうにも判っているはず。勝つつもりがないのではないかと、俺には思えるのです。何を目的にしているのかは判りませんが」
「ほう」
 そう言ったきりリュシアンがしばらく黙ってしまったので、アルドゥインはまた思い切り気まずい気分を味わった。まだ一口しか口をつけていないアーフェル水の温みが、手の中でだんだん失われていくのを感じていた。
「アルドゥイン、そなたはなかなか面白いことを考えるな」
「そのようなことは」
 アルドゥインは目を伏せておとなしく言った。
「他のこと、とは何だと思う」
「それは判りません。そんなこともあり得るという話ですので」
「まあ、よい」
 リュシアンは鷹揚だった。
「そなたは実に面白い。まこと一兵卒には惜しいほどだ。セレヌスと議論してみたら、面白いだろうな」
「……」
 人払いを命じたぐらいなのであるし、こんなことを話させるために呼びつけたのではないだろう、と思い、アルドゥインは黙ったままリュシアンの次の言葉を待った。もしかしたら彼に密命を下す、ということもありうる。
 だがリュシアンが放った言葉は意外なものだった。
「そなたは面白い男だな、アルドゥイン。腕が立つだけのただの傭兵かと思っていれば、さきのように己の意見というものを持ち、戦いを見ることもできる。それに先に我が陛下の御前に出たときの礼儀もなかなかであった」
「お褒めいただき光栄です」
 まだ、老将軍の真意は見えない。リュシアンはひざ掛けの具合を直し、背もたれに深く寄りかかって寛いだ。ストーブの炎が揺らめいて、二人の影を引き伸ばして天幕に大きく映し出した。
「……人はな、アルドゥイン。人は常に何者かであろうとするものだ。それはこのわしでも変わらぬ。しかし、何者かになるよりもその何者かでは無くなろうとすること――その方がずっと難しく、辛いことだと知るものは少ない」
 そこで一旦言葉を切り、リュシアンはアルドゥインを真っ直ぐに見た。今この瞬間、彼と剣を交えているかのような、厳しい目であった。
「そなたは、どちらなのだ?」
「と、申されますと――?」
「二度も言わせるでない。今の言葉のままだ」
 怒ったふうでもなく、彼は言った。
「わしがこの国においては紅玉将軍となり、家庭においては一人の夫、父親であろうとし、そうなったように、人は人とのつながりの中でその居場所を求める。そなたが判らぬふりをするというのであれば端的に言おう。わしの目にはな、アルドゥイン。そなたはかつて己がいた場所を捨てた人間のように見えるのだ」
 彼の言葉を受けて、アルドゥインは視線をそらして少し俯いた。そしていくぶん頼りない口調で呟いた。
「それは……流れ者の傭兵でしたから……」
「そういうことではない。たとえ諸国を流れ歩いていても、誰かの息子であること、何かの身分までは捨てぬものだ。だがそなたは、それを捨てた――捨てようとしているのではないか? おそらくそなたは昔は、何らかの名誉ある身分にいたのだろう」
「何故、そのように?」
「おぬしのその落ち着きようだよ」
 リュシアンはそっけなかった。
「陛下の前での――今もそうだが、そなたの態度、言葉づかい――その若さでこれほどしっかりとしているのは、生半可なことではない。かつてはそのような教育を受けてきたと考えるほうが自然であろう」
 アルドゥインは言葉を返すことを恐れるように、冷めてぬるくなったアーフェル水を一口飲んだ。しかしリュシアンの鋼色をした毅い目が沈黙を許さなかった。彼は伏せていた顔を上げ、老将軍の目を見返した。
「閣下、確かに俺は、自分がかつてそうであったものから逃れようとしています。それは閣下の仰るとおりです。ですがそれは俺が罪を犯したからとか、そのような後ろ暗い理由ではありません」
 彼らしくもなく、低くかすれた声で、アルドゥインはゆっくりと言った。リュシアンは優しいとさえいっていいような微笑みを浮かべた。
「そんなことは疑っておらぬ。そなたはそんな男ではないと判るからな」
 礼の代わりに、アルドゥインは軽く頭を下げた。
「閣下のお言葉を借りるのならば、俺はこの国で、新しい何かになろうと欲しています。かつての自分は、誰からも忘れられ、自分でも忘れたいのです」
「そなた、歳は幾つだ」
「来年で二十四とあいなります」
「その若さで、そのように望むか」
 哀れむような調子が、その声にはあった。アルドゥインは口許に微笑みを乗せた。彼ほどの若さではあり得ぬような、人生への絶望を体験したことがある者だけがするような、寂しげな笑みだった。
「そうか」
 リュシアンは小さく頷いた。
「そなたは……恐らくわしにも想像がつかぬような、何やら辛い経験をしたのだろうな。それを忘れたいと申すのならば、これ以上あえて聞きはすまい。時間を取らせたな。老人の戯れ言にも飽きたであろう。戻るが良い。明日も良きはたらきをすることを期待しておるぞ」
「では失礼致します」
 残っていたアーフェル水を飲み干し、カップを返してからアルドゥインは立ち上がった。入口の前で礼儀正しく一礼して、天幕を出ていった。彼との話が終わったので、当番騎士が戻ってきた。誰もが若く、そして何かになろうとしてその日その日を生きている。若者たちの輝きはかつてはリュシアンにも確かにあったもので、そしてやがて彼らも失うものに違いなかった。
(ますます不思議な男だな。アルドゥイン……)
 森の夜は静かに更けていこうとしている。

前へ  次へ
inserted by FC2 system