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     春には歌うせせらぎも今は声をひそめ
     森は真白きしじまの中に沈む
     風のみ細く叫びて寒く衣を打つ
     冬の夕べにわれはひとり
     されどかなたに見ゆる灯に
     われを待てるひとを知る
             ――ベンガリアの歌より




     第四楽章 戦の調べ




 オルテアは新年を迎える準備に追われていた。これはどの国のどんな人々でも同じことであっただろうが、通りを行き交う人々はみな何となくそわそわとして、幸せそうな表情が一様に彼らの顔に浮かんでいる。大晦日に食べる習慣のあるロイタス鳥が盛んに鳴き声を上げながら肉屋の店先で売られ、また年始の三日間は公私含めてほとんどの仕事が休みになるので日用品を買い込む人々で市場は賑わっている。
 皇帝一家も元旦は家族だけで祝うのであったが、元日の昼には皇帝への謁見が行われたのちに貴族らと新年祝賀の宴が催されるのが常であった。しかしながら今年はクライン皇帝の戴冠式に出席するため、皇女リュアミルがヴェンド公ヘルリ・ド・ラ・レステを副使節とし、多くの随行員と護衛等を引き連れてクラインはカーティスへと向かい、メビウスでの新年は迎えられない。
 といってもそれは慶事の使節であったので、送り出すイェラインにしても行くリュアミルにしても、新年を共に祝えぬことを気にしているようでもなく、多くの随員たちの表情も晴れやかだった。
 使節の出立にあたっては皇太子自らが出向くということもあり、盛大な出立式が執り行われた。出陣式ではないので五騎士団から出席したのは将軍と旗本隊ていどであったが、その関係でアルドゥインもリュシアン付の騎士として数時間、寒空の下で行列を見送ったのであった。
 それから二日。ヤナスの月も最後の四旬目に入った。騎士団の兵士たちの中では年末年始の休暇を与えられた里帰り組が家族へのみやげを買い込んできたり、荷造りをしたりと忙しそうではあったが同じくらい楽しそうであった。
「お前、明日出るなら一緒に行こう」
「エストレラに帰るなら、みやげをよろしくな」
「うわあ、派手だな。その首飾り、誰にやるんだよ」
 そんなやりとりが宿舎の至る所で交わされている。暦の上ではもうすぐ春になるが、それは南方のクライン辺りでなら通じる話で、メビウスではまだ冬真っ只中、むしろこれからが冬の本番である。厳しく長い冬の中での唯一といってもいい楽しいイベント――それが年末年始の休暇だった。そんなわけで、今回休暇をもらえなかった者たちはぼやくことしきりであった。
「アルドゥインはくにに帰らないのか?」
「ばか言うな。帰るまでに休暇が終わってるよ。ずっとオルテアだ」
 セリュンジェに尋ねられて、アルドゥインは苦笑いした。
「折角休みがもらえたってのに、何してるつもりだよ」
「そうだな。雪掻きでもするか。一日中」
 同じく休暇をもらったセリュンジェは、今日の昼に買ってきたみやげにする品物を苦心して荷物の中に詰め込もうと頑張っていた。もちろん、その間に何を誰に買ってきたのか嬉しそうに説明するのを忘れていなかった。いきなり思い出したように花の形に彫刻した紅水晶のイヤリングを出して、アルドゥインに見せびらかした。
「見てみろ、これ可愛いだろ」
「どれだよ。ああ……お前にしてはいい選択じゃないか」
 少し顔を近づけてみて、アルドゥインは適当に相槌を打った。セリュンジェはごきげんだったのであまり気にしなかったようだ。
「誰にやるんだ。恋人にか」
「嫌なことを聞くなよ。妹にだ。春に結婚するんだが、俺は結婚式には行けないから、とりあえず祝いの品を今のうちにやろうと思って」
「そりゃ残念だな」
 これは相槌ではなく、アルドゥインは言った。セリュンジェはいま気づいたように彼に尋ねた。
「お前のきょうだいは? 俺の予想だと下がいそうだが」
「ああ……妹と、弟が一人ずついるけどな。何せ十七からこっち、家に寄り付いてないから、どうなってるか知らねえ。妹は二十二だし、いいかげんどっかに嫁いだだろう。帰ってみたらもしかしたら甥か姪の一人や二人はいるかもな」
 自分のことだというのに、あまり興味無さそうにアルドゥインは呟いた。それをどう思ったのかは定かでなかったが、セリュンジェは良いことを思いついた人のようにぽんと両手を鳴らした。
「なあアルドゥイン。くににも帰らないんだし、予定がないなら、良ければ俺の家に来ないか? どうってこともねえ田舎町だけどよ、何もしないでオルテアでくさってるよりゃましだろう」
「でも何の知らせもなしに、いきなり俺みたいのが上がりこむわけにもいかないだろう。セリュンジェだってせっかく家族と過ごす機会だっていうのに」
 遠慮しているのか煮え切らないアルドゥインに、セリュンジェは苦笑した。
「誰もそんなことに文句をつけやしねえよ。うちには祖母さんと両親と、兄貴夫婦と甥っ子が一人に姪っ子が二人、それで妹だから――俺も含めたら十人もいるんだぜ。そこに一人くらい増えたって、どうってことねえから安心しな」
「すごい大家族だな」
 行く行かないとはまったく別のところでアルドゥインは感心した。しかしこの時代、一人っ子というほうがよほど珍しかったのであったが。
「で、どうするんだよ」
 また尋ねられて、アルドゥインは考え込んだ。たしかにここで親しくなった友人たちのほとんどが里帰り組だったし、軍以外での知り合いもいなかったので、新年を一緒に祝える相手はいなかった。かといってセリュンジェの故郷であるヴェルザーはメビウスでも北方で、要するに寒さに弱い彼としては申し出は嬉しかったが、あまり気が進まなかったのである。
「ヴェルザーって、寒いよな……」
 アルドゥインは腕組みして考え込んだまま、思わずといったていで呟いた。それを聞いてセリュンジェは吹き出した。
「お前、そんなこと気にしてやがったのか? 当たり前だろ。他の国はどうだか知らないけど、今の時期、メビウスで雪が降ってないところなんかねえよ」
 床を転げまわりかねない勢いで彼はげらげら笑い、あまり笑われたのでアルドゥインはむっとして黙ってしまった。アルドゥインの機嫌が悪くなってしまったことに気づいてセリュンジェはやっと笑いをひっこめて、まだひくひくする口許を何とかおさえた。
「すまねえ、すまねえ。お前は沿海州出身だもんな。寒いのがイヤで当然だな。俺が悪かったよ。だからそんなに拗ねるな」
「拗ねてなんかねえよ」
 あきらかに機嫌を損ねてアルドゥインはむっつりと答えた。その様子だけ見ていたら、いつもアインデッドを子供呼ばわりしていたわりには彼もじゅうぶん子供っぽいところがあった。
「で、どうするんだよ」
 いつまでもアルドゥインの不機嫌に付き合っていられないとばかりにセリュンジェは荷造りを再開した。アルドゥインのほうもいつまでも笑われたことにこだわるタイプではなかったので、あっさりと不機嫌を放棄した。
「悪くはないな。まあ……寒いのにだって慣れなきゃならないんだろうし」
「じゃあ行くってことで決まりだな」
 嬉しそうにセリュンジェは言った。アルドゥインはうなずいてそれに応えた。ほとんど身一つでオルテアに来たので、出かける用意といっても鞄に入れるのは着替えと身の回りのちょっとしたものぐらいである。
「お前の家に何か土産とか買っていかなきゃいけないかな」
「いや、その必要はねえ。ミランドラって村なんだけどよ、ほんっとに田舎なんだ。外国人ってだけで珍しいところだから、沿海州の話でもしてやってくれよ。甥っ子どもが喜ぶだろう」
 少し考えてから、セリュンジェは答えた。
「そうか」
 アルドゥインはちょっと安心した。まだ勤めはじめたばかりの彼の給料日は来ていなかったので。その時、ユーリースの三点鐘が響いた。
「いけねえっ」
 彼は飛び上がった。
「どうした?」
「ディオン閣下の供!」
「馬鹿、参上はネプティアの刻からじゃねえか。早く行ってこい」
 別に彼が慌てる必要は全く無かったのだが、セリュンジェもアルドゥインの慌てぶりに影響されたのか、泡を食ってアルドゥインを部屋から押し出した。リュシアンはいつでも早めの行動を心掛けているので、謁見時刻がネプティアの半刻からだったらその十分前には水晶殿に到着していなければ気が済まないのである。それが遅れたらどうなるものか、まったく予想がつかなかった。
 ともあれ健闘の結果、アルドゥインは時間どおりに馬場につき、厩舎番から彼らの馬を用意してもらって門前に待機することができた。それより少し後に、もう一人の、アルドゥインよりもずっと位の高い騎士を伴ってリュシアンが出てきた。
「用意はできておるな」
 ちらりと馬具などを確かめて、リュシアンは言った。アルドゥインは略式礼でさっと片手を挙げて応えた。返事だとか態度にもリュシアンはうるさかったが、おおむねアルドゥインの対応は評価されているようだった。
「はっ。全て整っております」
「では参るぞ」
 リュシアンが馬上の人となったことを確かめてから、アルドゥインともう一人の騎士も馬に乗り、彼の少し後ろに並んでついた。光ヶ丘の水晶殿までは馬で十五分ほどかかるが、今日は二日続いた晴天のおかげで路上の氷も溶けていたので順調で、それよりも少し早く着いた。
 水晶殿に着いて控えの間に入ると、やはりリュシアンの一行が一番乗りだった。控えの間に来るまでにアルドゥインはあの《ロザリアの君》がいるかもしれない、と辺りをこっそり見回したりしてみたのだが、やはり今日も見かけることはなかった。
「やあ、今日もディオン殿に先を越されてしまいましたね」
 少し遅れて、同じように供の騎士を二人連れた青年が入ってきた。リュシアンと同じ将軍の礼装を纏っているが、色は臙脂ではなく、やや暗めの黄色――琥珀騎士団の制服である。その礼服は彼の髪の白っぽい金色と相まってまるで誂えたように似合っていた。瞳は空色で、セリュンジェと同じ北方メビウス人と一目で判る。
「おぬしに負けるようなわしではないよ」
 孫のような年の青年に、リュシアンは笑いかけた。リュシアンが最年長なら、琥珀将軍が最年少であった。アルドゥインは彼の正確な歳を知らなかったが、どう見ても二十歳になるならずといったところである。リュシアンの後ろに控えているアルドゥインを見つけて、彼は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「君はアルドゥイン……だったかな」
「ご記憶くださいまして恐悦に存じます。琥珀将軍閣下」
 アルドゥインはごく丁寧に言い、頭を下げた。まだ将軍の供をして参内するのは二度目だったが、最初に来たときにリュシアンが嬉しがって皆に紹介したものだから、覚えられていて当然といえば当然であった。それでなくとも、この若い将軍はアルドゥインが気に入っているらしかった。
「ディオン殿、僕と彼と、どちらが高いか比べさせてもらえませんか? この前から気になって仕方がないんですよ。絶対に百九十はあると思うんですが」
 彼はわくわくした声でリュシアンに尋ねた。そう尋ねるだけあって、彼はアルドゥインから見ても高いと思うほど上背があった。メビウス人の例に漏れず骨格も大きかったので、ぱっと見では見た目よりも大きく見えるに違いなかった。
「ソレール、子供のようなことを申すな」
 ぴしゃりと言われて、琥珀将軍ソレール・デ・シュネーはちょっと肩をすくめた。そしてもう一度ちらりとアルドゥインに視線を走らせた。謁見したときに彼と比べてみたいというようなことを皇帝が言っていた事を思い出して、背比べを果たしたら、今度は力比べをさせられるのではないか、とアルドゥインはふと思った。
「ディオン殿、もし彼のほうが僕より小さかったら嫌だからそんなことをおっしゃるのではないですか?」
 ソレールは探るような目をして言ったが、老将軍は黙殺した。おそらく図星だったのだろう。自分では決して認めはしなかっただろうが、リュシアンには老人の依怙地さと言うか、子供っぽい――それは彼の愛すべきところであったが――とにかくそんな所があったのは確かだった。
「これは失敬。私が最後でしたか」
 二人が話をしている間にもう一人の将軍が入ってきた。礼服の色は少し濃いめの茶色。茶色は瑪瑙騎士団の色である。瑪瑙将軍の彼も若く、三十歳は越えていないようだった。ソレールと同じように、礼服が誂えられたかのような薄い茶色の髪と、もっと薄い琥珀色の瞳を持っていた。
 それから間もなく鐘が半刻を告げた。控えの間に侍従が入ってきて、謁見の間に入るようにと知らせた。

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