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                                *



 レウカディアの戴冠から、三日が過ぎた。祝賀の宴はまる二日続き、宴が果てたといってもほとんどの人々がパーティーに疲れ切って公務も何もかもがストップしていた。国内で大きな事件が起こることもなかったし、新年には上も下も全ての仕事を休んでしまうのが常であったから、実際のところ三日か四日ていど政治が滞ったところでほとんど支障も出なかった。
 慶賀使節らの大半は国許での新年祝賀もあるので翌日には帰国し、メビウス使節も赤の三日には帰国の途についた。そして今日、青の六日には、各州からカーティスに出仕していた、選帝侯をはじめとする州を統治する十六人の侯爵と伯爵、貴族院議員らも各々の領地へと戻りはじめる。
 そんな中、ルデュラン家ではまたもやちょっとした揉め事が生じていた。
 ローレイン伯であるワルターは州都ナーエに戻り、バーネットはもちろん精鋭軍の隊長であるからカーティスに残るのであるが、彼の妹フレデグントが父についてナーエに帰るかカーティスにとどまるかでもめていたのである。
 貴族の子女はたいてい十八歳までにはカーティスで社交界デビューを果たすのが慣例となっている。フレデグントは三年前、十五歳でデビューし、それからまたナーエに戻って父のもとで暮らしていた。そんなわけでしばらくカーティスには来ていなかったのだが、久しぶりに訪れた都会の空気にすっかり魅了されてしまったのであった。
「こちらにはお兄様もいることですし、何も心配なんかございませんわ、父上」
「私は父親で、お前は私の娘だ。親は子をその手元で養育する義務と権利があるのだ。お前の教育が完全になったというわけでもないし、バーネットだって四六時中お前の面倒を見てはいられないのだぞ」
「そんな、わたくしを赤子のように扱うのはよしてください」
 フレデグントはむっとしたように唇を尖らせた。
「だいいち、お兄様は十二歳からこちら、ほとんどカーティスでお過ごしじゃございませんか」
「たいていの貴族の男子なら十二歳から学問所で学ぶのだからしかたあるまい。それにバーネットは精鋭軍に入ったのだからローレインには戻れなかったのだ」
 ワルターはぴしゃりと言った。だがフレデグントもまだ諦めていなかった。バーネットといいフレデグントといい、一度こうと決めたら容易に志を枉げないというところはこの兄妹に共通している特徴のようであった。
「わたくしもカーティスで礼儀作法を学びたいんです」
「家庭教師をつけているだろう」
「お兄様ばっかり、ずるい」
「あれは仕事だ」
「……」
 フレデグントはまた唇をとがらせて、今度はほっぺたもふくらませた。
「馬車の用意ができました。父上、フレーデ……」
 二人が無言で向かい合っているところに、バーネットが入ってきて険悪な雰囲気に一瞬たじろいだ。ワルターの渋面とふくれっ面のフレデグントを見て彼は大体の事情をすぐに察した。
「まだごねているのか、フレーデ」
「お前からも言ってやれ」
 ワルターはため息をついた。
「ねえお兄様、わたくしお兄様と一緒にいたいもの。カーティスにずっといてもいいでしょう?」
 フレデグントも負けじとバーネットの腕を掴んで、彼の情に訴えかける作戦に出た。しかしバーネットはいくら妹に甘いとはいえこういったことには真面目であったし彼女よりは数枚上手であった。
「そんなことを言って、要するにパーティーやドレスを作るのが楽しいからだろう? そうならそうと素直に言いなさい。嘘はよくないよ」
「もう! お兄様の意地悪!」
 彼女の先程の言葉は決して嘘ばかりではなく、半分ばかりは真実であったのだが、あとの半分は看破されたとおりであったので、フレデグントはまたごきげんを斜めにしてそっぽを向いてしまった。
 この年頃の少年少女にありがちな夢想で、カーティスにいるというそれだけで、フレデグントとしては洗練されているような、そんな気がしたのだ。ナーエはエクタバースとならぶクラインの地方大都市であったが首都という魅力には抗しかねた。
 バーネットも妹のその気持ちはじゅうぶんに理解できたが、彼は妹よりも年齢的にも精神的にもずっと大人であったから、自らの感情を全く差し挟まずに物事を考えることができた。
「成人するまで待っていなさい。俺のところにいるにしても、それまで待っていても遅くはないんだから」
「その間に私のほうが結婚してしまって、こちらに来られなくなるわ」
 それ以前の問題として、彼女より先に兄が結婚するかもしれないという事実がフレデグントにはなかなか耐えがたい現実であったのだが、彼女は賢明にもそれを口に出したりはしなかった。さすがに、兄が他の女の夫になってしまうのが嫌なのだと考えるのはともかく言うのは間違っていると彼女にも判っていた。
「父上、少しよろしいですか」
 バーネットは手真似で父を呼んで、フレデグントをその場に残して部屋を出た。
「ここは一つ、フレーデの言い分を通してやってはくれませんか。俺もできるだけフレーデからは目を離さないようにしますから」
 開口一番、彼はそう言った。目の前では何と言っていようと、やはり妹には甘かった。ワルターは顔をしかめた。兄妹の仲がよいのは結構だが、変な連携をされると彼としても困ったので。
「しかし、な……」
 バーネットに関しては、カーティスに成人前の息子を一人で暮らさせてもほとんどといっていいほど心配しなかったワルターだったが、フレデグントにはまるで安心できなかった。バーネットと違ってフレデグントは社交が大好きであったし――これはある意味ワルターの血を引いたと言えなくもなかったが――何か間違いがあってはいけないと余計な心配をかけさせる娘であった。
「実際のところ、俺よりも先にフレーデが結婚することもありえますし、場合によっては他国に嫁ぐかもしれないんですよ、父上。そうしたらもう自由にカーティスに来るということはできません。ですから」
「うむ……」
 バーネットの言うとおりであったので、ワルターは悩んだ。
「若様、若様」
 向こうの廊下の端で、執事がバーネットを呼んだ。
「どうした」
「アーバイエ候アルゲーディ卿がお越しです。若様にごあいさつを、と。ただいま応接間でお待ちいただいております」
「今、行く」
 とりあえず答えておいて、バーネットはまた父に向き直った。
「俺からもお願いします、父上」
「わかった、わかった。ただし条件付きでだぞ。お前の許可なく出かけたり、遊んでいるようならすぐにナーエに帰すように。それに、ローレインの方が片付き次第こちらに来るからな」
「了解いたしました。では」
 バーネットは軽く一礼して、シェレンが待っている応接間に向かった。
「待たせたな、シェレン」
「いや。だが忙しいときに来てしまったようだな。すまない」
 外はまだ寒かったが、室内は暖炉に火を入れているので温かかった。透明なはずの窓ガラスがすりガラスのように白く曇っている。外の様子も見えない。かすかに、空の青と街の灰色が透けて見えるだけだ。
「フレーデが帰りたくないと駄々をこねていただけだ。忙しいということもない。それより、お前もアーバイエに?」
「今日の昼には出立する。それで挨拶に来た」
「そうか。またしばらく会えなくなるな」
 シェレンは頷いた。
「とはいえ十二選帝侯だし、行ったり来たりになると思うが。で、フレデグントは帰らないのか」
「俺の監視つきでということだが、父上が許可した。まあ、フレデグントがおとなしく言うとおりにするとも思えないのだがな。今のうちくらい好きなことをさせてやりたいとも思って」
 のろけのような言葉を、シェレンは苦笑まじりで聞いた。
「花婿探しと言ったところかな?」
「さあな。そういう男も出てくるだろうが……」
「お前と一騎打ちか」
 自分で言って、シェレンは大笑いした。バーネットは少なからずむっとした顔で親友を睨んだ。その視線に気づいて、シェレンはやっと笑いをおさめたが、まだ頬の端っこが引きつっていた。真面目に怒るのがまた面白いのだということにバーネットは気づいていなかった。
「そんなに怒るな。とりあえず、負けないようにな」
「誰が負けるか」
 憮然とした表情で、バーネットは答えた。今年で二十九になるというのに、彼のそういったところはまだ少年のようだった。とはいえ彼は年末の三十日が誕生日だったので、二十八になったばかりといえばそのとおりであったのだが。
「まあそんなことは置いておいて、帰る前に少し話したいことがあったんだ」
「どうせそんな所だろうとは思っていた。で、何の話だ」
「陛下のことだよ」
「ああ……」
 バーネットはちょっとたじろいだように身を引き、かすかに頷いた。バーネットと話さなければならないレウカディアのことと言えば、彼女が誰と結婚するかという事だろうとは彼にもすぐ判ることであった。
「俺の地位は変わらないみたいだからほっとしたんだが、サライ様が摂政で、カーティス公爵だろう。となるとレウカディア様はあの人と結婚なさるつもりかな」
「カーティス公爵はたいてい臣下に下った皇族に与えられる地位だし、まるっきりクライン人の血を引かない、それも平民出身の貴族がなるなんてことは史上初のことだからな。だが結婚となるとどうなるか」
「たしか、三代前まで遡ってもクライン人以外の血が混じっていないことが条件の一つだろう? 婿でも条件は同じだろう。全く、アレクサンデル陛下はどうしてレウカディア様のお相手を決めておいてくれなかったんだ」
(今となっちゃどんなわがままだって通りかねないじゃないか)
 その思いは辛うじて胸の中だけにとどまった。いくら相手が気のおけない友人であっても、言っていいことではなかった。しかしそれと似た思いはシェレンの心中にもあったようだ。
「しかしそうなると俺だとか、アストリアス殿だとかが標的になるわけでな。俺としてはあまりありがたい状況じゃない。親父が生きていたらそれこそ諸手を挙げて大賛成なんだろうが。たしかに陛下は美人だが、俺にはもう決めた姫がいることだし、その話だってまだだし……」
 シェレンはぼそぼそと呟いた。しかしバーネットはあまり気にしていなかった。
「俺はお祖母様がティフィリス人だから、血の問題では不適格なんだが」
「だからって安心はできないぞ」
 シェレンに言われて、バーネットは苦りきった。レウカディアが嫌いだとかそういうわけではなかったが、三千年も連綿と続いてきたクライン皇家の血だとか、伝統のことを考えればそれを裏切ることはすなわち彼自身の国に対する忠誠を裏切ることに他ならなかったのだ。
「考えたくもないな。そのことは」
「だが実際考えなきゃならないだろう」
 バーネットは素直に頷いた。
「だが、皇后を誰にするかというのは選帝侯会議で決めるんだろう? だったら夫でも同じだと思うが」
「選帝侯の俺が言うことじゃないが、レウカディア陛下がおとなしく決定に従われる方だと、お前思うか? 陋習を廃するとかなんとか言っちまえば、それで終わりだ」
「……」
 バーネットの顔がますます困惑の色を濃くした。喋りながら、シェレンはどちらが年上なのか判らない、とふと思った。
「陛下がお前と結婚するとか無茶なことを言いだす前に、お前が結婚してしまうことだと俺は思うよ。そんな当て馬みたいな結婚は嫌だろうが――もうすぐ三十になってしまうことだし、ちょうどフレデグントが残るならいい機会だ。サロンだとかパーティーに積極参加してだな。とりあえず噂ぐらいはたてておけ」
「それができれば苦労はしないさ」
 彼は盛大なため息をついた。そして、普段は嫌でたまらないが、どうして父親の性格が職務熱心なところしか受け継がれなかったのだろう――と恨めしく思った。べつだん浮名を流したり、恋人の数を自慢したいわけではないのだが、ほんの少しそういったところが似ていればもう少し世渡りもうまくできたろうに、と思った。
 しかしまた、そうでないところが彼の一番の魅力でもあったわけだが――。
「父上に縁談を見つけていただくよ。ローレイン伯の息子なら、申込先はいくらもあるだろう」
「それが無難だな」
 バーネットの性格上、それが一番確実かつ安全な方法であるのは疑いなかった。
「今、少し俺は自分のしたことを後悔してる。バーネットに悪いことをした」
 シェレンは呟いた。
「気にするな。あの時にはああするしかなかっただろう」
「どうしてこんなことで悩まなきゃならないんだろうな――。他に悩むべきことは幾らもあるはずなのに」
「全くだ」
 二人は同時にため息をついた。一五四四年は、昨年よりも一荒れも二荒れもしそうな予感から始まったのであった。

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