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                                *



 目を開けると、狩りの風景を描いた天井画と、燦然と輝くシャンデリアが視界に飛び込んできた。しばらくぼんやりと光の束を見つめていたが、穏やかな声がアトの意識を完全に覚醒させた。
「気がついたか」
 アトははっとして体を起こした。
「あら、やだ。私、どうしてしまったの? サライ様は?」
 控えの間の長椅子に、彼女は横たわっていた。その傍にもう一つ床机を寄せて座り、彼女を見守っていたのはフェンドリックだった。
「何も覚えていないのか?」
 びっくりして、彼は言った。
「どういうこと? 私、何かしでかしたの?」
 自分が何をしたのかについてフェンドリックから説明を受けると、アトはさっきの彼よりももっと驚いた。
「そんなこと全然覚えていないわ。サライ様が剣の誓いを行っている辺りから何だか急に目の前が暗くなってしまって、その後のことは何も判らないの」
 以前にもこういう事があったと思い、それがオルテアでの最後の夜のことだったと思い出して、アトは眉をひそめた。サライたちは一言も言いはしなかったが、もしかしたらその時にも、同じような予言を行っていたのかもしれない。
「だとしたら陛下に失礼なことをしてしまったわ。ずいぶんお気を悪くなさったのじゃないかしら。そんな不吉な予言……」
「でもそれは、神が君をその道具として使っただけのことで、君の責任じゃないだろう。それは陛下だって判ってくださるはずだよ。しかし、君の予知者の能力がそんなに大きくなっているなんて知らなかった」
「私だって知らなかったわ」
 アトは嘆息した。
「フェンドリックがずっとついていてくれたの? パーティーはどうなったの? もう終わってしまったかしら」
「今はヌファールの刻を少し過ぎたくらいかな。あの程度の騒ぎでお開きになるようなものじゃないから、安心しなよ。それよりどうする? 今はルデュラン伯爵の屋敷に滞在しているんだよな。戻るなら送っていこうか」
 少し考えてから、アトは首を横に振った。
「このままいなくなったら、ますます変な噂になってしまうかもしれないわ。せめてサライ様にはお詫びを申し上げて、帰るのはそれからにするわ」
「あまり、引きずらないほうがいい。パーティーに戻るのだったら、むしろそんなことはなかったように振る舞ったほうがいいだろう。謝ったりしてたら、もっと大げさにとらえられかねない」
 フェンドリックの言ったことをアトは少し考えてみて、それもそうだと納得した。しかし早退することだけは自分の口でサライに伝えておきたかったので、そのことをフェンドリックに告げた。
「それじゃあ、ついていくよ」
 銀河の間に戻ると、フェンドリックの言ったように人々はアトの引き起こした一瞬の騒ぎなどもう忘れ去ったようで、楽しげに笑いさざめき、歌い、踊っていた。その事に彼女はほっとした。
 人垣のなかからサライを見つけ出すのはそれほど困難ではなかった。いつでも彼の周りには人だかりができているか、或いは全く逆でさっと人がいなくなっているか、そのどちらかだったからだ。それにサライの方でも出入り口に気をつけていたらしい。アトがフェンドリックと共に入ってゆくと、彼の方から近づいてきた。
「もう大丈夫か? 突然倒れたから驚いたよ」
「はい。……戴冠早々に陛下の治世に影を落とすようなことを申してしまって、ほんとうに申し訳ありません」
 サライは今回の予言についてもアトに知らせぬままでおこうとしていたらしい。アトが自分が予言を行ったと知ったことに驚いたようで、頭を下げたアトと困惑した顔のフェンドリックとを交互に見つめた。
「気に病むことではないよ。あれは神が君の口を借りて言った言葉にすぎない。……神に《選ばれた》のは、君の責任じゃない。神の思し召しは人の思惑などはるかに見越した高みにあるのだからね」
 サライはフェンドリックと同じようなことを言った。
「ですが……」
「君はこれから陛下のために、導きとなる予言を行うために力を授けられたのかもしれない。かの有名な八代皇帝ザレウコスの皇女、予言者ラスフィアのようにね」
 優しく慰められて、アトは素直に頷いた。
「それで、もう帰るの?」
「はい。フェンドリックが送ってくれますから」
「では頼むよ、フェンドリック」
「はっ」
 フェンドリックはさっと片手を挙げて敬礼をした。右府将軍の旗本隊に所属しているのだから、本来ならばアストリアスについているべきなのだろうが、今夜は無礼講のようなものだったし、また誰も帰る気配もなかったのでフェンドリックひとりが持ち場を離れたところで問題にもならないようであった。
 新しい摂政公への祝辞を述べる人の群れというのはだいぶ前におおかた片付いていたので、近づいてくるのは彼をダンスに誘いたがる貴婦人たちと、あるいはクラインを出ていた間の流離譚などを聞こうと考えているらしい貴族たちぐらいである。レウカディアはアトの心配も無用のことであったらしく、先程の予言を引きずっている様子もなく、伶人を侍らせて音楽に耳を傾けつつ遊び相手でもあった同年代の姫君たちと楽しげに語らいあっていた。
 国内の貴族はむろんのこと、この宴には各国の祝賀使節らも招かれている。このような大典祝賀の使節に選ばれる者となれば自ずから限定されてくるので、昨年のルクリーシア皇女とパリス皇子の結婚式に出席していたのであろう、サライにも見覚えのある顔がいくつか見受けられた。
 あの時にはいなかった使節としては、クラインに港を貸していることから特に親交の厚いファロス公国からの使節、そして皇家と縁戚関係を持っているジャニュア使節くらいであった。また、正式に国交を結んではいないので、あの戦争が無かったとしても果たして来るかどうかはさだかではなかったが、今や潰え去ったラトキア公国の使節はこの場にはいなかった。
(時代もまた変われば、人も変わるものだな)
 そんなことを思いながらぼんやりと佇んでいると、人々の波の中でもはっきりと目立つ銀色の髪を持つ男がサライに向かって歩いてきた。その男が誰であるのか、サライはすぐに気づいた。メビウス使節として訪れたリュアミル皇女の他にも、数名のメビウス貴族が訪れていることは前もって知っていた。
「お久しぶりです。ヴェンド公」
 ヴェンド公は微笑んだ。
「私を覚えていてくれたとは光栄だ。サライ殿――それとも、今は摂政公とお呼びするべきか」
「何とお呼びくださっても結構です。しかし公を忘れるなどということはございませんよ。あの時の公のご忠告は生涯忘れぬことでしょう」
 サライの言葉を皮肉と取ったのか、それともただの回想と受け取ったのか、それはヘルリの表情からは読み取れなかった。
「貴殿にはまたさまざまな事があったようだな」
 ほんの僅かに肩をすくめて、サライは言った。
「まことにもって、運命とは奇なものと実感しております」
「さもあろうな」
 ヘルリは頷いた。近くを通りかかった給仕の捧げ持つ銀の盆から、二人はそれぞれカディス酒のグラスを取った。
「私も大層な事を貴殿に申してしまったが――。あの後の貴殿の境遇を知ったときには、私の言葉がその通りにしてしまったかとも思ったものだよ」
「まさか」
 サライはかすかに声を立てて笑った。表面上はいかにも打ち解けたような表情を浮かべつつも、心の裡を明かしてはいない。サライはそのおもてに、よくよく注意深いものや、疑いの目を向けるものでなければ気づかないほどの緊張を隠していた。
「或いはそのようなこともあるのではないか、とな。それは今でも変わらぬよ。いつでも気をつけておられたほうがいい。貴殿はその望むと望まざるとにかかわらず、どこにいても何をしていても目立つ方だ。運命が貴殿を放っておかぬとでも申すべきかな」
「それは、よく承知しています」
 自分はひっそりと身を隠す、ということができない人間であるというのは、放浪していた数ヶ月の間にサライの身に沁みた教訓であった。
「レウカディア陛下はお若い。それにまた野心に燃えておられる。貴殿が良き補佐であるかぎりは問題なかろうが、さっきも申したようにあまり目立たれぬことだ。説教が好きだと思われてしまっては詮無い事だが――」
 ヘルリはちょっと寂しそうに笑った。
「私は貴殿が好きなのだよ」
「ありがとうございます」
 その言葉がヘルリの他意のない言葉であると判ったので、サライは微笑みを返した。
「貴殿が無事にクラインに戻られ、こうして摂政という栄誉ある役職に任ぜられたことはまことにめでたいことだ。それはそうと、貴殿に一つ相談がある」
 何の相談か――とサライはいぶかった。
「実はな、サライ殿。サライ殿が肯じてくれるのならば、貴殿をわがレステ家の婿として迎えたいと思っているのだ」
「何を仰られます、ヘルリ殿」
 サライはびっくりしたのを隠そうとするのも忘れた。しかしヘルリは真剣な表情におもてを引き締めた。
「だてやおろそかで申しているのではない。オルテアにて初めて相まみえた時より、ずっと考えていたのだ。貴殿ほどの器、ヴェンド公ていどにはいかにも惜しいが、しかし貴殿のような男に我が娘を委ね、我が息子と呼ぶことを許されるならば、これほど喜ばしいこともあるまい、とな。それに――これは打算などで申しているのではないが――貴殿は今やカーティス公、我が婿、娘の夫としてふさわしいことはあれど釣り合わぬということはない。どうだ、サライ殿。この縁組、受けてはもらえぬだろうか」
「そうは仰られましても……」
 驚き、また何をどう言っていいものやらはかりかねて、サライは答えられなくなってしまった。二度しか会ったことのないヘルリに、自分のどこがそんなに気に入られたのか、それすらも彼には判らなかった。
(私が、ヴェンド公の息女と……?)
 彼が当惑しているのを見て取って、ヘルリは自嘲するように笑った。
「今すぐにお返事いただこうというのではない。ともあれ考えておいていただきたい、ということだ。だがもしも貴殿に思う女性などいるのであれば遠慮は要らぬ。この場ではっきり断ってくれ」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
 サライはまだ彼の言葉の真意をはかりかね、裏を探ろうとするかのように、怪訝そうな表情を浮かべていた。
「なにゆえ、私を? メビウスには平民出身の私のような者よりも、ずっとご息女にふさわしい貴公子がおられるでしょうに」
 彼の問いにヘルリはちょっと眉を上げて困ったようなうすい笑みを浮かべた。
「さっきも申し上げたとおりだ。貴殿ほどの器量を持った男になら、娘の一生をあずけても安心に足るだろうと、そういうことだよ」
(ではリナイスとお呼びすることを許していただけますか?)
 唐突に、ひるがえる銀髪が脳裏にあざやかに蘇った。思わずサライはうつむきかけていた顔を上げてヘルリを見上げた。
「いかがなされた、サライ殿」
「いえ……」
(ばかな事を……。名も知らぬ女性を理由に、断れるような話ではない)
 サライの沈黙をどう取ったのか、ヘルリは苦笑した。
「なに――親の私が言うことではないが、娘は――ファイラと申すのだが、貴殿と並んでもそう見劣りはしない程度の容姿は持っている、と思うよ。たしかに絶世の美女ということはできないだろうが」
「そのようなことは」
 サライは呟いた。グラスを握ったままの手に思わず力がこもった。ヴェンド公はメビウスでも一、二を争う大貴族である。またサライが新たに与えられたカーティス公の爵位は、考えられる限りクライン貴族にとって最高の位である。政治的に見ても、これほどお互いにとって有力な縁組は王族相手のそれを除くほかは考えられない。
 しかしヘルリがそのような計算ずくでおのれの娘を彼とめあわせようと申し出ているのではない、ということはサライにもわかった。ヘルリは、たしかに彼を見込み、信頼しているのだ。それを裏切ることはできない。彼が悩んだ時間は実際にはごく僅かで、結論を出したのは自分でも驚くほどに早かった。
(彼女は、オルテアの幻だったのだ――)
「ではヴェンド公ヘルリ・ド・ラ・レステ殿。その話、いずれ我が陛下に申し上げ、お許しを願うことといたしましょう」

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