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     赤鷹の年エレミルの月、この月、天に大いな
     る異変があった。南東の空より巨大なる惑い
     星が現れ、鷹の星座に入り、《鷹の目》を通
     り過ぎて消え去った。これは鷹の星座により
     吉とも凶ともなりうるきわめて難しい星回り
     であると星見たちは予言したのであった。
                 ――クライン編年譜より




     第三楽章 皇帝協奏曲




 最後の試練――《アルカンドの試練》は、第一の試練を行ったのと同じヤナスの塔で行われる。《祭壇の試練》は最上階で行われたが、これはヤナスの塔の地下で行われた。
 ヤナスの塔の地下には代々の皇帝たちの胸像が、その内に彼らの心臓を納めて、これから試練へと向かう新帝を見守っている。そのさらなる奥部には、誰一人としてその全容を知らぬ、巨大な地下迷宮が広がっている。その中にクラインの建国の父、聖大帝アルカンドの亡骸がいまだ目を閉じることなく安置されていて、その魂は今もおのれがつくりあげたクラインを見守るべく塔の地下にとどまっているのだと伝えられている。
 帝位請求者は恐るべき暗黒の中にただひとり降りてゆき、誰もその所在を知らぬ太祖アルカンドの亡骸と対面しなければならない。祭壇の試練を乗り越え、十二神全てに誓約を果たし、戴冠までを済ませたとしても、この試練を避けることはできない。
 もしもアルカンドが新帝としてふさわしからずとみなしたのならば、その者は永遠にヤナスの塔の地下から抜け出すことはできず、道を見失って迷宮を彷徨う幽鬼と成り果てるか、狂い死にして屍をさらすことになり、魂は永遠の闇の中をさまよわなければならないのであった。
 しかし無事に対面を果たすことができれば、アルカンド聖大帝は各々の皇帝にその治世についての言葉を与え、正しい帰路を指し示す。数時間か、時によっては二、三日も続くこの試練から無事に帰ることこそが、新帝が神とアルカンドによって認められた正統の皇帝である証なのである。
 ファイファから戻った後には戴冠を祝うパレードと引き続いての宴が催されるが、レウカディアは最後の試練を受けるために宴を出て行かなければならなかった。最後の沐浴を済ませ、夜のヤナスの刻を告げる鐘と同時に地下迷宮の扉をくぐった。再び彼女が人々の前に姿を現した時、その時彼女は真のクライン皇帝となるのだ。
 それまでの間、人々は幾夜も果てぬ宴を続ける。各国から祝いの使節が訪れ、試練に向かう前のレウカディアに謁見し、祝辞を述べていった。むろん、彼女が戻ればこの宴よりもさらに大掛かりな祝宴が催される。
 会場に選ばれたのは七星の間よりもさらに巨大な銀河の間である。その名のごとく、濃青のビロードのカーテンには夜空を模してきらきらと光るビーズが銀糸で縫い付けられ、床は黒と白の花崗岩で天球図を象嵌してあるという見事なものである。シャンデリアは真鍮でできており、そのそれぞれの腕にはそれが見えることもあまりないが見事な陰刻がなされていた。
 壁もまたいたるところ精緻かつ華麗な壁面装飾に彩られ、それだけでも見るものを楽しませた。天井には天球図と、星座やそれにまつわる神話が描かれている。天井の中心にあたる部分にはクラインの紋章である、すでにお馴染みの《アルカンドの竜》が彩色レリーフになっており、その目と星の部分には薄青いクリスタルガラスがはめ込まれて、蝋燭の明かりを受けて煌めいている。
 すでに深更を過ぎ、夜のネプティアの刻の三点鐘ともなったが、銀河の間では人々がダンスに興じ、食事を楽しんでいる。疲れてしまっても、仮眠を取ってまた戻るので、人数は一向に減ることは無かった。
 皇帝が出座する壇の前に控えている儀杖兵と精鋭軍の面々も、交代でパーティーの群れに混じっている。踊り、笑いさざめく人々の合間を、忙しそうに駆け回るのは料理や飲み物を捧げ持った給仕や換えのろうそくを用心しいしい運んでいく女官たちばかりである。宴は果てるようすもなく続いている。
「ああ、こんな所にいらっしゃったんですか」
 バーネットは鎧兜のものものしい軍装から、第一礼装に装いを改めていた。どちらも白と銀を基調としたもので、精鋭軍隊長の礼装は左肩から斜めにナカーリアの聖句を縫い付けた赤の肩章を掛け、純白のマントをなびかせた麗々しいものであった。ほんの一年と数ヶ月前まで自分も着ていたその礼装に、サライはちょっと目を細めた。
「こんな遅くまで立ち続けで、体は大丈夫か?」
「はい。もうほとんど治っていますから。それに、陛下が戻っていらっしゃるまで、休むわけには参りません」
 バーネットは笑顔を見せた。しかし彼は平気そうな顔をして無理や無茶をすることにかけてはサライと似た者同士だったので、サライとしてもあまりそれを信用したようではなかった。
「いきなり倒れたりしないようにね」
「心配要りませんよ」
 サライはいかにも心配そうに眉を寄せた。
「レウカディア陛下から、内示など受けておられますか」
「何かの官職を考えてくださっているようだけれども、内容まではまだ」
「武官ではないのですか」
「そうみたいだ」
 彼の今のところ唯一の従者であるアトは、サライから少し離れたところに立っていた。身に付けた薄い黄色のドレスは、フレデグントが貸したものである。卵色の下スカートは絹のキルティングで花の模様が刺繍されていて、胸元には可愛らしいリボン飾りがついている。借り物ではあったがフレデグントとアトは年が近かったし、体格もアトのほうが少し背が高かったくらいで、充分に似合っていた。
 アトは美少女であったし宝石は磨けば光るというのが道理で、そうして着飾っているとアトもひとかどの貴婦人であった。
「一曲踊っていただけませんか、サビナ」
 ふいに後ろから声を掛けられた。アトが振り返ると、そこにいたのは将軍旗本隊の礼装に身を固めた二十三、四ばかりのクライン人青年であった。アトは懐かしさにあふれた笑みを向けた。
「まあ、こんばんは、フェンドリック。誘ってくれて嬉しいけど、踊りを知らないの」
「だったらこれを機会に覚えてくれないかな」
「おや、懐かしいね」
 サライも彼に気づいた。フェンドリックは現在もそうであったが右府将軍旗本隊の副隊長で、サライに仕えていた一時期もあったのである。サライに向かって、フェンドリックは略式の礼をした。
「ご帰還おめでとうございます、サライ様。お戻りになられて何よりです。役職がお決まりになったら、またサライ様に仕えさせていただけますか? アストリアス閣下にはもう許可をいただいています」
「ありがとう。それにしても気が早いね、君は」
 呆れたように言うサライに、フェンドリックは照れ笑いをした。浮かれ騒ぐ人々の声と楽だけが満ちていた銀河の間にいつのまにか、さざ波のようにそれとは別のざわめきが広がっていった。
「どうしたんだ――?」
 つぶやいたのはサライだった。バーネットがちょっと踵を浮かせて前のほうを見やり、慌てて言った。
「レウカディア陛下がお戻りになられたようです。失礼致します」
 人垣の間を縫うように、マントの裾すら一度もぶつけることなく、見事に避けながらバーネットはマントを翻して去っていった。その場に残されたサライはひとり言めいたつぶやきを漏らした。
「まだディアナの刻にもならないのに、早いな……。アレクサンデル前陛下ですら四テルはかかったと聞くけれど。レウカディア様がこれまでになく聖帝にふさわしいというので、アルカンド自らが迎えに出たのかな。それとも、降りてゆかずに入口で戻ってきたなんてことはないかな」
「無事に戻られたということこそ、試練を乗り越えた証なのではありませんか。そんなことを仰っていると、二度目の追放になりますよ」
 それを聞きとがめて、アトがちょっと睨んだ。サライは軽く肩をすくめた。
「クライン聖帝、レウカディア陛下のお成り――!」
 人々は踊りやめ、食べたり飲んだりするのも一旦やめて、上座の方に目を向けた。壇上の、クラインの紋章を織り込んだ幕がさっと掲げられる。盛大なラッパの音とともに、紫と金の皇帝の色に身を包んだレウカディアが人々の前に姿を現した。聖帝のマントと王笏、王冠を身につけ、太陽の光を織り上げたかのような見事なきらめく黄金のドレスを纏っている。一斉にあがる歓声と拍手を、彼女は軽く手を挙げて静まらせた。
「クライン聖帝、レウカディアである。今宵は我が戴冠と即位の儀式に諸兄らの列席をいただき、誠に光栄である」
 レウカディアはぐるりと広間を見回した。その声は決して大きくはなかったが、しかし隅々まで響きわたった。確かに、彼女は今までの彼女とは何かが違った。美しさに露ほどの変化もなかったけれども、その魂は急に十も二十も齢を重ねたかのような、紫の翳りに包まれているかのように、人々の目には映じたのである。
「今宵は我が身にとっても記念すべき日である。皆々方も我が身を祝して心ゆくまで歓を尽くされよ。――が、その前に一つ、我がクライン皇帝として最初のまつりごとを行うことを許していただきたい」
 伶人たちの楽の音も、しばしその調べを止めた。
「そのまつりごととは他でもない。摂政の任命である」
 わずか二十歳に過ぎぬ皇帝が一人で何もかもの決裁を行うことは難しいと皆も判っていたので、この決定に驚く者はいなかった。そうして、さっそく誰が摂政に任命されるかでひそひそと話を始めた。
(では、ムラート内大臣が昇格なさるのかな。それとも誰か他の方か)
(十二選帝侯の誰かではないのかな)
(いやいや、もっと意表をついた方かも知れぬ)
 少し間を置いて、レウカディアは続けた。
「私はまだ二十歳の若輩、至らぬことも多いゆえ、元右府将軍サライ・カリフを摂政に任ずる。卿もいまだ二十一なれど文武に優れたるところは皆も知るところであるからには、最もこの任に相応しいものと思う。また摂政に任命するにあたり、卿をカーティス公爵に封ずる」
 ざわざわと――人々がどよめいた。結論は賛成であれ反対であれ、意外な人事であるところには変わりがなかった。また、摂政はともかくもカーティス公の爵位は皇族出身のものにしか与えられてこなかったものであり、生まれつきの貴族ですらない者が任ぜられることなど、クライン史上初のことに違いなかった。
 彼が何を思っていたのかはその瞳からは読み取ることができなかったが、サライは人々の間をすり抜けて、壇の前まで進み出てきていた。レウカディアはあでやかな、それでいてどこか暗く重たい微笑みを浮かべた。
「我が皇帝としての最初の頼み、受けてくれような?」
 レウカディアの前に、サライは跪いた。
「数ならぬわたくしをお引き立ていただき、あまりに恐れ多ければ、本来ならば固辞すべきところではありますが、唯一の君をいだく臣の身であれば、君命を断るは万死に値する罪であると心得ます」
 サライはうやうやしく言った。
「非力ながらこのサライ・カリフ、君命に従い摂政の大任を承ります」
「我が摂政公にそのあかしを」
 レウカディアが命じると、侍従たちがうやうやしく捧げ持ってきたものが二つあった。一つは雪のように純白の、縁に毛皮をあしらい、すその方に向かって広がる花草紋の刺繍を金糸でほどこした見事なマント。もう一つは黄金の飾り剣である。
 跪いたままのサライの肩に侍従たちがそのマントを着せ、剣を差し出した。サライは剣を受け取ると、おごそかに鞘から抜いた。およそ実用に使えるものではなかったが、刀身は磨いた水晶でできており、所々に宝石を嵌めこんだ黄金の透かし細工で覆われている、実にきらびやかなものであった。
 その剣を、サライは切っ先を自らに向け、柄をレウカディアに差し出した。
(ああ……サライ様、とてもきれいだわ。白と金のマントがあんなにも輝いて……)
 広間に居並ぶ全ての人々の中で、誰よりも熱い眼差しをサライの後ろ姿に向けていたのは恐らくアトだったことだろう。その目に熱いものがみるみるうちに溢れてくる――と思われた時であった。
(あ――?)
 アトは自分の目を疑った。
(あれは、何?)
 レウカディアに向かって剣を差し延べて誓いを行っているサライ。その長々とひいたマントの裾。金と白で彩られているはずのそれが、アトの目には全く違って映っていた。アトはふらりとよろめきかけた。その体を、フェンドリックが支えた。
「どうしたんだ、アト」
(あのマント――)
 自分がその心のうちを呟きにしてしまっていることにアトは気づいていなかった。
「マントが、どうした?」
 レウカディアが剣にくちづけ、向きを変えてサライに再び差し出す。剣を受け取り、サライは立ち上がる。その、ふわりと広がるマント――。
 それは、血の色をしていた。
「血よ! 血が!」
 その言葉はまだそれほど大きくはなかったけれども、アトの周りの人々がびくりとして振り返った。フェンドリックに抱きかかえられ、彼女は憑かれた、この世のものならぬ瞳で彼を、そして彼女にだけ示される何かを見ていた。
 ほとんどの人はまだ、少女の異変には気づかずに喝采し、歓声を上げている。
「どうして?」
 非常な驚きか、恐れに震える人のようにアトは叫んだ。彼女が自分の意思で喋っているのではないのだということが、フェンドリックにも薄々判りかけてきた。まるで唇が言葉に操られているかのようであった。
「どうして? どうして!」
「おい、アト! いったいぜんたい何が……」
 レウカディアにうながされ、サライが壇上に上がろうとしている。アトの叫びは広間を静まらせるほどでもなかったけれども、その言葉はくっきりと、壇上のレウカディアとサライにも聞き取れた。
 悲鳴じみたアトの声が響いた。
「どうして――どうしてこの声が聞こえないの? 私には聞こえるわ。これは人々の嘆きの声よ。見て、あのマントを。赤い、赤いわ。あのひと……血の色の服を着ている。血の川がもうすぐここまで押し寄せてくる。何もかもが血に染まってしまう。誰か、早くあのひとを連れ戻して! 大いなる悲しみがクラインを襲う前に!」
 それきり――
 全ての力を奪われたかのように、アトの体はぐったりとフェンドリックの腕に崩れ落ちた。
 銀河の間は騒然となった。
 フェンドリックと駆けつけてきた女官たちの手でアトが運び去られていっても、そのざわめきはいつまでも静まることはなかった。アトが予言の力を持っていたことなど全く人人は知らぬことであったし、その内容からしてもしばらくの間、話のたねに困ることはないだろうと思われた。
 この騒ぎに、せっかくの新帝も、新摂政もやや影が薄くなってしまったようであった。その中でレウカディアは蒼白な顔になりながら、それでも表情ばかりは変えることなく、再び静まるように手真似で命じた。
「では――宴の果てるまで存分に楽しまれよ」
 レウカディアの声は銀河の間を陰鬱に流れていったのであった。

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