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                                *



 翌日、サライとアトの二人とアインデッドは《柳の花輪》亭を後にした。それから約束したユーリースの刻までは別行動だったので、彼らはめいめい用事のある所へ出かけていった。
 サライとアトはこれからの旅に備えて、だいぶ擦り切れてきてしまった靴を買い換えるつもりでいた。それにずっと使っている布鞄も傷んできていたので、この際新しいものを買うつもりでいた。
「サライ様――サライ・カリフ様ですね」
「え」
 突然男の声で名を呼ばれて、サライははっとして振り返った。そこに立っていたのは、魔道師の黒マントに身を包んだ男だった。サライが足を止めたのでアトも気づいて、ふいに現れたこの魔道師を不審そうに見た。往来の真ん中で立ち止まるほど邪魔なこともなかったので、サライは一言も話さぬまま人通りのない脇道のほうへと寄った。魔道師もすべるような動きでそれについてきた。
「わたくしはクラインの魔道師の塔所属の中級魔道師、ノカールでございます」
 魔道師はまず最初に名乗った。
「それが追放の身の私に何の用で?」
 サライが尋ねると、ノカールは小さく一礼した。
「サライ様への追放は一ヶ月以上も前に恩赦により取り消されております。レウカディア陛下によって」
「レウカディア……陛下?」
 耳慣れぬ響きに、サライは眉を寄せた。アトも合点がゆかぬようすで隣のサライを見上げた。街道を旅しているあいだ、ほとんどクラインに関する情報は聞けなかったし、ずっと前に起こった出来事ならオルテアに着いてもすでに話されているはずがない。ノカールはそれと悟って説明してくれた。
「かかるナカーリアの月に、議会の退位勧告に従ってアレクサンデル四世陛下が退位なさり、帝位をレウカディア皇女に譲られました。正式なご即位は来年ユーリースの月となりますが、仮即位の儀のさい、恩赦をお与えになりました」
「そんなことが……」
 辛うじてサライはそれだけを言った。かつてセルシャで、レウカディアが彼のために働きかけをしてくれていると知ったときの感動を彼は思い出した。それがジャニュアにまで及んでいると知った時は少々行き過ぎを感じもしたのだが――。
「レウカディア陛下はサライ様にお戻りいただき、再び宮廷に迎え入れたいとのご意向をお示しになられ、こうしてわたくしどもがサライ様をお探し申し上げていた次第にございます」
 ノカールが続けた言葉に、サライは戸惑った。つい昨日に、アインデッドと共に行き、彼が王となるための手助けをするのだと決めたばかりだったところにもたらされたこの報せはあまりに唐突であった。
「だが、私には連れがいることだし、彼の意思も聞かないと。急には決められない」
「それはティフィリスとアスキアの傭兵でございますか」
 当然の前提知識と言わんばかりにノカールが言ったので、サライはますます驚いた。そこまで調べられているということは、彼が今までどこで何をしていたかまでレウカディアは把握しているのか、と思ったのである。
「陛下のおっしゃいますには、もし彼らと別れがたいのであれば、いかにも異例な処置ではあるが彼らをクライン軍に召し抱えるつもりがある、とのことにございますが」
 全ては、サライがクラインに戻るということが前提の話だった。
「サライ様……どうなさるんですか?」
 アトの声で、サライの思いは現実に返った。
(アインと約束したというのに……けれどもレウカディア様の命令を断るなんてことはできない……。私は、騎士だから……)
 ノカールが怪訝な顔をしたほど悲痛な面持ちを浮かべてサライは目を伏せた。
(選ばれたものも選ばれざるものもそれぞれに運命を違えるというのなら、これがそのことか。そして、いずれ私に還るのか……)
「判った。けれども友人に別れを告げる時間が欲しい。ユーリースの刻まで、待ってくれないか」
 やがて顔を上げたサライはそう告げた。


 双ヶ丘の頂上にサライが姿を見せたのは、オルテアの街からユーリースの刻を告げる鐘が鳴り終わって五テルジンほども過ぎたころだった。アインデッドはヴァルストから乗ってきた栗毛の馬に荷物を載せ、冬も葉を落とさぬ杉にもたれかかって佇んでいた。
「どうしたんだ。お前にしては遅かったな。――アトは?」
 サライがアトを連れていないことに少し疑問と不安を感じながら、アインデッドは明るく尋ねた。苦悶するように眉を寄せ、伏目がちになりながら、サライは彼を傷つけるだろうその言葉を告げた。
「アイン――クラインに戻らなければならなくなった」
「え……?」
 アインデッドの笑みが、そのまま凍りついた。しだいにそれは、風に吹き散らされたように消えていってしまった。
「クラインに戻るって、お前……」
「使者が来たんだ。……アレクサンデル陛下が退位して、レウカディア殿下が即位なさって、私に恩赦を与えてくださった。そして、戻ってくるようにと」
「……」
 アインデッドはなおも呆然としたように、サライを見つめていた。サライはアインデッドの目をまともに見られなくて、俯いてしまった。自分が彼にとって、どんなに残酷なことを言っているのか、それは彼にも充分判っていたので。
「すまない。決して、君をないがしろにしたいと言っているわけじゃない。レウカディア様が私を呼び戻すというのでなければもちろん君と一緒に行きたい。でも姫自身が私を必要として下さっているのを無下にする事はできないんだ」
「……」
「陛下は――君と別れたくないのなら君が仕官すればいいと、そう仰っているそうだ。だけど君はそんなことには応じられないだろう……けれども私は一度クラインに剣を捧げた以上……」
「もう――いい」
 アインデッドはぽつりと呟くように言った。その響きは小さかったけれども、サライが言葉を途切れさせるには充分だった。サライは顔を上げて、友人の顔を見つめた。その顔はどこか頼りなげで、いつもよりももっと幼く見えた。
「もういい。判ったよ」
「アインデッド……」
 双ヶ丘に、風が吹き渡る。
 服の隙間から入り込んでくる、冷たい風だった。
 アインデッドは微笑んだ。いつも自信に満ち、闊達な彼からは想像もできぬ、初めて見る悲哀に似た表情だった。
「俺と、一度捨てた誓いと、どちらを取るかって問題で、お前は誓いを取った。それだけのことだろ。俺は傭兵だけど、お前は騎士だもんな。騎士にとって一番大切なのは、剣の誓いなんだろ? 俺にだってそれくらいは判る。騎士は大変だな」
「すまない。本当に、謝って済むことじゃないと判ってる……」
 何を言ったらいいのか判らなくなって、サライは繰り返した。
「謝るんじゃねえ」
 厳しい声で、アインデッドはそれを遮った。宝石の色を持つ瞳が、緑色の炎となって彼を貫くように見えた。
「これ以上俺を惨めな気分にさせるな。何で判らねえんだ? お前がこの俺を捨てた、それだけで俺には充分なんだ。要するにお前はこの俺を一旦選んでおきながら、結局は地位や名誉の方が大事だったんじゃねえか! それに、くだらねえ理屈をつけるなよ。素直に言えよ、そうだって!」
 厳しい言葉を投げつけていながら、アインデッドの顔は蒼白だった。二十二年の決して長いとは言えぬ生涯の中で、初めて心から信頼し、頼り、またその相手が自分を選んでくれたと思った――それに裏切られたと感じた、そして実際に裏切られた痛みが、言葉よりもその眼差しで深くサライの心をえぐった。
 サライは何も言い返せず、またアインデッドは、怒鳴ってしまってから急にまた黙り込んでしまったために、二人の間には風だけが唸りを上げて通り過ぎていくのみだった。また雪が降るだろうことを予感させて、暗い灰色の雲がこの強風に流されて空を覆いつくそうとしている。
「忘れるな」
 低く、アインデッドは呟いた。サライははっとして俯いていた顔を上げた。
「たとえ王になったとしても俺はこの日の事を忘れはせんだろうよ。お前がこのティフィリスのアインデッドの友情を、信頼を裏切ったんだって事を。俺がクラインを滅ぼすその日に、その代償の高さを知るんだな」
 言うなり、アインデッドは馬に飛び乗った。
「――アイン!」
「行けッ」
 サライが声をかける間も与えず、彼を乗せた馬はたちまち丘を駆け下りていった。サライはとっさに走ったが、人間が馬に追いつくはずもなく、みるみるうちにその姿は木立と雪煙に紛れて消えてしまった。
 雪に足を取られ、サライは膝をついた。そのまま彼は雪の中にくず折れた。やっと得た何か大切なものが指からすり抜けて落ち、壊れてしまったような、そんな気持ちが哀しみとともに迫ってきた。
「サライ様……お別れはよろしいでしょうか」
 やがてノカールが影のように現れた時、オルテアには雪が降り出していた。サライはそこにただ立ち尽くしていたが、ノカールの声に振り向いた。
「ああ……行こう」
 悲しげに、睫毛が影を落とす彼の瞳が、金色に光っていたようにノカールには見えたが、しかしそれは一瞬のことだった。


 雪の降りしきるレント街道を、青年がただ一人、馬に身を委ね進んでいく。その血を思わせるように赤い髪にも、同じ赤い睫毛にも雪が吹き付けているのにも全く頓着せず、彼は魂を置き忘れていった人のように静かに馬を進めていた。だがその緑の瞳だけは何か激しい感情に燃えているようにぎらぎらと輝いている。
 彼が進んでいくのは今は使う者とてほとんどない寂れた旧街道であり、彼の他には誰一人として通る者はいない。
 そこに。
 辺り一面の雪景色の中にぽつんと、不吉な黒いしみのように佇んでいる男がいた。
 アインデッドはそれに気づいていたが、存在など気にもとめずに通り過ぎようとした。だが相手は違い、彼を待っていたかのようだった。アインデッドの馬を追いかけて、下から声をかけた。
「待ってくれ」
「……何だ、お前。乗せてくれなんて頼みはきかねえぞ。俺は今、猛烈に機嫌が悪いんだからよ」
 少し気の弱い娘だとか、子供なら泣き出しかねないような物騒な眼差しが、ぎらりと男を射抜いた。しかし彼はひるまなかった。
「俺はあんたを待っていたんだ」
「お前みたいな知り合いは俺にはいねえぞ」
 恐ろしく不機嫌ではあったが、アインデッドはまともに受け答えをした。何となく男の言った言葉に気を取られて、彼は馬を止めた。男は小柄で、鴉みたいに真っ黒なマントを着こんで、髪も黒かったので、まるで不吉な疫病の神ウーリーのようだった。
 アインデッドを少なからずぎょっとさせたのは、その男の顔の左半分を覆う鋭い獣の爪か何かで引き裂かれたかのような傷痕だった。その傷を負わされた時に失ったらしく、目のあるべきはずの瞼は、そこに何もないことを示して落ち窪んでいた。おまけにその部分は、ひどい火傷を負ったらしく、赤茶けたケロイド状になっていて、顔の青白さと不気味な対照をなしていた。
 顔の傷よりも、一番彼の病んだ雰囲気を作り上げていたのは、その右だけに残った目だった。どこにでもある灰色の瞳であったが、熱病に浮かされているのか、それとも何かを思い詰めているかのような、病的な執着を宿した目である。その雰囲気に、アインデッドは一瞬呑まれかけた。
「あんたが知っているかどうかは関係ない。俺はただ、あんたに――あんたのような男に仕えるためにここで待っていたんだ。若く、美しく、そして大きな野望に燃えている、そんな男だ」
「何だ、お前……」
 気味悪そうなアインデッドの様子など目に入っておらぬかのように、男は口角に唾の泡を飛ばしながら熱っぽく語った。気違いになどかまっておられぬ、と再び馬を出そうとしたアインデッドはしかし、男の言った一言にびくりと動きを止めた。
「あんたを王にするために、俺は待っていたんだ。俺にはその力がある」
「本当に、できるのか?」
 初めてアインデッドは興味を引かれたように男の顔を真っ直ぐに見た。
「たとえば――クラインを滅ぼせるだけの国の王に」
「できるとも」
 男は即座に頷いた。
「俺のすべての知力、策略を注ぎ込んで――お前を王にしてやる。報酬はただ、その戴冠の時、冠を授けるのはこの俺であるという、そのことだけで構わない。どうだ――俺を傍に置いてみないか」
 アインデッドは挑むような目をして男を見た。そこには僅かに、この成り行きを面白がるような色があった。
「やってみろよ」
 しばらくの沈黙の後、彼はおもむろに口を開いた。後にその言葉をどれほど後悔することになるかも知らず、彼は言った。
「安い報酬じゃねえか。お前がどこまでできるものか――試してみるがいいさ。……俺はティフィリスのアインデッド。アインデッド・イミルだ」
「俺はモリダニアのルカディウス」
 男はにいっと笑った。そうすると、傷痕が引きつれて奇妙な表情になった。
 サライ、アインデッド、アルドゥイン――運命によって出会った三人は、またそれぞれの運命を自らの手に選び取り、それぞれの道を歩み始めたのであった。

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