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                                *



 おかみにも一応の挨拶をし、アルドゥインは《柳の花輪》亭を出た。宿代は気前のいいことにアインデッドがお祝いだと言って立て替えてくれたので、彼はありがたく受け取っておいた。遅い昼食は屋台の簡単な食べ物で済ませてしまって、紅玉騎士団の宿舎に戻ると、門の傍でセリュンジェが待っていた。
「友達に挨拶はしてきたかい」
「してきたよ。ところで、今夜か明日の予定はどうなってるか知らないか?」
 部屋まで案内するという彼の後ろについて、宿舎の廊下を歩きながら尋ねた。宿舎とはいえやはり石造りの堅牢な建物で、床は軍靴で歩いても耐えられるように、やはり石で葺かれていた。
「練兵がヌファールの刻から一テル半。夕飯はリナイスの刻から。後は自由」
「そっか。じゃ夜出かけてもいいか」
「何しに行くんだ? 良ければ教えろよ。あ、行き過ぎちまう」
 セリュンジェは突然足を止めた。案内された部屋には木組みのベッドと戸棚、椅子とテーブルが置かれていた。最も格式高い騎士団の宿舎だけあって、それらの調度品は簡素ではあったがしっかりしたものだった。男一人が住むには少々手狭かと思われるくらいの広さである。
 アルドゥインは荷物をとりあえずベッドの上に置いて、部屋を検分しながらセリュンジェに答えた。さすが北国らしく、小さな備え付けのストーブが片隅にあったので、アルドゥインはほっとした。
「俺の友達がもうすぐオルテアを出るから、その前に別れの乾杯でもしないかって誘ってきたんだ。宿代も立て替えてくれてさ」
「いい友達を持ったもんじゃねえか」
 セリュンジェの言葉に、アルドゥインは素直に頷いた。
「ところで、将軍閣下はどちらに? 俺が配属になった部署とか、詳しいことはまだ聞いてないんだが」
「ああ――閣下なら、また水晶殿に行かれたよ。いつ戻られるのかちょっと判らないな。あんたの部署は執事殿に聞いておいた。五番隊のディウス隊に所属。位置的には俺の上かな。俺を負かした奴が入ってくるって、アロイスたちがさんざん宣伝しまくってるから、心配しなさんな」
 前評判はそれほど悪いものにはならなさそうだが、変に誇張されたりなどして吹聴されると後で困る。アルドゥインはそう思ったが、彼らに悪意があるわけでもないし、純粋にいい使い手が入ったということを宣伝したいだけなのだろう。
「あんたを負かしたって言ったって、ありゃただの幸運だよ。それで他の誰かが勝負しろなんて言ってきたらどうするんだ」
 アルドゥインが代わりに言ったのはそれだった。だがセリュンジェは真面目に受け答えした。
「だったらまたお手合わせ願えないかな。大丈夫さ、俺に勝てないやつらがあんたに勝てるわけないから」
 セリュンジェのかなりの自信満々ぶりに、アインデッドに似かよったところを見つけてしまった。それが実力に見合ったものであるなら、自分に自信を持つことは別段悪いことでも何でもなかったが。
「また話は変わるけどさ」
「何だい?」
「この辺りで酒と飯の旨い店って知らないか」
 今晩の夕食の約束を思い出して、アルドゥインは訊ねてみた。目的はセリュンジェにもすぐ判ったので、彼はちょっと思案顔になった。
「そうだな……屋台以外でいい所っていえばまあ、今日俺とあんたがぶつかった通りがあるだろ」
「ああ、ニハーレ通りだな」
「そこの《みかづき》亭ってとこが俺としてはけっこうお勧めだな。オルテア風のつぼ焼きパイは絶対食ってみるべきだぜ」
 セリュンジェは言っているあいだにも自分で思い出したらしく、何とも幸せそうな表情を浮かべた。それから気がついたようにアルドゥインに訊ねた。
「あんたの友達ってのに会ってみたいが、やっぱり俺がついていくのは失礼だよな」
「すまねえけど、ちょっとな」
「ま、楽しんでこいよ」
 いつまでもこだわることではなかったし、セリュンジェはもうその事には関心を失ってしまったようだった。それから彼はアルドゥインに、洗い場や食堂などの共同施設を案内してやった。
 それからアルドゥインが配属された部隊で今宿舎にいる面々に挨拶をしてまわった。恐らくセリュンジェとその友人たちが宣伝した効果か、彼のことはだいぶ知れ渡っているらしく、会う人ほとんどに自己紹介をする手間が省けた。
 宿舎内の施設の大体の位置関係を覚えたところで、練兵の時間となった。将軍自身はまだオルテア城から戻ってきていなかったが、それが当たり前なのだろう。各々の隊に分かれて整列や行進の練習、その後には実戦訓練などを行ってあっと言う間に時間は過ぎていった。
 リナイスの刻まであとわずかというところで練兵が終わった。アルドゥインは慌てて部屋に戻ってとりあえずの支度をすると、ずいぶんと不審がられながら宿舎を飛び出した。少しでも遅れたらサライに何を説教されるか判ったものではなかったので、彼としては必死だったのだ。
 日が落ちると寒さはぐっと厳しいものになる。再び凍った石畳の上を滑らないように気をつけながら走り、《柳の花輪》亭に着いたのは丁度リナイスの刻を告げる鐘の音の余韻が消えようとする時であった。
 アインデッドとサライ、アトの三人はすでに宿の戸口の前で待っていた。彼が走ってくるのを見てそんなに急ぐことはないと口々に言ったのだが、ついた勢いは止まらずに、アルドゥインはほとんど滑り込むようにして彼らの前で止まった。
「危ないから走ることはなかったのに」
「遅れたらいけねえと思ったから」
 心配顔のサライを見て、アルドゥインは白い息を吐いた。
「ここからちょっと歩くけど、いいか?」
「かまわないぜ」
 それに答えたのはアインデッドだった。四人はアルドゥインを先頭にして歩きはじめた。セリュンジェに教えられた店は、三日月をかたどった大きな看板が出ていたのですぐにそれと知れた。
 《みかづき》亭は酒も出すが料理も楽しめるといった雰囲気の店で、サライのおめがねにもかなったようだった。アインデッドとアルドゥインは酒を飲み、サライはそれに少しだけ付き合って、アトは料理に専念することになった。
 流しか専属かはわからぬが吟遊詩人が「イル川の白鳥」の物悲しいメロディを奏でている。それはやがて誰かが頼んだ「ディアナの娘」に変わり、一変して晴れやかで明るい歌声と音が満ちはじめた。
「それで、これからどこに行くんだ?」
「具体的には決めてない」
 空になってしまった二人分の杯にサモス酒を注ぎながらアインデッドは言った。メビウス名物のこの酒はミール麦と種々の香草を樅の樽で熟成させたもので、森の香りをそのまま溶け込ませたかのような清々しい芳香を持っていた。
「とりあえずクラインはサライにとって今のところ鬼門だから行かないよ。でもどこかで仕官したいとか、そういうのもないし。明日にゃ発つつもりだけどほんとうにどうするか、だな」
 いまさらのようにアインデッドは呟いた。それを聞きとがめてアトが目を上げたが、何も言わなかった。サライは少しだけと宣言したとおりに、酒の杯にはほとんど口をつけないまま、時折会話を差し挟みながら食事を楽しんでいた。
 料理があらかた片付き、酒も尽きたところで、彼らは名残を惜しみながら店を出た。近くであるし、これが最後ということもあるのでアルドゥインを宿舎まで見送ることにした。一つ前の角で彼らは別れた。
「それじゃあ、これで本当にお別れだな」
「元気でやれよ。今度会うときはお前より偉くなっててやるからな」
「体には気をつけて」
 それぞれに言葉を交わしながら、サライとアインデッドは代わる代わるにアルドゥインと握手をした。アルドゥインがアトにも手を差し出したときだった。
「いまに……」
「え?」
 不意にアトが口を開いた。彼らははっとして彼女を見た。普段の彼女が何かを言ったところでそれほどの威力があろうはずもなかったが、それは違った。
 わずか十七にしか過ぎぬはずの少女のおもては、千年の齢を経たヤナスの巫女を思わせるような神秘性と荘厳さを備え、夜明けを迎える寸前の夜の色を映した瞳はさらに青みがかり、彼らを通り越して時の彼方を見つめているかのようであった。そしてその声すらも、普段の彼女とは似ても似つかぬ大人びた、低い口調に変化していた。
 まばたき一つせずに、アトは頭を巡らせて三人を順に眺め渡した。
「いまに御身らは知るだろう。――覚えておくがいい。御身らは己が星を求め、ゆえに世界は揺らぐ――御身らはつねに選ばねばならない。選ばれたものも、選ばれざるものもそれぞれに運命を違えていくだろう。それは御身らにもいずれは還るものなのだ」
 何かに遮られたかのようにアトは言葉を止めた。見開かれた瞳にすうっと瞼が下り、彼女は全ての力を失ったようにサライに倒れ掛かった。アインデッドもアルドゥインも、何かを言おうとして唇を開いたが、口を閉ざした。言えなかったのだ。しばらく、三人の青年たちの間に重苦しく、いやが上にも神秘的な沈黙がおりた。それを破ったのはアルドゥインだった。
「この子に予言の力があるなんて……知らなかった」
 強張った笑みを浮かべてアトを見つめ、抱きかかえている自分と視線を合わせたので、サライは否定的に首を振った。
「こんな事は初めてだ。予知夢にしたって、これほどはっきりと何かについて告げたことなんて一度もなかった」
「今の、何なんだ……?」
 アインデッドは上顎に張り付いたようになっていた舌をやっと引き剥がした。彼を襲った感情はただ恐怖、であった。今はサライの腕の中でぐったりと眠っている少女の瞳を通して、彼は時の彼方を見たのだった。突然示された果てのない時間の虚無――あるいはその一端が、過去をも振り返らぬ彼を畏怖させたのだった。
「御身らって言ったぐらいだから、俺たちのことなんじゃないのか。あんまり悪い事じゃなかったように思えるが」
 アインデッドの独白めいた呟きに、アルドゥインが返した。
「でも……何だか――」
 言いさして、アインデッドは口をつぐんだ。何か言ってはならないような気がしたのだ。彼が次の言葉を探し当てる前に、アトが目を覚ました。そこにはもう、先程の神秘の翳りの名残は何一つとしてとどめられてはいなかった。
「す、すみません。サライ様。何だか私、気が遠くなってしまって……」
 サライにもたれかかっていることに気づいて、彼女は慌てて体を離した。
「ほんの数秒、気を失っていただけだよ。貧血かもね。今日は疲れているのかもしれないから、早く宿に戻って寝たほうがいい」
 アトが彼らの様子に疑問を抱く前に、サライは優しく彼女に微笑みかけた。彼が何事もなかったふりをするのだとすぐに悟った二人も、調子を合わせた。
「こんな時に心配させないでくれよ、アトさん。じゃあ、俺はこれで」
「ナカーリアの武運があらん事を。アルドゥイン」
 一度振り返って手を振り、アルドゥインの長身の姿は角へと消えていった。サライとアインデッドはお互いにちらと目を見交わしたが、言葉は発さなかった。どちらも先程のアトの予言が心を占めていた。
(選ばれたものも、選ばれないものも運命を変える……まるで今の俺たちをずばり言い当てたみたいに……。俺たちが《選ぶ》ということの意味が、何かそれ以外の選択の意味を持つとでも言うのか?)
「俺たちも行こうか」
 しかし、口に出した言葉は全く何の変わりもないものだった。またそれ以外のことも言えはしなかった。
「色々準備もあるだろうし、明日のユーリースの刻に双ヶ丘で集合な」
「判った」
「アトも、それでいいか」
 彼女は十七歳らしい笑顔で答えた。
「ええ」

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