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                                *



 宿の外に出たとたん、冷たい身を切るような風が二人を取り巻いた。暖かくした室内に慣れていた体には、実際よりも寒く感じられた。サライは風が入りこまないように、マントをぐっと引き寄せた。
「日が出てるのがまだしもって感じだな」
 アインデッドがぼやきながら歩き出した。虹ヶ丘はオルテア東部、光ヶ丘の隣にある。なぜその名があるのか、二人は知らなかった。《柳の花輪》亭からは大人の足で二テル弱歩けば着く距離である。
「何で虹ヶ丘なんだろう」
 ふと口に出した疑問に、サライが真面目に考えて返した。
「光ヶ丘が隣にあるからかな。それとも、雨が降った後虹が良く見える所だとか」
「サライ……」
「なに?」
 よもやひとり言めいた言葉に答えを返すとは思っていなかったアインデッドは、ため息混じりに呟いた。隣に並んで歩くサライがこちらを見る。
「お前って、本当にまじめだなぁ」
 いかにも呆れたように言われたので、サライは眉を寄せた。それに気づいて、アインデッドは弁解がましく付け足した。
「まじめが悪いなんて言っちゃいねえよ」
「ふうん」
「だから、お前のその目怖いんだってば。あんまり睨むなよ――せっかくの美人が台無しになるぞ」
 サライがじっと見つめていると、アインデッドは彼の視線を避けるように顔の前に手を広げた。それでも二人の距離は一定のまま変わらなかった。冗談めかして言っていたが、アインデッドはサライにそうやって見つめられるのが本当に苦手だった。
「まったく……誰が美人なんだ」
 半分呆れてサライはため息をついた。アインデッドはようやく視線を遮っていた手を下ろした。
「そりゃもちろん、俺の右を歩いてる金髪の男だよ」
「またそういう事を言う」
 女扱いされているような気がして、サライはむっつりと言った。だが今度はアインデッドの方が真面目だった。自身がさんざんな自慢屋であるにも拘らず――もしくはそのせいか、彼は他人をほめることをちっとも惜しまなかった。
「だから言ってるだろ、お前とアルドゥインは俺が認める美男だって」
「恥ずかしいことを大声で言わないでくれないか」
 往来を行く人々の十中八九が通り過ぎていく彼らを振り返ったり、まじまじと見つめながらすれ違っていくのは、二人がとてつもなく目立つ容姿を持っているからというよりはアインデッドの大声のせいだと確信していたサライはそう言った。
 そうして話をしながら歩いていくうちに、家や商店の街並みがだんだん疎らになり、道は勾配に差し掛かってきた。丘のふもとまでは街の境界線が迫っている。しかし頂上付近は枯れ木のひとむらが点々としているばかりで、見渡すかぎり何もない。今は全てが真っ白い雪化粧の下にあるが、春になればいっせいに芽吹いた草木が丘を緑に染め替えるのだろう。
 二人は口数少なくなりつつ、丘を登っていった。勾配は大したものではなかったが、人通りの少ないらしい道は雪に埋もれて半ば見えなくなっていて、一歩ごとに深く降り積もった雪が足を取る。
 半テルも登ったころ、先を歩いていたアインデッドが足を止めた。それに気づいて、サライも立ち止まった。休憩所のような場所がそこにあった。簡単な石組みで円形に周りを囲っているだけだが、見晴らし台のようになっている。アインデッドは石組みに積もった雪を払いのけて座った。サライもそれに倣う。彼らの右手にあるのはオルテア城を抱える光ヶ丘であった。
「オルテア城はどこからでも見えるけど、ここは近いな」
 アインデッドが呟いた。
「そうだね」
 遮るものが何もないので、市内にいたときよりも強く感じられる風に、サライはマントの下で肩を抱いた。アインデッドが話しはじめるのをサライは催促もせずただ待っていたので、しばらく無言で二人は座っていた。
「……前にお前に話した予言のこと、覚えてるか?」
 ようやく、彼は口を開いた。突然出てきた話題にサライは戸惑ったが、予言と聞いて思い出すことはあった。
「セルシャで話してくれた、いつか君が王になるだろうっていう予言のことか」
「それだよ」
 アインデッドは頷いた。
「俺はそれをただの夢で終わらせるつもりはさらさらねえんだ。いつか絶対に叶えてみせるって、そう思って今まできた。それで――」
「それで?」
 言葉を途切れさせてしまったアインデッドに、サライは先を促した。アインデッドは彼らしくもなく手を握りしめたり開いたり、せわしなく動かして逡巡していた。彼はぼそぼそと言葉を続けた。
「何をどうしたらいいのか、今はまだよく判らねえ。《光の天使》ってのにも、まだ出会ったわけじゃねえし。でももう俺も二十二だ。いいかげんに夢は夢で諦めるか、行動に移すかしねえといけねえんじゃねえかと思ってるんだ」
「うん――?」
「俺は俺が弱いとか馬鹿だとは思っていねえが、俺と引き比べたってサライは剣もできれば頭もけっこういいみたいだし、お偉方がお前のことを知っているだとか、もとがクラインの将軍様だったとか、そんなことはさておいても俺はけっこう評価してるんだ、お前のことを」
「アイン、君らしくないな。もっと判るようにはっきり言ってくれないか」
 要領を得ないアインデッドの言葉に、サライはちょっと困ったように言った。
「言っても笑わねえか?」
「私が君を馬鹿にするとでも思う?」
 アインデッドはサライの瞳をじっと見つめた。しばらく彼はそうしてサライの顔を見つめていたが、視線をそらして詰めていた息を吐き出した。白い吐息はたちまち風に吹き散らされて消えていく。唐突に、彼は石組みから降りて雪の中に跪いた。何事かとサライも立ち上がった。
「どうしたんだ、アイン」
「お前に頼みがあるんだ」
 アインデッドは両手をついて、サライを見上げた。真剣な眼差しに、サライは射すくめられたように動けなくなった。
「サライ、俺に手を貸してくれないか。俺が王になるために」
 丘をしばし、風のうなる音だけが高く低く過ぎていった。 「王になる」などという望みが、人には決して理解されようはずもない。それゆえにサライに打ち明けるだけでもそうとうな覚悟が要ったに違いない。アインデッドの顔は奇妙なほど頼りなげで幼く、緊張のためにか、少し青ざめていた。
「俺に従えと言うんじゃない。俺とお前の関係は主従じゃない、と俺は思ってる。だから――アルカンドとメディウスみたいな、そんな――対等な関係で、お前に力を貸してもらいたいんだ」
 アインデッドはもどかしそうに顔を歪めた。彼自身、その考えをどう言葉にして良いのか判らぬようだった。もう一度、雪に額を擦りつけんばかりに頭を垂れて、アインデッドはかきくどいた。
「頼む、断らないでくれ、サライ。この俺が――ティフィリスのアインデッドが、頭を下げて頼んでるんだ。他の誰にも俺は頭を下げて頼んだりなんかしない。お前だから、そうしているんだ」
「アインデッド、顔を上げて」
 サライは友人の肩に手をかけた。アインデッドが顔を上げると、不安そうに揺れる眼差しがサライをとらえた。
「そんな事は君に似合わないよ。雪に手を突いたりしたら、冷たいだろう」
「どうだっていいんだ。それよりも答えを聞かせてくれ、サライ」
 もう一度、冷たい風が二人のマントをはためかせた。緊張のためか、寒さのためか、アインデッドの頬には今度は朱がさしていた。一途な眼差しに、サライは瞳をそらすことができなかった。いつでも自信に溢れ、人を頼ることをせぬアインデッドが自分に対して土下座をしてまで頼んでいるという事が、彼にとっていかに重大であるかをサライは判っていた。そしてそれは、サライにとっても重大なことだった。
「答える前に、これだけははっきりさせておいてくれないか、アイン」
「何を?」
 怯えている子供のように、アインデッドは震える声音で尋ね返した。
「私の過去がクラインの将軍でなかったとしても、君は私を選んでいてくれた?」
「なんだ、そんな事――」
 アインデッドは口許にかたい笑みを浮かべた。
「今のお前は、ディユのサライ――それ以外の何者でもないじゃないか」
「……」
 サライの薄紫の瞳が、何か非常な驚きにでも打たれたように大きく見開かれ、アインデッドを映し出した。驚愕に似た色はすぐにぬぐい去られ、サライは彼に応えるように微笑んだ。
「そうだったね」
 サライはちょっと俯いて呟いた。「クラインの元将軍」でも何でもなく、サライ・カリフという一人の人間として求められているのだと感じたとき、マナ・サーリアの前で泣いてしまった時と同じような気持ちが、彼の心を包んだ。
「判ったよ、アイン。君と一緒に行こう」
「本当か?」
「ああ」
 思わず確かめたアインデッドに、サライは微笑んだまま頷いた。
「君のメディウスになるよ」
 アインデッドはよほど感動したらしく、何も言えぬままサライを見上げた。呆然としていた顔に笑顔が広がってゆく。それから彼はやにわに雪を跳ね上げて立ち上がって、笑いながらサライに抱きついた。
「信じられねえけど本当だよな? 俺と一緒に来てくれるんだよな! ヤナスに、いやサライルにだって感謝してやるよ!」
「ア、アイン! 痛いよ、放してくれ」
 アインデッドはサライを抱き上げて辺りをぐるぐる踊り回った。いきなりだったので、サライには逃げる暇もなかった。クラインと違って、沿海州はお互いの身体距離も近ければ喜びの表現もオープンだったのだ。挙げ句、サライがたまりかねて上げた声でやっと落ち着いて彼を下ろしてやった。
「すまねえ。ちょっとはしゃぎすぎちまった」
 頬を火照らせ、満面の笑みを浮かべて言うアインデッドがあまり嬉しそうだったので、サライが言おうとした文句も引っ込んでしまった。その代わりに、さっき心に浮かんだ懸念を口にした。
「私は君と一緒に行くと決めたけれど、アトはどうするか……」
「たぶん、あいつの事だからお前についていくって言うんだろう。それでも構わねえ」
 アインデッドは陽気に言った。

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