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                                *



(どういうことだ――?)
(親書が二つとは、どちらかが偽物ということか)
(しかし、こうも時を合わせて来るとは……)
 さっきよりも大きなざわめきが広間に満ちる。ミーヒャムはイスーンよりも少し下がったところに進み出てきて、臣下の礼をとった。
「何だと――?」
「真贋は陛下が見極めてくださいませ」
 近習から手渡された親書の包みを受け取り、アレクサンデルは今度は慌ただしく布を開いた。
「たしかに、メビウス皇帝の親書に間違いない。これも皇女の親書だ」
 一瞥して彼は言った。最初に彼はイェラインからの親書を読んだ。その内容はただこちらが渡す親書が偽りの無いものである、ということをメビウス皇帝の名で証立てているだけの内容だったので、アレクサンデルはずいぶん落ち着いた様子でそれを読んだ。
 問題は、二通目の親書だった。どちらも同じように皇族専用の用紙を使い、皇女の印で封蝋が捺してある。筆跡もよく見比べてみても違ったところを見いだせない。違うのはその内容だけであった。
 読み終わっても、アレクサンデルは無言のままであった。レウカディアを反逆の疑いで詰問したときに彼女が言ったように、国外追放にしたサライの保護を依頼しているだけのものであり、それ以外にどんなに裏を探ってみようとしても反逆を企んでいるとは考えられない。
(余は、騙されたというのか……)
 苦い思いがアレクサンデルの心中に広がった。しかしその沈黙は短かった。騙されていたのではと気づき、当惑していながらも、彼は皇帝であった。
「イスーン大導師よ、これは一体いかなる事か説明せよ」
「ミーヒャムめが差し出しましたその親書は、偽りのものに相違ございません」
 彼は内心の焦りを押し隠して言った。アレクサンデルは眉間のしわを深くした。メビウス皇帝イェラインとは四十年来の友人であり、その筆跡を見誤ったと言われてはさすがの彼も気分が良くなかったのだ。
 アレクサンデルはレウカディアを振り向き、ミーヒャムから渡された親書を示した。
「レウカディア、そなたはこちらを書いた。それは間違いないな」
「はい。正義の神ヌファールにかけて」
 レウカディアはきっぱりと言った。
「そうか」
 彼は重々しく言った。しかしその声は柔らかなものに変わっていた。
「聖帝たる余を差し置いてこのような親書を出していたこと、聖帝の大権を著しく侵害した上、皇女の権利を大きく逸脱しており、本来ならば許されるべきことではないということは判っておろうな」
「……」
 レウカディアはかすかに眉を寄せてうなだれた。
「しかし」
 アレクサンデルは咳払いして言葉を切った。
「臣下を思いやるそなたの厚情、まことに誉むべきもの。またそなたを庇いしルデュラン子爵の心情に免じ、特別に許そう」
「ありがとうございます」
 レウカディアは立ち上がり、深々と礼をした。どんなに非難される事があるにしても、自分の過ちを自ら認めた時ならば素直に謝るという点では、アレクサンデルはたしかに偉大であった。
「して、イスーン大導師」
 一転した厳しい声であった。
「レウカディアの反逆計画なるものはそなたの作り上げた空言であったと判った。申し開きすべきことがあれば申せ」
「……」
 急に立場が危うくなってしまったと悟り、イスーンは青ざめた。すかさずミーヒャムが進み出た。
「陛下、魔道十二ヶ条第三条により、魔道による政治への干渉禁止が定められておりますが、またその逆もしかり。大導師の処遇は我ら魔道師の塔にお委ねください」
 曲がりなりにも魔道の国クラインの皇帝であれば、その言葉の意味をアレクサンデルはよく知っていた。
「そのように計らえ」
 一言で充分であった。
 イスーンは逃げる間もなく、ミーヒャムの結界に阻まれてしまった。彼が声に出して呼んだわけではなかったが、たちまちにして数人の魔道師が現れた。目に見えぬ縄で縛られたかのように身動きが取れぬイスーンを彼らが取り囲む。
「早々に失礼致します無礼、平にご容赦を」
 ミーヒャムが言い、《閉じた空間》の術によって彼らは消えていった。魔道師の塔に戻ったのであろうことは、聞かずとも知れた。魔道師には魔道師のルールというものがあるのだ。そこに居残っていた宮廷魔道士たちも、いつのまにか消えていた。
 あっと言う間にも、また長い間にも思えたその一幕が終わり、気まずいような沈黙が再び広間に広がろうとした。だが、朝見はまだ終わっていなかった。
「議会より、報告」
 触れ係が思い出したように告げた。
 ワルター・ルデュランが貴族たちの間から出てきて、先程まで魔道師たちのいた、奏上の位置についた。
「議院長より報告申し上げます。かかるナカーリアの三日に、全ての審議を終了いたしました。また、十二選帝侯会議が執り行われましたことを報告申し上げます。これにて報告を終わります」
 早々に締めくくってしまうと、ワルターは自分の位置に戻った。彼と入れ替わったのはシェレンである。全くの予定外の事であったので、かわいそうな触れ係は困ってしまって彼と皇帝の間に視線をさまよわせた。
「十二選帝侯を代表し、アーバイエ候シェレン・アルゲーディより申し上げます」
 昨日議員に出席していた貴族たちはこれからシェレンが告げようとしている内容の重大さをあらためて思い、また知らぬ者はその場に満ちる何かの緊張を感じて、一様に口を閉ざし、若いアーバイエ候の姿を見つめていた。
「申し上げます前に、まずこれを申し上げねばなりますまい。――そもそもの初めより、君主たる者は常に己の感情に因らず事実のみに目を向け、公平なる処断を下すべきでございます」
 シェレンの朗々とした声が流れる。アレクサンデルは、彼が何を言い出すものかと怪訝な顔をしつつも見守っていた。
「しかるに陛下はその感情に任せ、罪なき者、罪軽き者どもを不当に逮捕拘留し、先程のイスーンに見るように邪なる佞臣の甘言、讒言にのみ耳を傾けるところ大きく、彼らの意のままに操られておられた。これは到底君主たるに値せぬ行為でございます」
 シェレンの口から飛び出した言葉の数々に、事情を知らぬ人々は驚愕し、どんな皇帝の怒りが彼に振りかかるものかと恐れおののいた。だがアレクサンデルはかなり不機嫌そうな顔になりながらも静かに聞いていた。彼には、自分の非を正されるのであれば、耳の痛いことであっても甘受しようという謙虚な態度だけはまだ残っていたのである。
「よって昨日の貴族議会および十二選帝侯会議の結果、帝位継承権法二五条に基づき、全議員の三分の二以上および十二選帝侯全員一致の賛成によりアレクサンデル四世陛下に退位勧告をなすことを決議いたしました」
 瞬間――かすかに残っていたざわめきまでもが完全に途絶え、耳が痛いほどの沈黙がおりた。アレクサンデルは目を剥いた。玉座のひじ掛けを思わず掴み、そのまま立ち上がることもできず、まるで彫像のようにシェレンを見据えた。
「何、と――」
 ようやく、彼の唇から絞り出すような声が漏れた。
「何と申した、アーバイエ候」
「アレクサンデル四世陛下の退位を勧告いたします」
 シェレンは静かに繰り返した。アレクサンデルの頬がさっと紅潮し、次には病人のように青ざめた。しかし激昂することはなかった。或いはそうすることもできぬほどの衝撃を受けていたのだろう。
 十二選帝侯会議は皇帝に退位を勧告できる唯一の機関であるが、これは命令ではない。勧告はあくまで勧告であり、また議会の力が絶対というわけでもない。従わずにいようと思えばできぬわけではない。だがシェレンが彼に告げた言葉はすなわち、臣下の心が完全に彼から離れたのだというその事を示していた。
 アレクサンデルはちらとレウカディアを見、それからもう一度居並ぶ廷臣たちの上に視線を戻した。
 まだ、誰も一言も発することはない。
 その静寂の中で、世界は二つのものを見ていた。
 皇帝と臣下。
 老いた者と、若い者。
 いずれ去り行く者とやがて来たる者。
 自分の時代は今この瞬間に――いや、それよりもずっと前に終わりを告げていたのだとアレクサンデルは唐突に悟った。時代に愛された者と見捨てられた者。自分は、後者であると。彼は、自分の過ちを一度認めたのならばそれを正すにやぶさかではなかった。そしてまた、こうなってしまった以上、己にできるただ一つの事はこの勧告を受け入れる事だった。
「アーバイエ候」
 やがて彼は口を開いた。
「余の退位後にはレウカディアを新帝に擁立するものか?」
 シェレンは軽く頭を下げた。
「仰せの通りにございます。レウカディア殿下が即位を拒否なさった場合は帝位継承権順位に従い、ルクリーシア殿下をもって新帝に、パリス皇子をクライン王にお迎えする所存であります」
 彼の淀みない答えを聞き、アレクサンデルはゆっくりと娘を振り返った。
「レウカディアを」
「はい」
 こんなにもお互いが真摯に向き合ったのは、これが初めてではないかとレウカディアは思った。
「そなたは議会のこの決定を容れ、女帝となってこのクラインを統治する覚悟はできておるか?」
 知らず厳かな気持ちになり、レウカディアは誓いのように神妙に答えた。バーネットが投獄され、師ウェルギリウスが投獄されて以来、自分が父に代わって聖帝になればどれほどよいかと考えてはいた。だがそれが今こうして現実のものになろうとしている。
 答えたら、この瞬間からレウカディアは全世界から父を裏切った娘と、姉からも呼ばれるのかもしれない。だがそれでも、彼女を認めようという人々がいるのならばそれ期待に応えてやりたかった。
「私にクライン聖帝たる資格があるのかどうか、それはアルカンド聖大帝の大霊が私を試され、その結果が出なければ判りません。ですが今この場で、諸侯の皆が私を新帝として迎えると定めたのであれば、私はその決定を真摯に受け止め、彼らの期待に報いたい所存にございます」
「そうか」
 アレクサンデルは心なしか力なく、しかし微笑みをそれと判らぬほどかすかに浮かべて頷いた。
「アーバイエ候、並びに諸侯らよ」
 一転して彼らを振り向いたアレクサンデルには、それでこそクラインの聖帝と呼ばれるだけのことはあると皆に思わしめる、威風堂々たる様子であった。のびやかな声が広間に響き渡る。
「クライン第一二二代聖帝アレクサンデル四世たる我は、アーバイエ候が申したように聖帝にあるまじき愚かな行状を重ねた。その責を以て今ここに退位を宣言し、娘レウカディアに譲位することを重ねて宣言する」
 それが、彼が皇帝として発した最後の決定となった。
「アレクサンデル四世陛下のご英断に、万歳!」
 誰かが叫び、拍手を始めた。それは瞬く間に広間中に広がって言った。アレクサンデルが即位して以来、この決断ほどその潔さと内容に対して惜しみない賞賛の拍手と万歳に迎えられた言葉もなかっただろう。
 そしてこの時、誰一人として血を流すことなく成功したがゆえに後に《無血革命》と名付けられた、世界で初めての革命が成立したのであった。

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