前へ  次へ
     何かを変えるには必ず痛みが伴う。
     それがいかなるものであるかは判らぬものだ。
     ためらうことは失敗につながると心得よ。
     その行いが正しかったかどうか、それは
     歴史が自ずから指し示してくれよう。
                        ――アルカンド
                    「アルカンド夜話」より




    第一楽章 二つの前奏曲




 議院での、このささやかでいて大きな事件は、結局のところ宮廷まで伝播することはなかった。大騒動になるだろうということはシェレンも半ば覚悟していたが、しかし誰一人としてアレクサンデルに告げようとする者がいなかったのである。
 半分がたくらい、親帝派の誰かがシェレンの発言したことを皇帝に告げて何もかも台無しにしてしまうのではないかと危惧していただけに、この結果はシェレンにとって意外であり、また喜ぶべきことだった。それはつまり、彼の発議を審議する前に潰してしまおうという動きがなかったということであった。
 それがすぐに賛成票に結びつくとはさすがに彼も思わなかったが、先行きは悪くないぞ、と自分に言い聞かせもしたのである。もちろんこれはその日の――ナカーリアの二日だけに限られた話であって、明日になって誰かが言い出すのかもしれなかったが今日あったことなら今日中に言ってしまうものだろう。
(これなら何とかなりそうだな)
 何かあったならアーバイエに一生引きこもって暮らそうかとまで考えただけに、シェレンは夕方近くなっても金獅子宮から何の音沙汰もないのに安心した。あるいは嵐の前の静けさであったかもしれないが、直情的なアレクサンデルが、処分を明日まで待つとは考えられなかった。
 もちろん、この事件に頭を悩ませていたのはひとりシェレンだけではなかった。それぞれの思惑の中で議員たちは悩んでいただろうし、これからの審議を欠席するという決断をするしかなかったワルターの方が、悩まねばならないことがシェレンよりもずっと多かっただろう。
 貴族たちとはまた別に、魔道師たちにもいろいろと動きがあった。シャルラがレウカディアに告げたように、この日宮廷魔道士の顔ぶれが一新され、ウェルギリウスの直弟子だとか、レウカディアと親しい魔道士は宮廷から追い出されてしまった。しかしその前に、ウェルギリウスを救出しようという同志はしっかりと結束していた。
 その日の夜、風体も年齢もばらばらの男たち――中には女も紛れていた――が十数人、カーティス城下の屋敷に集まってきていた。注意深いものが見れば、かれらの全てが何かしら魔道に関連したものを身に付けているとすぐに判っただろう。ある者は魔道師のベルトを腰に巻き、またある者は祈り紐を首にかけていた。
「これで全員だな」
 彼らの中心に立つ中年の男が周りを見回した。ざっと見たところ、二十人ほどもいるだろうか。あまり広くない室内に、何とか収まりきるだけの人数だった。家中の椅子を持ち出してきたのだろうが、それでも座れずに立っている者がいる。
「何もおもてなしできなくて申し訳ありませんわ」
 グラスと水差しを載せたワゴンを押しながら入ってきたのはシャルラだった。ここは、ラーダ夫妻の住む屋敷であり、魔道師たちの中心に立っていたのは彼女の夫、今はその任を解かれた宮廷魔道士の長のナエヴィウスであった。彼の人望は篤く、屋敷をひそかに集会所として提供していた。
 シャルラは集まった仲間たちと同じように魔道師のマントは身に付けておらず、ただ古代神聖文字を象嵌したいつものイヤリングだけをつけていた。彼らにアーフェル水を配り終えてから、シャルラは入ってきた扉の近くに場所をとった。
「ナエヴィウス、始めてくれ」
 どこからか声が掛かり、ナエヴィウスは頷いた。
「まず、今夜これほどの同志が集まってきてくれたことに深く感謝したい。では本題に入ろう。むろん、ウェルギリウス大導師とアウレロウスの投獄についてだ」
 彼らはじっと押し黙り、ナエヴィウスの言葉を聞いている。
「イスーン導師の部下たちが何重にも結界を張っているため、大導師への接触は今のところ成功していない。魔道的なもののみならず、単なる面会もままならぬ状態だ。ドヴュリア公は大導師を丁重に遇しておられるようだが、直接の確認はできていない。またレウカディア殿下が出されたという親書だが、イスーン導師がジャニュアなりメビウスなりに親書を取り寄せる手配をした形跡はない」
「にせの親書をでっち上げるつもりなのだろう」
 一人が立ち上がって興奮気味に言った。周りの数人が頷く。ナエヴィウスは片手で座るように合図して続けた。
「今ノカールがメビウスに飛び、親書を取り戻すべく動いている」
「だが、誰が陛下に渡すのだ?」
 手前にいた男が尋ねた。ナエヴィウスは挑むように全員の顔を見回した。
「ここに集まってもらったのは他でもない。その大役を引き受けてくれる者をこの中から募りたいのだ。今の陛下は諫言に耳を傾けられず、聞かれたとしてもご機嫌を損ねられるばかりだ。また、イスーン導師に気づかれては元も子もない。それでもやろうという者はいないか」
 失敗すればどのような結果が待ち受けているか、言わずもがなであった。ここに集まっていた者はほとんどが上級魔道師であり、魔道師は現世での浮き沈みにはあまり頓着しないものというのが通説であったが、誰もが顔を見合わせ、困ったような表情を浮かべるだけだった。
「私が――その役、引き受けよう」
 一つの声が沈黙を破った。皆が一斉に振り向き、驚きの声を上げた。
「ミーヒャム導師……!」
 彼は、魔道師の塔でウェルギリウスの補佐をする二人の導師のもう一人であった。真っ白な髪を後ろで束ね、水晶の眼鏡を片目にかけたこの老魔道師は、今でこそイスーンが大導師を名乗っているが、もともと彼が兄弟子であり、実力も上だと目されている。ウェルギリウスの次に人望が篤く、尊敬を受けている。そのミーヒャムが自ら名乗りを上げたのである。
 何よりも彼らを驚かせたのは、ミーヒャムがこの場にいるという事実だった。今夜の集会は任を解かれた宮廷魔道士が主なメンバーであり、魔道師仲間でも極秘ということになっていた。ミーヒャムにもむろん内密に、ということになっていたはずだったのだ。彼らは互いに顔を見合わせ、気づかなかった自分の未熟さをかみしめた。
「導師、なぜここに」
「私はお前たちの上司だ。そしてウェルギリウス大導師の一の弟子。それがお前たちが考えていることも判らぬようではならぬだろう。気づかぬのは、それこそ間抜けな大導師だけだよ」
 事も無げにミーヒャムは言い、ナエヴィウスの正面に歩み寄ってきた。誰からともなく道を空け、一番前にいた者が席を譲った。
「まあそれはおいておこう。さっきの計画だが、私がやるのが最も相応しいだろう」
「ですが、導師おん自らの手を煩わせるわけには」
「ナエヴィウス、つまらぬことを言うでないよ」
 ミーヒャムは笑った。
「魔道師の世界は純粋な力の差だと、お前たちも判っているだろう。いくら卑怯な男だとはいえ、イスーンは導師だ。失敗は許されぬ――。それにまた、おぬし達は宮廷魔道士の任を解かれておるのだぞ。この中でそれにあてはまるのは、私しかいない」
 そうするしかないということは、彼らにも充分すぎるほど理解できた。だが、ウェルギリウス同様に尊敬するミーヒャムをこの危険な仕事に送り出すのは、いささか気が引けたのである。
 誰も、一言も口をきかぬまま数秒が過ぎた。
「わかりました。私どもがお手伝いできることがあれば全力を尽くして師をお助けいたします。ミーヒャム導師、どうか、お願いいたします」
 ナエヴィウスは深々と頭を下げた。それに対してミーヒャムはただ、了解したというように頷いただけだった。
「それで……アウレロウスはどうなっているのだ?」
「ベルティア塔に投獄されているのは周知の通りです。大導師ほどではありませんが、彼にもまた魔道的な監視がついております。彼に対する尋問や拷問は今のところ行われておりません」
 その言葉を聞いて、一様にほっとしたような雰囲気が満ちた。
「今のところ、と言うが、可能性はあるのか?」
 さっき立ち上がって発言した男が、今度はおとなしく手を挙げた。ナエヴィウスは重々しく首を横に振った。
「それは判らない。アウレロウスは親書の内容などは何も知らないが、イスーン導師にとって都合のいい自白を、拷問で引き出さないとも限らない。魔道を使うのは十二ヶ条に違反するが、拷問は数に入っていない」
「しかし、その手間も取らずに自白をでっち上げるということも考えられるぞ」
 誰かが言った。
「どちらかは判らないが、ともかくアウレロウスが大導師よりも危うい立場にあるということは確かではないのか。彼はレウカディア殿下を陥れるために利用されただけだというのにまだ釈放されておらぬところからして、まだ何かの陰謀の犠牲にされるのではないだろうか」
「ありえない話ではないな」
 ミーヒャムは頷いた。仲間であるということもさておき、一歩間違えれば自分がアウレロウスの立場になっていたかもしれないレウカディアの部下だった魔道師たちにとって、彼のことは他人事ではなかった。
 しばらく、彼の身の上を案じたりする声が部屋をざわざわと満たしていたが、ナエヴィウスが結論を出した。
「アウレロウスのことは今の時点ではいかんともしがたい。脱獄させるわけにもゆかぬし、釈放を嘆願しても聞き入れられるとは思えない。もしも彼に対して拷問が行われるような気配があれば、その時は何としてでも阻止しよう」
「やはり、そうするしかないか」
「くそ、相手も同じ魔道師だというのに」
 彼らの間には諦観にも似た空気が流れた。政治とは無関係とは言いつつも、よい意味でも悪い意味でも魔道師の塔が完全に権力と無関係でいられるはずもない。権力者が魔道師の力を抑えようとすればそれに従うしかなかったし、逆に十二ヶ条を無視すれば魔道によって政治へ関与することができる。
 しかしそのような結びつきがよい結果を生まないことを歴史は語っており、それをいかに最小限にしていくかということに代々の大導師たちは心を砕いていたのであり、イスーンの行為はそれらの伝統に対する裏切りでもあった。
 集会を終え、同志たちはそれぞれの家路についた。ナエヴィウスとシャルラはさっきまで人で溢れていた居間に二人きりでいた。シャルラは椅子を片付ける夫の腕に、寄り添うようにそっと触れた。
「うまくゆくかしら。ノカールが間に合えばよいのだけれど」
「 《閉じた空間》の術を連続使用することにかけては彼が一番だ。たぶん、時間的な問題はないだろう。問題は、陛下がどう受け止められ、どう動くかと言うことだ」
 ナエヴィウスは持ち上げようとしていた椅子を下ろした。
「しかしそのことを今から心配していても仕方がない。ミーヒャム導師が味方についてくださったのだ。安心しよう、シャルラ」
「ええ……そうね、あなた」
 シャルラは小さく何度も頷いた。

前へ  次へ
inserted by FC2 system