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 カーティス城での騒動が市内に伝わるのは早かった。皇女の謹慎処分などという醜聞には緘口令が布かれるものだが、その話は翌日にはカーティス城周辺にしっかりと広まってしまっていたし、翌日には翌日で起こったウェルギリウスとバーネットの投獄ははや夕方には人々の話題のたねになっていた。
 ここでもまた、二人の囚われ人は殉教者として扱われた。ウェルギリウスは魔道師たちにとってそうであったように、一般の市民たちにとっても魔道師の神様、クラインの誇りのように考えられていた。一方のバーネットはサライと同様彼らの生活を悪魔から守る精鋭軍の代表であった。だからその「神様」を裏切り、「守護神」を投獄させたイスーンへの悪感情はいやが上にも高まるのだった。
 そんな状況を知ってか知らずか、ウェルギリウスの投獄から二日経った今、イスーンはますます意気軒昂であった。
 まだレウカディアが戻らぬまま、いつものとおりの朝見が終わる。それから文官たちはヤナスの月まで行われる議会に入る。今日からナカーリアの月に入り、会議も大詰めに向かっている。予算の調整はすでに済み、細々とした法律の改正、税の取決めなどの重要課題も終わっていた。
 まだ残っていたのは、「議会は現皇帝アレクサンデル四世に退位を勧告し、レウカディア皇女を聖女帝に擁立すべし」という、これこそ謀叛にひとしい議案であった。すでにシェレンがバーネットに教えたように、この議案は議長であるローレイン伯ワルターの判断によってすべての議案の採決が行われるまで凍結ということが決定していた。
 しかしその期限が訪れようとしていた。
 ワルターは非常に難しい立場に置かれていた。彼は貴族議院の議長であったがまた同時に、現在ドヴュリア塔に収監されているバーネットの父親であった。ここであの案を議題として持ち出すことは、議長の立場からすれば時期も適当であり、当然のことである。しかし、息子を投獄された当事者の自分がその案を蒸し返すことが果たして正義に適うことなのか彼は悩んでいた。
 議院で皇帝退位勧告案を審議し、結果が出ればその結果は全てアレクサンデルに伝えられる。それが可決で、アレクサンデルの退位を同時に勧告することが確実であれば彼もこれほど悩まなかっただろうが、問題は否決されたときだった。そんな案が出ることはもちろん議長のワルターの責任ではないが、「自分がレウカディア皇女に謀叛を唆した」と自白して捕らえられているバーネットの事と考え合わせて、アレクサンデルが父子を反逆者と決め付ける可能性は高い。
 今はバーネットに関しても証拠は出ておらず、ただ塔に監禁されているだけの状態であるが、退位勧告の話が出ればアレクサンデルが過剰に反応し、バーネットを処刑しようとすら考えるかもしれない。だが、提出された議案を審議もせず破棄することは彼の責任感が許さない。ワルターはぎりぎりの選択を迫られていたのである。
 週はじめの黒の日は慣習的に公休日であったので、ワルターは週末に起こったあらゆる事件の重圧から一時的に逃れることができた。とはいえ投獄中のバーネットが気掛かりでないといえばそれは嘘になった。フレデグントは朝からバーネットの容態を見に行くと言ってカーティス城に出かけていた。
 ワルターもバーネットが心配であったが、彼の仕事意識が見舞いや面会を阻んでいた。貴族議院議長ともあろう者が、実の息子とはいえ謀叛の疑いで投獄されている者に面会すれば、何らかの疑惑を生むだろうと彼は考えていた。彼は、息子と同じく仕事に忠実な男だったのである。
 そのかわり、毎日面会にでかけてゆくフレデグントから、その日の様子などを聞くことにしていた。フレデグントも、兄が心配であるのももちろんのことながら、父親のそうした気持ちを汲み取っていたふしがあった。
 ウェルギリウスやバーネットのような、重大犯と目される囚人への面会を許可するのはドヴュリア公みずからだった。ウェルギリウスに対してはイスーンからの締め付けがあったので許可を出すことは事実上不可能であったが、バーネットへの面会は一日何度であっても許された上、看守の立会いもなかった。
「お兄様、御加減はいかが?……あら」
 元気に入ってきたフレデグントは、先客がいたのでびっくりして、声も先細りになってしまった。バーネットの枕元に立っていたのは、アーバイエ候シェレンだった。フレデグントはあわてて出て行こうとしたが、バーネットがそれを呼び止めた。
「話は終わっているからいいよ。それに、サビナが黙って出て行くのはマナー違反だよ。フレーデ」
 言われたとおりに彼女は向きを変えて、スカートの裾をちょっと持ち上げて礼をした。見舞いの品を入れたバスケットを片手に抱えていたので、ずいぶんと簡略化されたものになっていた。
「こんにちは、シェレン兄様」
「こちらこそ」
 シェレンは同じように礼を返した。フレデグントはバスケットをテーブルに置き、中身を並べはじめた。着替えの下着などの衣服が大半だったが、中には彼女が作ったと思われる菓子も入っていた。
「お兄様、これ、わたしが作った果物のケーキよ。よろしかったら今ここで切り分けましょうか」
「そうだな。俺は賛成だが、シェレンは」
「いただくよ」
 彼の答えが出る前に、フレデグントはさっさとリング状のケーキにナイフを入れていた。テーブルには、その前に持ってきたアーフェル蜜の瓶が置いてあった。手際よく三人分のケーキが切り分けられて、アーフェル水が用意された。フレデグントとシェレンはテーブルに着いたが、バーネットはベッドの上で食べざるを得なかった。
「俺が食わせてやろうか、バーネット」
「いや、それには及ばない」
 シェレンがからかった。まだ傷口が痛むようだったが、バーネットは意地でも世話になるものかと必死になっていた。怪我をしていて寝ていなければならないというだけでも、軍人としての彼のプライドは結構傷ついていたのである。
 菓子を食べ終わってしまってから、フレデグントはバスケットに使用済みの衣服を詰め込んだ。部屋の掃除などはドヴュリア塔の看守や掃除婦が行っていたし、ドヴュリア公が何くれとなく便宜を図ってくれていたので、心配する必要はなかった。
「それではお邪魔しました」
「そこまで送りましょう」
 シェレンがいた手前、フレデグントはちょっぴり残念そうにしながらも早々と出ていった。彼女を見送ってから、シェレンはまた戻ってきてベッドの脇に腰掛けた。
「いい子だよな、フレーデは」
「当たり前だ。俺の妹だぞ」
 聞いていてかなり恥ずかしいことを、バーネットは臆面もなく言った。対するシェレンもバーネットがいつもこの調子なのには慣れっこになっていた。
「フレデグントを嫁にしたい男は、ワルター殿の説得よりもまず、お前と一騎打ちして勝つのが条件になるのかも知れんな」
 シェレンは笑った。
「ふうん。思いつきもしなかったな。やってみようか」
「やめておけ、フレデグントが嫁ぎ遅れるぞ」
「それより、さっきの話は本気なのか?」
 急に笑いを引っ込めて深刻な顔つきになり、バーネットが身を起こして尋ねた。シェレンは頷いた。
「だから話したんだ。お前に話すことじゃないのかもしれないが、そういう決意をしたってことは知っておいてもらいたかったんだ。ワルター殿のこともあるし、これがうまくいかなかったらお前にはもっと辛いことになるかもしれないが」
「いや、話してもらえて嬉しいよ」
 バーネットは否定する意味でゆるく頭を振った。それを見届けて、シェレンは立ち上がった。
「もうそろそろ行くよ。――くれぐれも、無理をしないようにな。本当はまだ痛むんだろう?」
「これぐらいは大丈夫だ」
 吊るした左腕をちょっと振って、バーネットは微笑んだ。
 翌日の白の日、時間どおりに終わった朝見に引き続いてナカーリアの刻から貴族議会が始まった。議員になるのは十六州とそれぞれの県、郡をおさめる諸貴族、その中でも十二選帝侯は会議が紛糾した際の最終決定権をもつ。つまり、彼らの多数決で決まってしまうのである。
 議院が置かれているのは白羊宮であり、皇帝が議院に足を踏み入れることは許されていない。それは皇帝がいることによって議員たちが自由な意見を交換することができなくなってはならないとする古くからの慣習であった。半円形の議場の真ん中に、議長と副議長の席が壇上に置かれ、その周りを十二選帝侯、さらにその他の議院の席が同心円を描くように配置されている。
 開始を告げる木槌の響きで、議場はしんと静まり返る。
「先週の議会で審議すべき議題は全て終わりましたが、その他に議題を提出する議員はこの場で挙手と提出または発言を」
 議院内が少しざわめいた。あの議案を先送りにすると決めたのはワルター自身の判断であったが、審議せずに破棄する権限をも彼は持っていた。ワルターは、あの議案を破棄することに決めたのだった。
 議員たちも、「やはり破棄されたか」というふうな受け止め方をしたらしい。前には審議続行に票を入れたものも、匿名ではなく、今この場でもう一度出せと言われたならば、そんな勇気のある者などいなかった。
 その時、すっと手が挙がった。思わず全員の目がそこに向く。手を挙げたのは議席の一番前、右端の議員――アーバイエ候シェレンであった。
「アーバイエ候、発言があるのならばどうぞ」
 ワルターに軽く会釈して、シェレンは立ち上がった。ちょっと咳払いをして、彼はしっかりと前を見据えた。
「議長に質問いたしますが、先月三日に審議先送りとした案の審議がまだ済んでおりません。これはいかがするのです?」
「くだんの案はこの場に不適当と考え、議長権限により破棄としました」
 ひそかなささやき声の会話がざわざわと議場を包んでいたが、二人の会話は不思議なほど皆によく聞こえた。
「では」
 シェレンはいったん言葉を切って、緊張をほぐすように深呼吸した。
「わたしは十二選帝侯シェレン・アルゲーディの名において選帝侯会議を召集し、現聖帝アレクサンデル・アル・クライン陛下に退位勧告をなすとともにレウカディア・エル・クライン皇女殿下を聖女帝に擁立するとの案を再度提出いたします」
 一瞬の恐ろしいほどの沈黙の後、議場はそれこそ蜂の巣をつついたような騒ぎに陥った。ワルターとコンリナス副議長が「静粛に!」と叫びつつ木槌を鳴らしたが、効果はほとんどなかった。
「気はたしかか、シェレン殿!」
 立ち上がって叫んだのはエセル候クラディウスであった。シェレンはいたって冷静なまま、クラディウスへ顔を向けた。
「気は確かですし、狂ってもおりません」
 選帝侯の筆頭であるシェレンには、選帝侯会議を招集する権限がある。会議では誰が帝位を継ぐかを決めるだけではなく、現皇帝を退位させることも可能であったが、その会議が開かれたことは、この二、三百年絶えてなかったことだった。
「静粛に!」
 何度目かにワルターが叫んだ時、やっと議場の混乱は何とか会話ができる程度におさまった。彼はほとんど手をつけることがない水差しからグラスに水を注いで、一口だけ飲んで喉を潤した。
「卿が仰りたいのはつまり、どうあってもアレクサンデル陛下を退位させるか否かをこの場で決定したいと、そういうことだと理解してかまいませんか」
「然様」
 シェレンは身振りも加えて肯定の意を示した。ワルターはシェレンを見つめ、そして議場の端から端までを見渡し、もう一度視線を戻した。彼の息子よりも若い、息子の親友を見つめた。バーネットの投獄をシェレンが心から憤っているのはその瞳から判った。ワルターにもその気持ちは痛いほど判ったし、彼のほうがシェレンよりもずっと辛い気持ちを押し隠していた。
 だが、投獄された息子の父親と、皇帝の進退をも決定できる議員の長としての立場は彼の中ではげしくせめぎあっていた。どちらがどちらよりも上だと、ワルターには断言することができなかった。
 逡巡の後、彼が取った方法は一つだった。
「選帝侯会議を開くのか否かは別として、退位勧告案の審議を再開と決定します」
 再び、議員たちがざわめきはじめる。
「ただし私は息子を投獄されている。公平な立場を守るため、この審議に関し私は不干渉とさせていただく」
 押し寄せるようなざわめきを背に受けて、ワルターは議院を後にした。

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