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     かくて小暗い時がカーティスを訪れた。
     けれどもそれは黄金時代の前のつかの間の嵐であった。
     大いなる変革の時は近づき、新たな時代の扉は
     美しき皇女と騎士たちの手によって
     今や開かれんとしていた。
                            ――クライン年代記




     第四楽章 帝都の協奏曲




 いつの世のどこであっても、それが世界の終わりの時でもないかぎり、人々が噂話をしない日はないだろう。根も葉もないほら話よりも、実在の人物が巻き込まれた事件のほうが好まれたのは勿論のことだが、暇な人々が飛びつくようなゴシップでなくとも、要するにその時々の人の心を掴むものなら何でも良かったのだ。
(聞いたか、あの話を)
(ああもちろん、知らぬものなどおるまいさ。バーネット卿のことだろう)
(ほかにどの話をするものか。いまどき珍しいほどの騎士道よ。なにせ殿下ならば謹慎だけで済むところを、斬首になるやもしれぬというのに、自ら殿下の罪をかぶって、ドヴュリア塔に投獄されたというのだからな)
(下手をすれば死刑、でなくとも一生塔から出られぬことになるというのに、よくもそんな覚悟ができたものだ。やはり、殿下を思ってのことなのだろうかねえ)
(そんな詮索は野暮ですぞ、卿)
(そうですよ。貴殿が彼の立場だったら彼のように振る舞えますかね。たとえ殿下をお慕い申し上げていたとしても)
(……計算づくの行為でないのは確かでしょうな)
(ローレイン伯など、真っ青になっておられたからな)
(あれはご子息の怪我のせいもあっただろうけれど、やはり息子があんなことになったら誰しも取り乱すでしょう)
 金獅子宮、カーティス城内はレウカディアとバーネットの話でもちきりだった。一旬前には二人のダンスの話、そして今はレウカディアに突然かけられた謀叛の疑いと謹慎処分、それを解くためにバーネットが自らが唆して行わせたことだと訴えでた事が話題の中心となっていた。
 すでにバーネットはある種の英雄、あるいは殉教者として人々の目に映じていた。重傷をおして皇帝の御前に出ていったことが、レウカディアを救うためという目的とあいまって貴婦人たちの心をくすぐったし、騎士道を重んじる武官にはもちろん文官たちにも強い感動を呼び起こしていたのである。
 ワルターの政敵とか、それでなくともバーネット個人を快く思っていない人々のとってもこればかりは非難のしようがなかった。もちろんしようと思えば点数稼ぎであるとか、本当にレウカディアを唆していたが、露見した事の重大さに恐れおののいて名乗り出たのだろうとか、何とでも言えた。だが、周りの雰囲気がそれを許さなかった。またそういった人々であっても、バーネットがあれこれと陰謀を巡らすようなタイプの男ではないと認めるところだった。そういった生真面目さこそが、バーネットがそうでない人々に嫌われる原因であったからだ。
 それに聖帝に対する謀叛は極刑か、終身刑をもってその罰と定められている。いかに彼が陰謀家であったとしても、助かる見込みもない命がけの点数稼ぎなどしなかっただろうし、どのみち女帝になるであろうレウカディアを唆したところで何の利益にもならぬのは一目瞭然であった。それだからこそ余計に、この一連の事件は人々の疑惑を呼びもしたのである。
 また、バーネットやレウカディアと同様に、話題に上る人物がもう一人いた。
(バーネット卿のこともさておき、ウェルギリウス大導師まで投獄されたなると、これはわれわれもおちおち呑気にしておられませんな)
(なぜ大導師さまが投獄されねばならぬのか、私にはさっぱりわからんのですよ。貴殿はどうです)
(レウカディア殿下の手助けをした、というのが罪状でしたか。証拠も何もないというのに、ずいぶんと乱暴なことだと思いますが、あれはあの男の策略なのですよ、きっと)
(ああ)
 まだ一両日も経っておらぬというのに、その名前は宮廷中に知れ渡っていた。
(イスーン導師……もっとも、今は大導師ですがね。誰が見ても彼の行動は大導師の地位に目が眩んでのことにしか見えませんよ。それに気づかれぬ方が一人だけおられるようだが……)
(口に気をつけなされ。そのようなことが陛下の耳に入ったら、首が飛びますぞ)
 むろんまだ処刑された者など出てはおらぬ。だが、いつそうなってしまってもおかしくないだろうという不安は人々の胸に重く圧し掛かっていたのである。
 宮廷びとたちと同じように、暗い雰囲気になっていたのは魔道師たちであった。もともとイスーンの一派であった者とか、さっそくイスーンにおもねって甘い汁を吸おうと画策している者はその例外であった。大半の魔道師はウェルギリウスを彼らの師、長として尊敬し、敬っていた。そのウェルギリウスを讒言で陥れたイスーンが蛇蝎のごとく嫌われるのは当然の摂理といえた。
 いまや魔道師の塔における最高権力者となり、聖帝によって全て彼に従わねばならないと命じられていても、魔道師たちは内心ではイスーンに強い憎しみと怒りを覚えていたのである。
 レウカディアが個人的に使っていた部下の魔道師たちは全て魔道師の塔に呼び戻され、別々の部門に飛ばされた。部下を奪われても、レウカディアには何も言えなかった。彼女は皇女であったが、一人の魔道師でもあったからだ。
 それに、この決定が行われる少し前に、突然謹慎処分を解かれた裏にはバーネットの献身があったと知って、彼女は冬の草のように打ちひしがれていた。イスーンの送ってきた使いに論戦を張る気になどとてもなれなかったのだ。彼女は火の消えた蝋燭みたいにしょんぼりして、ただ言われる言葉に頷くのみだった。
「殿下、元気を出してください。せっかく謹慎処分が解かれたのですもの」
「レウカディア様、ユジュバ果をお召し上がりになりますか? 昨日届いたばかりでとても新鮮ですのよ」
 女官たちはなんとか彼女を慰め、力づけようとするのだが、それも虚しい徒労に終わってしまった。彼女がバーネットのことを考えてぼんやりしている分には、女官たちも心軽く接することができたが、このような事態になってしまっては慰める術を知らなかった。それに、女官たちだって、憧れの君であるバーネットの投獄という重い事実に対して暗い気分になっていた。
 レウカディアは暗い顔で、今にも泣き出しそうな程潤んだ瞳をぼんやりと机の上に向けたり、花を眺めたりしていた。何かをしようという気も無かった。女官たちにもそんなムードが浸透していたから、庭に続くガラス扉の向こうに不意に黒い姿が現れ出たのにも数秒気づかずにいた。
 最初に気がついたのはさすが魔道師であるだけあって、レウカディアだった。レウカディアの様子で女官たちも気づき、また魔道師が来るとはいったい何事かとガラス扉に近づいて言った。戸を開ける前に、その正体は判った。
「ドムナ・シャルラ、どうしてここに」
 ティアラは心底びっくりしたようだった。シャルラは声を出さないようにと目顔で合図し、するりと室内に入ってきた。
「一応結界を張ってはおりますけれど、わたくし一人では心もとのうございます。殿下も結界を」
「判ったわ」
 その言わんとするところをただちに悟り、レウカディアは結界の誓句を唱えた。いいとも何とも言う前に入室したことを咎めることもなかった。レウカディアは護符代わりに使っている黒曜石のペンダントを取り出して、結界を張った。
「多分これで大丈夫でしょう。相手は何人で、級は?」
「アナトとラウフの二人です。かれらは上級の二級です。わたくしと殿下は上級の一級ですから、二人の結界ならばまず破られる心配はございません」
 シャルラは室内に入り、略式の礼をした。所在なさげな女官たちを見やり、レウカディアはシャルラに向き直った。
「人払いは」
「特には。結界が見破られる可能性がございます」
 結界とは、魔道師の物理的、心理的攻撃を妨げる、一種の精神的磁場のようなものである。級の低い者、精神エネルギーの低い者の結界はそれほど強くはないが、比較的力があるならば自らの結界内では、魔道師はほとんど全能とも言える。結界内での会話や魔道を気づかれる心配もない。これも得手不得手があり、どんなに他の魔道ですぐれ、強くても結界をうまく張ることのできぬ魔道師もいたが、さいわいなことに、シャルラは結界の術に非常に長けていた。
 魔道師や、魔道のわざを学んだ者、素養のある者は結界がある場所を感知することができるが、普通の人間には全くそれと気づかれない。ただ、一般人がそうして何も気づかずに結界を出入りすると、磁場が揺れるために他の魔道師たちに発見されやすくなるのだ。そのことを思い出して、レウカディアは頷いた。
「そうだったわね。皆、ここにいてちょうだい」
 出て行きかけていた者も、それで足を止めた。レウカディアはシャルラに椅子に座るようにすすめ、自分もまたさっきまで座っていた席に戻った。
「どうせそうだろうとは思ったけれど、本当に監視がついているなんて。クライン皇女も地に落ちたものね。実の父に謀叛を疑われ、臣下によって助けられて。私は、今ほど自分が情けないと思ったことはないわ」
 レウカディアはため息混じりに言った。
「それで、わざわざ危険を冒してまで来た理由を教えて、シャルラ」
「現在の魔道師の塔の状況をお知らせに参りました。それと、宮廷のことです。陛下は、殿下がジャニュアのナカル女王に宛てられた親書を手に入れるおつもりのようで、イスーンにこれを命じました。アウレロウスはまだベルティア塔に監禁されたままになっています。尋問や拷問を受けている様子はございません。彼はただ、殿下に対する見せしめのためにまだ囚われているだけでしょう。彼のことはご安心ください。アウレロウスは親書の内容などは知らぬのでございましょう?」
「ええ。ただ、サライの状況を探らせただけですもの。彼には親書を運ばせたりなんてしていないし」
 レウカディアは、アウレロウスがひとまず無事だと聞いてほっとした。彼に親書を運ばせていなくて本当に良かったとも思った。シャルラも安心したようだった。だが、彼女はまたおもてを引き締めた。
「イスーンは殿下の親書を偽造して陛下に渡すと思われます。殿下の書かれた親書はサライ様の消息をお頼みになっているだけですから」
「わざわざ自分の嘘が露見する証拠を取り寄せるほどお人よしではないのは確かよ。私が彼の立場でもそうするでしょうしね」
 レウカディアは苦々しく言った。シャルラは渋面のままだった。いつも人当たりの良い彼女だったが、女官たちの前でも、イスーンを心底嫌っているのだという態度を隠そうともしなかった。
「イスーンは恐らく偽造した新書を陛下に渡すでしょうから、わたしの同志たちがメビウスから親書を手に入れるべく活動を始めています。ウェルギリウス大導師とも連絡が取れるように考えていますが、そちらはガードが固いものですから、成功するかはあやしいところです」
「私には監視がついているから、へたな動きはできないわね」
 活動に参加できないので、レウカディアは残念そうに言った。だが彼女自身が陰謀の真っ只中にいる以上、たとえそれがどんなに必要なことであっても、怪しいと取られる行動はいっさい慎まねばならなかった。
「わたしの立場も少々危ないのです」
 しばらくして、シャルラは口重く言った。
「宮廷魔道士は今のところ人事を行っておりませんが、イスーンの息のかかった者で再編成されるとみて間違いないでしょう。わたしも夫も、その中に入るとは思えません。さらにわたしがレウカディア様とバーネット卿のお二人に接触していることは周知の事実ですから」
「あなたまで逮捕されるなんてことは、さすがにないでしょう」
 レウカディアは思わずシャルラの手を取った。謹慎を解かれたとはいえ、イスーンと顔を合わせることになるだろう宮廷に出て行く気は全くないレウカディアにとって、シャルラは宮廷との貴重なつながりだった。その彼女が宮廷魔道士の任から解かれるとか、それだけならまだしも逮捕されてアウレロウスのようにベルティア塔に放り込まれてしまうなどとは、想像するのも恐ろしかった。
 だがシャルラはレウカディアと違って孤独の恐怖を知っており、また恐怖に対する感情もいくぶんコントロールできるまでに大人であった。
「わかりません。相手はウェルギリウス大導師をも投獄させた男です。逆に言えば大物でなければさほど危険視されないのかもしれませんが」
「そんなときは来なければいいわ。あなたが投獄なんてされたら、私は本当に孤立無援になってしまうわ」
 レウカディアは心からそう願った。

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