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「何ですって、来られないって言うの?」
 レウカディアは我知らず大声を出していた。
「はい。どうしてもと殿下が仰せであれば、後日参上なさるとのことです」
 女官はごく丁寧に付け足した。
「何よ、それは……」
 今までバーネットが彼女の召命を断ったことなどなかっただけに、レウカディアが受けた衝撃は大きかった。大声を上げたり地団太を踏んだりするのも忘れるほどだった。女主人の爆発に備えて、女官たちはさりげなく壁際へと移動する。レウカディアはきっと唇をかみしめたが、行動には出なかった。彼女も二十歳であり、年相応の振る舞いを考えるだけの余裕は残っていた。断ったのはダンスパーティーのせいなのだと自分で結論付けて、彼女はけりをつけた。
「……ご苦労でした。もういいわ」
 この立派な態度に、女官たちは胸中で盛大な拍手を送った。何しろ、いくら大人ぶってみてもレウカディアの最も大きな短所はその感情の起伏の激しさと、それを表にすぐ出してしまう、という一言に尽きていた。最近、バーネットの前では極力おとなしやかで大人びた雰囲気を作ろうと努力していることもあって、彼女のこの短所はだいぶ改善されてきていた。逆にバーネットが関わると感情的になってしまう一面もあったにしろ、恋は人を変えるものだともっぱらの噂であった。
 尚も不満顔のまま、レウカディアは読みさしの本の続きに戻ることにした。呼ぶまでさがっていてよろしいとのお達しを受けて、女官たちはそれぞれのグループの溜まり場に直行する。
「さっきの殿下の顔ったらなかったわね!」
 小部屋に入るなり、ティアラが叫んだ。
「でも殿下も進歩なさったわよ。あたしはてっきり、『何が何でも呼んできなさい、これは皇女の命令よ!』なんて言い出すとばかり思っていたんだから」
「マリニアったら、ひどいこと言うわね」
「あらあ、あなただってそう思ったんじゃなくて?」
「マリニアの言うとおりよ。ルデュラン子爵の前でおしとやかになさるものだから、板についてきたのよ。私たちが子爵に告げ口しちゃうからっていうのもあるだろうけど」
「まさにルデュラン子爵さまさまだわ」
 ルビアが笑った。バーネットのファンではない女官にしても、それは認めた。何であれ彼女らにとって重要なのは、いかに女主人のご機嫌をとるかであり、いかに楽しく日々を過ごすかということだったのだ。
「にしても、何でバーネット様は殿下のお召しを断ったのかしら」
「ある意味勇気のいることよね」
 マリニアの疑問に、ティアラが相槌を打った。
「大変よ!」
 彼女らのお喋りは、駆け込んできたアスリアの叫びで中断された。
「どうしたの? 忘れ物でもしたの?」
「違うわ!」
 アスリアは激しくかぶりを振った。戸惑う同僚たちを前に、彼女は一回大きな深呼吸をした。
「門の所で精鋭軍が戻ってくるのを見たんだけど、バーネット様が……」
「バーネット様が、どうしたの」
 マリニアが先を促した。
「担架で運ばれていたのよ。肩に大怪我なさっていたの。悪魔に襲われたんだって。隊の人が教えてくれたんだけど……」
「殿下にお知らせしなくちゃ!」
 ヤニナが立ち上がった。数人がそれに続く。へたへたと座り込んで泣き出してしまったアスリアをなだめるために、仲良しのルビアとティアラはその場に残った。
 バーネット負傷、の報を聞いて、レウカディアは動揺の色を隠せなかった。さっき召命を断ってきたときの怒りは跡形もなく消え去り、悪魔が出たので断らざるを得なくなったに違いないという結論が新たに出された上で彼女は痛ましそうに目を伏せた。
(今すぐお見舞いに行きたいけれど、傷がどんな具合かも判らないし……もし大した怪我でもないのにお見舞いに行ったら、それこそまた人の噂になってしまうし)
 長い逡巡の果てに、レウカディアの心は決まった。
「報告ありがとう。明日の朝見で父上がその事にふれるようであれば、皇女の名で何かお見舞いの品を差し上げることにしましょう」
「かしこまりました。失礼いたします」
 少々物足りなさそうに女官たちが行ってしまうと、レウカディアは寝椅子に倒れ伏した。泣くことはなかったけれど、説明のつかない気持ちで胸がいっぱいだった。
 ルデュラン子爵負傷の報は、金獅子宮にも入ってきていた。それが渦中のルデュラン子爵ということもあって、なまじどこかの貴族が死んだという話よりもずっと人々の興味を引いた。父のローレイン伯が議会の終わるまで全く平静を貫き通し、閉会を早めることもしなかったというのはその中で人々の喝采の的となった。ワルターは議会が終わるやいなや自邸へと馬車を急がせた。
 一旦兵舎に運ばれたバーネットは、療養するには自宅の方が良いし、動かすに支障ないとの医師の判断で、自宅に戻ってきていた。ワルターが帰宅したときには、医神ファイスの紋章を縫い取った上着でそれと知れる医師たちが帰ろうとしているところだった。医師らの先頭に立っていたのは、世界一の名を冠せられる、クラインが誇る名医バルバトスであった。
「バルバトス殿、ご足労いたみいる」
「いや、ワルター殿」
 バルバトスはちょっと頭を下げて会釈した。
「息子の怪我はどのような具合で」
「左の肩をこのように……巨大な狼に噛まれたようなものです。傷は深いが、さいわい牙に毒はありませんでしたので、その点はご安心を。本復されるまでにはだいぶかかりますでしょうが」
「それほど深手を?」
 ワルターの声が揺れた。体面上厳しく装ってはいても、実際はいても立ってもおられぬほど心配していたのだ。
「何しろ相手は身の丈三バールの狼です。傷の中には一部骨まで達しているものもございました。さすがに急所は外させておられたが、危ういところでした。しかしご子息なら鍛えておいでだし、二ヶ月もあれば完治なさるでしょう」
 それを聞いてワルターは胸を撫で下ろした。バルバトスに丁重な礼を言い、送らせると彼は息子が寝かされている部屋へと入っていった。
「不名誉なところを見せ、申し訳ありません。父上」
 ワルターの顔を見るなり、バーネットは謝った。クッションと枕を積み上げて背を預けている。左肩には幾重にも包帯が巻きつけられ、腕を動かせないので前開きの上着だけを羽織っていた。意識はごく明瞭だったが、顔色はやはり青ざめていた。傍らにはフレデグントが付き添っていた。
「謝ることではない。自分の責任をお前は判っているのだから。それより、傷は痛まないか。眠ったほうがいいか」
「いえ、かまいません。フレーデ、はずしていてくれないか」
「はい」
 フレデグントは毛布の具合を直してやってから部屋を出ていった。彼女の座っていた椅子に座り、ワルターはバーネットをも詰めた。
「私が話そうとしていることは、わかるな」
 バーネットは軽く頷いた。
「皇女殿下の事ですね。話を避けようとしていたことは申し訳ないと思っています」
「結論は出たのか?」
 ワルターは多くを尋ねなかった。
「こんなことにならなければ、父上に今夜お話しし、殿下にも申し上げるつもりでおりました。もうこの上、殿下のエスコートを受けることはできぬということ、それに……」
 言ってもいいものかと迷うように、バーネットは目を伏せた。
「殿下に個人的にお会いすることもできかねる、と」
「それを聞いて安心した」
 ワルターはほっとしたような、それでいて済まなさそうな、どこか侘しげな笑顔を浮かべた。バーネットは父の顔から目をそらさなかった。
「我がルデュラン家が皇家に迎え入れられぬ格とは思わぬが、しかし我々はティフィリス人を祖とし、代々ティフィリスとの血のつながりを保ちつづけてきた家だ。どうあろうと皇家の青い血にルデュラン家の血が入ることも、ルデュラン家に皇家の血が入ることもないだろう。もしお前が本当に殿下を好ましく思っているのなら酷なことだが、諦めてくれ、バーネット。恨むならこの父を恨め」
「なにゆえに父上を恨むなどということがありえましょうか。俺は、何も思ってはおりません。ただ殿下のためを案じてのことです」
 バーネットは静かに答えた。
「殿下は未来の主君、それ以上の気持ちはございません。殿下はご自分のお気持ちを誤解なさっているようですが、そのように殿下の御心を惑わす真似は二度とできかねます。ですから、父上はこれ以上心配めされぬよう」
「そうか」
 ワルターは息子の視線を真っ向から受け止め、見つめ返した。彼の赤みの多い瞳と違い、バーネットの瞳はもっと色が濃く、赤を秘めた黒に近い色をしていた。だが髪は同じように赤く、それは彼らルデュラン家の一族がまぎれもなくティフィリスの流れをくむものである証であるとともに、どんなに長くこの国にあり、力を持とうとも決して本当の意味でのクライン人にはなれぬという証でもあった。
 話す言葉も文化もクラインのものとなっていても、やはり《ローレイン伯爵家》はある種の異邦人として受け止められていた。ローレイン伯爵家、ルデュランの姓を持つ者の証である赤い髪と瞳は、彼らが外様であり、血統の上で純粋なクライン人ではないのだということを人々に思い起こさせた。ワルターが言ったように、クラインは中原一の文明と科学とを誇る国でありながら、その国の組織を動かすのは旧態依然とした純粋なクライン人の聖帝と貴族、そして神々の意思だったのである。
「話はそれだけだ。しばらく眠ったほうがいい。仕事のことは考えず、今は傷を早く治すことだけを考えていればいい」
 いかにも息子を案じる父親らしくワルターは言い、バーネットは小さな微笑みでそれに応えた。
 ひそやかな夜は、金獅子宮の中にも訪れていた。すでに居室に戻り、寝支度を整えようとしていたアレクサンデルは、扉の向こうの人の気配に気づいて声を上げた。
「誰だ」
「魔道師の塔所属の導師、イスーンにございます。ぜひとも陛下のお耳に入れたいことがございます」
 迷ったようだったが、アレクサンデルは入室を許可した。すっと扉が開き、影のように魔道師が入って来、深々と臣下の礼を取った。背がひょろりと高く、いつも何かを窺うような目をした男だった。
「貴きお時間を臣のために割いていただき、まことに光栄にございます」
「かまわぬ。して、イスーン導師。余の耳に入れたいこととは何だ」
 アレクサンデルは椅子にかけ、イスーンにもどこかにかけるように勧めた。しかしイスーンは彼の前に跪いたままでいた。
「先頃よりレウカディア姫は、我々魔道師の塔といたしましても少々目に余るお振る舞いをなされますゆえ、それを陛下にお諌めいただきたく存じて参りました」
「レウカディアがどうかしたのか」
 何か厄介なことでも起こしたのか、というようなアレクサンデルの問い掛けに、イスーンはますます頭を下げた。その目は陰湿に輝いていたが、アレクサンデルにそれを見ることはできなかった。

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