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                                *



 カーティス市内のローレイン伯爵邸では、この七日ばかりずっと、何とはなしに張り詰めたような、緊張せざるを得ないような空気が暗雲のようにたれこめている。主人のローレイン伯ワルター・ルデュランはいつも息子のバーネットをつかまえる機会を窺っているのだが、当人はなんだかんだと理由をつけては外出したり、部屋から出てこなかったりとはぐらかしてばかりである。その理由は言わずと知れていた。
「お兄様、父上がお呼びよ。いますぐお部屋に来なさいって」
「俺は練兵に出るからまた今度と伝えてくれ、フレデグント」
 剣の下げ緒の具合を確かめながら、バーネットはおざなりな返事を返した。彼の妹、フレデグントは愛らしい顔をけわしくして、兄の部屋につかつかと入っていった。
「お兄様!」
 彼女は声を荒げた。
「わたしはお兄様と父上の使い走りじゃございませんことよ! 理由ならお兄様本人が父上に申し上げにゆかれたらいかが?」
 フレデグントはバーネットと十も歳が違う。両親が年取ってからできた子供で、しかも母をすぐ亡くした不憫さから彼女はたいへん甘やかされて育ち、結構わがままなところがあった上に、十歳年上の兄にも臆することなくほとんど対等かそれ以上に物を言う。
「だから、忙しいからお前に頼んでいるんだ」
「嘘ばっかり」
 フレデグントは厳しく決め付けた。そしてバーネットに歩み寄り、剣を奪い取った。慌ててバーネットは取り返そうとしたが、彼女はさっと身を返して逃れ、剣をディヴァンの上に放り出した。
「うわっ!」
 バーネットは大声を出してしまった。それが何、とでも言わんばかりの挑戦的な眼差しを兄に向け、フレデグントは振り返った。こんな女悪魔みたいな妹に心を寄せている青年貴族たちの気持ちが、バーネットには時々判らなくなる。
「一日くらい練兵に行かれなくたってどうとでもなりますでしょ。お兄様は悪魔が出たら出かければよろしいのよ」
 フレデグントは剣をどけて、ディヴァンにすとんと腰を下ろした。その隣にバーネットは並んで座った。フレデグントが膝の前に立てていた剣に手を伸ばして取り返したが、彼女は文句を言わなかった。
「一日くらい休んでもいいとか、そういう仕事じゃないのはお前も知っているだろう」
 素直に頷く妹に、バーネットは続けた。
「たしかに、父上に申し上げに行かれないほど忙しいわけじゃない。だが父上に会ったらそれこそ一日つぶれてしまう。どんな理由であれ公務をおいそれと休むわけにはいかないよ。まして個人的な用事では」
「でも、そうやって逃げ回ってばかりのお兄様なんて、らしくないわ」
 フレデグントはぽつりと呟いた。
「わたしの自慢のお兄様は、いつだって誰に対しても堂々としていらっしゃらなくちゃ嫌よ。サライ様の時は、たったお一人で聖帝陛下にそれはおかしいっておっしゃったんでしょ?」
 彼女はその一言で、内心ではかなり兄を自慢にしていることを暴露してしまっていたが、そんな事には構いもしなかった。バーネットもバーネットで実は妹にべた甘で、貴族の娘の中で一番美しいのは自分の妹に違いないと思っていた。この兄妹はけっこうお互いに甘かったのである。
「お兄様が陛下のご機嫌を損ねたっていうのは本当なの?」
「何故そんな事を?」
 フレデグントは困ったように俯いた。
「だって……この前アリスト伯の舞踏会に行ったら、皆が噂してたわ。陛下はお兄様がレウカディア殿下と踊ったことや、その前にサライ様を庇われたことをとてもお怒りなんだって。だからお兄様はカーティス城にいらっしゃらずにずっと兵舎につめていらっしゃるんだって」
「そんなことはないよ。俺はもともと参内をあまりしないし、パーティーにだって行かない。それを、皆が面白いように言っているだけだ」
 バーネットはそっと妹の肩に手を置いた。
「たしかに、今の陛下は何かあればすぐに処罰をなさるから、過ちのないように気をつけてはいるがね。さあ、お兄様の言いたい理由は判っただろう? 父上に今夜必ず参りますと伝えてくれないか」
 フレデグントは頷いて立ち上がった。
「本当に、今夜父上の所に行ってくださるわね? 約束よ。でないとわたしが父上にお叱りを受けてしまうわ」
「もちろん。フレーデが叱られるようなことを、俺が今までにしたことがあるか? ナカーリアにかけて誓うよ」
 扉を開けてやりながら、バーネットはナカーリアの印を指先で切った。こうして誓いを立ててしまった以上、今夜ローレイン伯爵邸に小言の嵐が吹き荒れるのは必至のようであった。
 バーネットが精鋭軍の練兵場に着いて、全ての訓練が終わってしまえば、出動や応援要請がないかぎり彼らは一日中暇を持て余すことになる。ここ二ヶ月ほど、市内で彼らの出動を求めるほどの悪魔も出ておらず、いたって平穏な日々が続いていた。
「こうも平和だと、かえって不気味な気がするな」
 そう言ったのはリセラだった。
「縁起でもないことを言うなよリセラ。平和に越したことはないだろうが」
「そうだぞ。サライルの噂をすれば悪魔が来るって言うじゃないか」
 とたんにわっと反論が返ってきて、リセラは気まずい顔をした。
「まあまあ、落ち着け。リセラが言いたいのはつまり、平和だからって気を抜くなということだろう?」
 隊長らしく、バーネットがすかさずフォローを入れた。シサリーが賞賛したように、サライのもとであれほどのまとまりを見せていた精鋭軍をサライのいなくなった後も同じ水準に保ちつづけているのはバーネットの力量であり、人柄であった。
 サライはその何もかもが常人とはかけ離れた、「何から何まで自分たちとは違うのだ」という圧倒的なカリスマ性によって彼らをひきつけ、まとめていたのに対し、バーネットは「何から何まで自分たちと同じだ」という親近感や安心感によって彼らを一つにしていた。恐らく、部下を率いるのにこれほど対照的な二人もいなかったろうが、結果は何一つ変わるところはなかった。
「さすが、バーネットはよく判ってくれるな」
「褒めたって何も出ないぞ」
 というのが、バーネットの返答だった。ざわめきが収まろうとしていたとき、また新たなざわめきが今度は玄関の辺りから伝わってきた。何事かと椅子から腰を上げかけたバーネットは、入ってきた相手に意外そうな表情を見せた。双子宮のお仕着せである、銀糸で縁に刺繍を施した薄藍色のドレスを着た女官だった。
「これは、いかなる御用向きで?」
 何にせよ女官を送り込んで来たのはレウカディアで、そうなると用事というものも自ずから限定されてくるのだが、バーネットはとりあえず尋ねた。女官は軽く一礼した。
「我が主君レウカディア殿下より、バーネット・ルデュラン卿へのお言付けにございます。至急、双子宮までお越しくださるようにとの仰せでございます」
 周りの隊員たちがどよめいた。前々からレウカディアがどうやらバーネットにご執心らしいというのは城内の噂だったのだが、噂の当人がもう一方の当人を呼びつける場に居合わせたのだ。面白みたっぷりの見物であったのは言うまでもない。バーネットはそれをすばやく察知して、室を覗いている連中をちょっと睨みつけた。
「まことにお手数ながら、そのご命令には本日は残念ながら従えぬ由を殿下にご奏上願いたい。枉げて参るようにとの仰せであれば、後日参上いたすゆえ」
 女官は驚いたようだったが、すぐに答えた。
「承知いたしました。必ずそのように」
「おいバーネット、断ってよかったのか?」
 女官が去るや否や、ディランが心配そうにそばに来た。
「今夜は忙しくなる予定なんだ。そんな時に殿下のお相手はできない」
 言いかけたところで、市中警備のものが駆け込んできた。
「申し上げます! 市内アルド区ガダー通りに二級悪魔が現れ、現在応戦中ですが当方が不利。応援を頼みます!」
「ほら、それどころじゃないだろ」
 バーネットは軽く彼らを振り返った。
「承った。案内を頼む。第一隊、ただちに出動だ。三テルジン以内に西大門前に整列!」
 さっきまで思い思いに寛いでいた隊員たちの間に、さっと緊張がみなぎる。呼ばれた者たちは即座に動きだし、剣を取って外に出てゆく。バーネットも続いて兵舎を出た。ほぼ時間きっかりで隊列を整え、彼らは市中へと馬を駆った。
 現場は人々の悲鳴や叫び交わす声ですぐにそれと知れた。露天商が通りの両端に軒を連ね、平静であれば活気に満ちているだろうそこはいまや混乱の場と化していた。屋台がひしめき合い、人で溢れているために、一旦騒ぎが起これば逃げ惑う人々と進もうとする兵たちとで収拾がつかなくなる。人ごみの中に馬で駆け入るのはあまりに危険であったので、バーネットは適当なところで馬を下りた。彼らの到着を待っていた警備隊長を見つけるのは一苦労だった。
「遅れて申し訳ない、バディラ殿。悪魔はどこに?」
「それが、判らないのだ。まさに神出鬼没というやつで。いきなり人々の間に現れ、いきなり消えてしまう。おまけにこの人だ」
 バディラは眉をしかめた。焦りと苛立ちを感じているのだろう。
「警備隊は市民の誘導をお願いします。建物に入らせるか、とにかくこの場から遠ざけるように。悪魔は我々が」
「承知した」
 二人はすぐに別れ、やがて市民たちが何とか一定方向に動きはじめた。その途端、人ごみの中からひときわ大きな悲鳴が上がった。群衆がわっとてんでに逃げ出そうとするのを警備隊がもまれつつも制し、安全と思われる方向へ誘導している。
 バーネットが命じるまでもなく、精鋭軍はそちらに向かう。急に人垣が途切れ、小さな空き地ができていた。血にまみれて倒れた男と、その傍らには狼のような頭と四本の腕を持った異形が立っていた。剛毛に覆われた体には、血が染み付いた白い衣服のようなものをまとっており、それが奇妙な知性のようなものをこの悪魔に感じさせた。取り巻く人々は逃げることも忘れて怯えているのか、野次馬となっているのか判らない。一瞬の空白の後、バーネットの声が響いた。
「総員戦闘用意! 取り囲んで攻撃。弓矢および魔道は使用するな!」
 一斉に隊員たちが動き、悪魔から半径三バールのあたりを取り囲む。警備隊が市民を誘導する声が切れ切れに聞こえ、どうやら再び人々は動き出したようだった。
「グルルル……」
 悪魔の喉から獣の唸りが漏れた。頭を低く下げ、牙を剥きだしながら、誰を襲うかを定めるように首を振る。悪魔の視界から己の姿が消えたと見た瞬間、バーネットは一気に間合いを詰め、剣を振り下ろした。肉を切り裂く確かな手応えが伝わり、血が跳ねた。彼の剣は狼人の左脇腹をえぐっていた。
「ガ――ッ!」
 怒りに満ちた叫びを狼人が発し、バーネットに右腕を振り下ろす。一本は剣で受け止めたが、左腕が襲い掛かってくるのに気づくのが遅れた。
「させるか!」
 機を窺っていた隊員の一人が出した剣が、鋭い爪を叩き折った。思わぬ攻撃に怯んだ隙を、彼らは見逃さなかった。
「一度にかかるな。交互に向かえ!」
 傷の痛みに逆上した悪魔が暴れだすことを見越して、バーネットは叫んだ。だが、悪魔の次の動きは彼にとっても予想外のものだった。
「うわっ!」
「何だ?」
 狼人はいきなり、彼らの頭上を飛び越えたのだ、突然の跳躍に驚いた隊員たちがとっさにどこに着地したのかを見極めようと回りを見回す。あれほど巨大な悪魔が飛び込んでくれば人々の間に恐慌が巻き起こるはずであるし、通りの端を埋める屋台に飛び込んだのならその音がする筈である。だが、いくら耳を澄ませ、目を凝らしても、悪魔の姿は見つからない。
「バディラ殿がおっしゃったのはこの事か。奴は横道に逃げ込んだのかもしれない。探すぞ!」
 ただちに数名が横道に駆け込んでいく。ごみ捨て場になった一角から、饐えた臭いが漂ってきた。文明都市、文化の華と謳われるカーティスも、一歩踏み込めば他の都市と変わらぬ。貧しい者は貧しいし、汚いものは汚い。慎重に剣を構えつつ、じりじりと進みながらバーネットは微かな物音に反応して素早く剣を突き出した。相手を確認し、彼は詰めていた息を吐いた。
 建物と建物の間に体を埋めるようにしてうずくまっていたのは、一人の女だった。長くて縮れた黒髪は乱れて体を覆い、目は脅えの色を浮かべて彼を見上げている。バーネットは剣を収め、女に近づいた。
「ウウウ……」
「大丈夫ですか? 怪我をしているようだ。悪魔に襲われたんですか? こんな所にいたらいけない。どこに悪魔が潜んだのかも判らないのに」
 女の体のあちこちに、鋭い刃物のようなもので切った傷がついて、血が流れている。バーネットは女に手を貸して立ち上がらせた。その時、奇妙な既視感が彼をとらえた。あまりにそれが強かったので、彼は思わず女から身を引こうとしたが、彼女の腕はバーネットの首筋に絡みつき、放さない。力の強さにぎょっとしてその姿をよく見ると、左脇腹がざっくりと切られているのに気づいた。
 何故悪魔があれほどまで彼らを幻惑し、突然姿を現したり消したりできたのか、唐突に理解が訪れた。
「悪魔がいたぞ!」
 精一杯張り上げた絶叫と同時に女が笑う。その唇の奥にはずらりと並んだ牙。笑みは顔中に広がり、やがてその顔は狼へと奇妙な変貌を遂げる。すでに獣のそれと化した指が肩に食い込むのを感じた。狼人が牙を剥き、一声吠えた。
 刹那――。
 恐ろしい激痛と叫び交わす部下たちの声に包まれ、バーネットの意識は途切れた。

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