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     神々のうち最も力あるものは恋の神に他なりません。
     キュティアの放つ恋の矢に射られれば
     石の心持つものもたちまち恋の虜。
     この矢の前にはいかなる神もかないませぬ。
     これより詩人が語りますは、
     美しき乙女ラウリスとサライアの哀しき恋の物語。
     天空の王サライアですら、恋の矢に逆らうことは
     できなかったのでございます。
                        ――吟遊詩人の物語
                             「ラウリス」より




     第二楽章 カーティス・トッカータ




 恋する乙女にとって、時間とはまるでゴムのように伸び縮みする物質でできているようなものらしい。一日がまるで一ヶ月にも一年にも感じられたかと思えば、一日が一瞬のうちに過ぎてしまってその早さに驚いたりする。そしてまた、普通の日常が風や土、水のようなものであるのなら、恋する若い娘の日々はきらめく星であり、燃え盛る炎のようなものでできているのに違いなかった。
 そのように――レウカディアはまさに恋をしていた。いつも物思わしげに窓の外を見つめ、時折小さなため息をつくのであった。ドレスの仮縫いにもあまり乗り気ではなさそうで、女官たちが噂話をおもしろおかしくしてもみてもなんとなくその笑顔は消えていってしまうのだった。
「お誕生日のパーティーからよね。レウカディア様があんな調子なのは」
「いいえ、あれから三日くらいしてからよ。急にふさぎ込んだようになったのは」
「あらティアラ、ルビア、いったい何の話をしているの?」
「まあ、アスリア。いいところに来たわね。こちらにいらっしゃいよ。ピチェの実の蜂蜜漬けがあるのよ」
 ティアラが手招きした長椅子の隣に腰掛け、アスリアはさっそくピチェをつまんだ。女官たちの溜まり場となっている台所脇の小部屋は、彼女らが少しでも心地よく、楽しく過ごせるようにと運び込んできたものでいっぱいだった。少々古くなった長椅子には彼女らの誰かが手作りしたクッションが置いてある。戸棚には保存のきく菓子だとか、アーフェル蜜のびんだとかがしまってあって、休み時間ごとに彼女らは集まって噂話を楽しむのだった。
「で、何の話をしていたの?」
「レウカディア様のことよ」
 ルビアが訳知り顔に言った。それだけでアスリアには、二人が何を話していたのかが判った。たちまち目を輝かせる。
「いやだわ、私抜きでそんな面白い話をしていたなんて」
「面白いだなんて失礼よアスリア」
「そうよ、私たちは心配してさしあげているんですからね」
「何よ、面白がっているくせに。――それにしても殿下はこのところ本当に危なっかしくていらっしゃるわね。何も手につかないって感じなんですもの」
「だから、あれは恋煩いよ」
 ティアラの一言に、二人はきゃあっと嬌声を上げた。とはいえすぐのところにレウカディアの居室があったので、いくぶん控えめであった。
「やっぱり、バーネット様に、かしらね」
「そうに違いないわ。この前シャルラ様がいらしたときにね、バーネットは私にとって特別なのよっておっしゃってるのを私聞いちゃったのよ」
「それっていつのことよ。やあね、そんな情報を一人で握っているなんてずるいわ」
「ずるいも何もあるもんですか」
 アスリアはつんとすまして言った。三人が三人ともバーネットのファンだったので、彼女らの女あるじとバーネットとの関係の進展は非常に興味あるところであった。レウカディアは気分によっては女官たちに八つ当たりしてしまうことが時折あったにしろそれはかわいいものだったし、それをのぞけば良い主人だったので、もちろん彼女らはレウカディアの幸せを願っていた。その反面、皆の共通の憧れのバーネットには、いつまでも独り身でいてほしいというむしのいい願いを持っていたりもしていたのであった。
「殿下が口に出して仰らなくたって、ルデュラン子爵に特別なご好意を抱かれてるのは一目瞭然のことじゃない? 子爵がお越しにならなくなってからよ。殿下がふさぎがちになられたのは」
「以前は三日にあげずいらしてたものね。私たちもいい目の保養をさせてもらったものだけれど」
 言いながら、ルビアは続けざまにピチェを口に放り込んだ。
「どうしてお越しにならないのかしら」
「ダンスパーティーのエスコートのせいじゃないの? ルデュラン子爵はだいぶ渋っていらしたんでしょう?」
 その渋っていたバーネットに詰め寄って押し切った張本人たちのルビアとアスリアはあいまいに笑って頷いた。
「陛下は何も仰らなかったけれどね……やっぱりバーネット様では問題があったのかも」
「そうじゃなくて、またダンスのお相手をさせられるかもしれないから、じゃないかしら。そうだとしたら私たちにも責任があるってことよね。せめて殿下がもう少し、ご自分の感情だけじゃなくて、周りの反応とかを考えて行動してくださればいいのに」
「しぃっ、めったなことを言うものじゃないわ、アスリア」
 ルビアが慌ててたしなめ、人差し指を唇に押し当てた。口を滑らせてしまったことに気づいたアスリアはちらりと目を左右に走らせ、肩をすぼめた。アスリアは三人の中で一番小柄だったので、。そうするとますます小さく見えた。なんとなく気まずい雰囲気が流れてしまい、三人は黙り込んでしまった。しかし三人ならずとも、このところのレウカディアの様子は宮廷じゅうの噂になっていた。
「レウカディア様、アーフェル水はいかがですか」
「いらないわ」
 ぼんやりと書物を眺めながら、レウカディアは答えた。中年の女官はいかにも年長者らしく、目立たないくらい僅かに肩をすくめただけでひきさがった。
「お茶の支度ができたら呼びに来て。それまで一人でいたいの」
「かしこまりました」
 速やかに女官たちは退出した。レウカディア一人が残された筈の室内に、もやもやと黒いかたまりが湧き出してきた。見る間に、ロザリアがいっぱいに生けられたアラバスターの花瓶の隣に黒いマントですっぽりと体を覆った魔道師の姿が出現した。年のころは三十前後、額には上級魔道師のしるしの額輪をはめていた。その魔道師の額輪は上級の二段を表す青だった。
「アウレロウスにございます」
「今、結界を張るわ」
 レウカディアは結界を張るための誓句を唱えながら、神聖古代文字の印を切った。
「これでいいわ。それで、何か新しい情報はつかめて?」
 アウレロウスは言いにくそうにもじもじと両手をよじり合わせ、レウカディアから目をそらした。
「サライ様とその一行は、ジャニュアを後にしてございました」
「それで、次はどこに行ったの」
「大変申し上げにくいことでございますが――」
「え?」
 レウカディアは目を大きく見張った。アウレロウスの額に冷や汗が浮かんだ。
「調べましたところ、連れの傭兵二人の契約が今月で終わり、二人に同行する形でサライ様もセシュス伯爵邸をお辞めになったとの事です。行く先については全く手掛かりはございません。この度の調べは殿下の御名を出すわけにも参りませんで、サライ様の現地でのご友人に二、三尋ねもいたしましたが、その者も何も知らぬとのこと」
「それは、いつのことなの」
「エレミルの月の二十日のことでございますゆえ、わたくしがメルヌに到着した時には既に三日が過ぎておりました」
「ジャニュアから出るとなれば海路か、陸路伝いに草原にゆくのでしょうね」
「海路となりますと沿海州か、北回りでメビウス、南回りでエルボスに向かわれると思いますが、お調べになりますか、殿下」
 ぎくっとしたようにレウカディアは振り返った。しばらく目を宙に泳がせていたが、やがてアウレロウスの上に視線を戻した。
「いえ、それには及ばないわ。ごくろうでした。これ以上の追跡は必要ありません」
「かしこまりました」
 アウレロウスは深々と一礼して、またもやもやと消えていった。その姿が完全に消えてしまったことを確認してから、レウカディアは結界を解いた。四日前、シャルラから忠告を受けていなければ、追跡調査をさせていたかもしれないが、さすがにギルドに勘付かれたと知っても続けられるほど彼女は図太くなかった。
 自分がずっと立ち尽くしていたことに気づいて、レウカディアはため息とともに椅子に腰を下ろした。
(エミール陛下もナカルお姉様も、サライを召し抱えるつもりがあったのに、サライはすべて断ってしまったと聞くわ。もう、宮仕えなどしたくないのかしら。それも当然といえば当然だけれど……。私が親書を送ったことを、サライは知っているのかしら。知らないならそれはそれで構わない。でも、知っていたら、どうしてだろう)
 アレクサンデルに捧げた剣を取り戻した時、次はレウカディアこそが主君と思い定めたゆえの忠誠とは、彼女は知らない。君主を持つということ自体に嫌気がさしてしまったのだろうとしか考えることができなかった。
 それもこれも、どこぞの馬鹿者がこともあろうに父の面前でサライに向かって万歳を唱えたからだ、と思うと、レウカディアは行き場のない怒りがこみ上げてくるのだった。彼女の思いを共有してくれる唯一の存在であるバーネットはパーティーの一件以来音沙汰がなく、彼女としては相当にやりきれない気分を噛み締めていた。女官たちの噂の的になっているレウカディアの憂いは、そんなところにも端を発していたのである。
 魔道の書物に目を通していても、文字が頭の中を素通りしていくだけで、少しも入ってゆかない。この世に彼女の心を浮き立たせるものなど何一つとしてないのだ、と言わんばかりの沈んだ顔をしていた。
「レウカディア様、お茶の支度が整いましてございます」
 先程の女官がうやうやしく入ってきた。夢から覚めた人のように、レウカディアははっとした。そして、あまりぼんやりした様子ばかり見せていては、物笑いの種になってしまうと気づいて慌てて軽く咳払いして驚いていないように取り繕った。だが、彼女が少々うろたえていたのはしっかり目撃されていた。
「ありがとう、いま行くわ。サビナ・ビルビア」
 この時代の中原の貴族階級では、食事は一日二回が普通である。夜は舞踏会やらサロンやらで遅く、朝は昼近くまで眠る生活をしているので、起きてから朝昼兼用の食事を取り、夕方の出かける前に軽い食事を済ませるのである。出かける先が正餐であればその必要もないが、舞踏会では腹の足しになるようなものは出ないのがしきたりなので、たいていはその前に軽食を取って備えておく。もちろんこれは定時の仕事など持たぬ大貴族、貴婦人らの習慣に限られていたことは言うまでもない。
 若い人やよく食べる人は二度の食事だけではとうてい持たぬから、適当な時間にお茶としてごく軽い食事をしたためる。そして並べられるものは、主人の好みに合わせた菓子や一品料理の数々であった。いくら沈んでいてもレウカディアは若く健康な二十歳の娘だった。テーブルに並んだ食事を目の前にして、ぱっと顔が晴れた。
 卵の白身だけをふわふわに泡立てて甘く味付けしたものを焼いたオムレツのようなもの、木の実をたっぷり混ぜ込んだパン、干したカディス果を刻み入れたパン、軽焼きパン、アーフェルのパイ、柔らかく煮込んだ肉を詰めたパイ、乳酪をかけた果物、薄く延ばして焼いたミールの生地で、クリームや果物、甘いシロップを包んだもの、彩りを添える真っ赤なケラシフォルのサラダ。今日用意されているのはエルボスのお茶だったが、時にはアーフェル酒やはちみつ酒のようなごく弱い酒類が出ることもある。
 ともあれこのお茶の時間がレウカディアの楽しみの一つであることは疑いようのない事実であった。
「そこのアーフェルパイを切ってちょうだい。それと果物も少しね」
 さっそくパイをつつきながら、レウカディアは女官たちに声をかけた。
「お前たちも一緒に食べましょう。一人よりも皆で食べたほうが楽しいもの」
 彼女が気安くそういった誘いをかけるのはいつものことで、彼女の声を待って、当番の女官たちも席に着き、めいめい好きなものを取った。一旬ほど前まではこのお茶にバーネットが同席していることが多かったのだが、このところはまた元通り、女だけのお茶に戻っていた。女官たちの中にはバーネットがいないのを残念に思っているものも少なくなかった。
「レウカディア様、バラのジャムはいかがです?」
「そうね、少し取っておいて」
 レウカディアがお茶の時間を過ごすのは、中庭に面した一室であった。初冬の今は、薄水色のアラリアの花が咲き乱れていた。和んだ雰囲気の中、一人がうっかりと口を滑らせた。
「バーネット様がいらっしゃらないのが残念ですわね、殿下」
 彼女は先月から勤めはじめたばかりの新人で、今のレウカディアの前ではバーネットの名が禁句だという暗黙のルールを全く察していなかった。とたんに周りの空気が凍りついた。気づかぬのはその女官ただ一人であった。
「そうねえ、このところ全くいらっしゃらないものね」
 にっこりと微笑み、レウカディアはかたい声でいった。女官に罪はなかったし、無邪気な気持ちでいったのだと言うことは彼女にもすぐ判ったので、辛うじて平静を保って答えることができた。これがもしも、もっと事情をよく知る者のせりふだったら、彼女は一目散にベッドに向かって、二テルは起きてこなかっただろう。
 レウカディアが思いの外に落ち着いた応答をしたので、残りの女官――ルビア、ティアラ、アスリアの三人はほっと胸を撫で下ろした。このところ、ずっと自分の中で自問自答を繰り返して気持ちの整理をつけていくことにも慣れてきたのだろう。レウカディアは何でもないようにバーネットを話題にのせることすらできた。
「きっと、精鋭軍のお仕事が忙しくていらっしゃるんでしょう。男の方は女の私たちと違って気苦労も多いでしょうからね」
「それにしても、もう何ヶ月も陛下がお越しになりませんわね」
 ティアラの一言で、レウカディアは今更気づいたような顔をした。
「あら、言われてみればそうねえ」
 考えてみれば、ずっと父親の顔を見ていなかった。もともと宮中晩餐会や舞踏会、あれこれの式典行事の時くらいしか顔をあわせる機会がないし、アレクサンデルは娘たちのために時間を割いてやろうと努力するタイプの父親ではなかった。そのせいもあって、皇女たちは父親に「この人が父なのだ」という感想以外の感情をほとんど持ち合わせていない。レウカディアは幼いうちに母を亡くしているので、母に向かう分の愛慕が父に向かってもいいものなのだが、父がそのような人物であったために彼女は姉や、もっと自らに近しくしている人々にすべての愛情を振り向けていた。
 それが、思春期を過ぎるころには父親に対する無関心になってしまっていた。だから彼女は父が日常何をして過ごしているのか、何を考えているのかということに全くといっていいほど興味を持たなかったし、もし持つのだとしたらそれはサライの国外追放の時のように、彼女が好意を抱いている者、彼女と親しいものが関係しているときだけだった。
「父上はもともとこちらにはほとんどいらっしゃらないし、あまり気にしていなかったけれど、たしかに父上と夕食をご一緒するのは先月から一回もないわね。なくたってかまわないけれど」
「そんなお言葉が陛下のお耳に入ったらお叱りを受けますわよ、レウカディア様」
「ルビア、ここは双子宮の中よ。そんな事はお前たちが告げ口でもしないかぎりありえないわ」
 レウカディアは笑った。
「もし父上にこの話が伝わっていたら、必ずお前たちを疑うわよ」
「おお、でしたらわたくしたち、タヴァ貝のように口を閉ざしておりますわ」
「いちばんおしゃべりなのはヤニナ、あなたでしょう」
「だからってわたくしは殿下を裏切るようなまねはいたしませんわよ」
 ヤニナが自慢げに胸を張って見せた。
「もちろん、皆の忠義は主人の私がよーく知っているわよ」
 皮肉を込めてレウカディアがやり返した。女官たちは笑い崩れて、レウカディアも笑いにつられる。双子宮には、若い娘たちのはなやいだ声が満ちていた。

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