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     私はあなたが好きよ。
     だって誰かを愛するにも憎むにも
     大した理由なんて要らないでしょう。
     たった一つのきっかけさえあれば
     それだけで充分なのよ。
         ――レウカディア・エル・クライン




     第四楽章 マドリガル




 エトルリアの突然のラトキア侵攻から二旬日が過ぎていた。北国のメビウスでは十月ともなれば冬の始まり、すでに息が白くなる日もある。中原のほぼ中央にあるクライン平野でも、秋はしずかに木々の葉を赤や黄色に染め、冬への交代を急いでいた。
「隊長は元気かな」
 その質問に、隊長が答える。
「大丈夫。なんてったって俺たちの隊長なんだから」
「そうだなあ……って、お前も隊長だっけか」
 相手はくすっと笑ってバーネットを見た。先程までの話の矛盾にバーネットは今頃気づいたようで、しきりに目をしばたたいていた。
「あっ、そっか。俺が今のところは隊長だったんだ」
 その一言で一座はどっと笑い出した。クライン城の南大門前にある兵舎では、出動命令のない穏やかな一日とあって、皆が気の合う仲間同士集まって、それぞれ好きなことをやっていた。バーネットの友人たちはいつものようによもやま話をしていたのだが、一人がついうっかり言ってしまった言葉のために、現精鋭軍隊長のバーネットが思い出に浸ってしまった。おかげでそのままサライとの思い出話に花が咲くことになってしまった。
 バーネットは前隊長のサライに私淑していたので、サライがいなくなった後に精鋭軍を任せられても、それを嬉しいとは特に思わなかった。暇を見てはレウカディアのいる魔道師の塔におもむいて、彼女と話をするのが今では日課の一つになっていた。セルシャのエミール王からの情報で、サライとアトが無事にセルシャまで来たこと、そののちにジャニュアに向かったことを知って二人はともかくも安心していた。それからの情報は入ってこないので、おそらくジャニュアに逗留しているのだろう。
 たった一つ気掛かりなのは、サライとアトの二人に、正体不明のティフィリス人とアスキア人が同行しているということだけだった。エミールとマナ・サーリアの話では二人ともかなり腕の立つ男らしいのだが、聞いたかぎりでは――とくにレウカディアは――金で動くような傭兵など信用できそうもなかった。
「おい、どうしたんだ? ぼーっとして」
「え?」
 虚を突かれて、バーネットは一瞬答えにとまどった。いい加減話をそらしたほうがいいのではないかと考えて、彼は今皆が喜んでしそうな話題を必死で探した。魔道師の都、文化の華とも言われるカーティスのこと、魔道師の塔からもたらされる情報は非常に早く、口コミ中心の街では一週間ほどで噂話として広まる。まして宮中では二、三日経つか経たないかのうちに広まりきる。膨大な話題から思いつくには時間がかかった。しかもどの話題なら皆が飛びつくかを見極めるのが大変である。
「……ラトキア、大変だよな」
 今度は友人が目を白黒させる番だった。
「それがどーしたよ。あ、そういやラトキア大公の姫君が二人死んじまったって噂だぜ。いちばん上の姫はハン・マオの目の前で自刃して、下の姫はファンと妹の目の前で身を投げたって」
 バーネットの正面にいたリセラが口を挟んだ。
「無事だったのが末姫の、なんて言ったかな……?」
「シェハラザードだよ」
 リセラの言葉にバーネットは追加した。
「そうそう。何でもそのシェハラザード姫が弟のナーディル公子を何処かに逃がしたらしくて、エトルリアでは傀儡の大公位につけるためか殺すためか、ともかく彼を血眼になって探してるんだよな。なかなかやる姫様だよなあ」
 ディランが横から割り込んできた。
「でもさリセラ、女だてらによろいかぶとをまとって剣を振り回すっていうのは、おれは嫌だな」
「ばか言えよ、ラトキアの三公女といえば《ゼーアの三輪の花》っていうほどの美人なんだぜ。その末の姫だって、出陣したなんていうのはあれが最初で最後だし。どこの公女もみんなペルジアの第三公女みたいだってみろよ、世の中お終いだぜ」
 リセラはまずいものでも食べたような顔をして言った。
「俺は一回使節として親父についてペルジアに行ったことがあったからその《三大美女》にお目にかかったけどお前ら、あんな恐ろしいものは無かったぞ。ありゃあ実物をいっぺん見てみないことにはわからないよ」
 バーネットはことさら真面目な顔をした。リセラとディランはそれぞれ顔を見合わせたが、ぞっとしない想像にうんざりして舌を出したのだった。
 そんなわけで、何気なく話したラトキアの話だったが、妙に引っかかるものがあってバーネットは自宅のローレイン邸に戻ってもなかなか寝付かれなかった。特に、ラトキア大公家の末姫、シェハラザードのことが頭から離れなかった。もう一つはサライと行動を共にしているティフィリス人とアスキア人のことだった。
 翌日が非番であったのをよいことに、バーネットは双子宮のレウカディアの私室を訪れた。
「あら、私から伺おうと思っていたのに貴方から来てしまったのね」
 いつも二人が話をする室に、レウカディアはドレスのすそをふわりと軽やかにひるがえしながら入ってきた。絶世の美女の誉れ高い姉姫ルクリーシアが嫁ぎ、いなくなってしまってから、急にレウカディアは今までの子供っぽさを抜け出して年相応に大人びてきた。成人式はまだであるが、最近ではその咲き初めた大輪の花にも似た美しさや優雅さにおいて宮廷一の貴婦人の名をほしいままにしている。
 もちろん姉のルクリーシアの方が彼女よりも洗練された典雅さを持ち合わせていたし美しかっただろうが、レウカディアには彼女にはない溌剌とした、光が肌からにじみでるような美しさがあった。そのせいか、亡き皇后ネイミアによく似てきた、とバーネットは思った。
 今日の彼女は絹糸のような黒髪も、《クラインの黒曜石》と謳われるその瞳も、すべてがいつもよりも輝いて見えた。それは若さだけが持ち得る美であったに違いない。
「おはようございます。レウカディア殿下。今日の髪飾りはマノリアですか? 貴女の黒髪にはその白い花がよくお似合いですね」
「お世辞が上手ね」
 レウカディアは皮肉っぽく笑って言うと、バーネットが立っている前まで来て、彼の顔を見上げた。
「明日は何の日かご存知かしら」
「いいえ……宮中行事には疎いものですから……」
 バーネットが答えると、レウカディアは怒ったように言った。
「明日は私の誕生日よ。二十の」
「あっ……申し訳ございません」
 はっと体をこわばらせてバーネットは最敬礼をした。その様子を見てレウカディアはくっくっ、と鳩のような笑い声を立てた。
「いやだわ、あなたの父上のローレイン伯爵は宮中一の伊達男というのに、その息子のあなたが無粋な軍人、だなんて。私の誕生日を知らなくたって、それはそれでいいわよ。私はあなたの誕生日を知らないんだからおあいこで」
「はあ……」
 バーネットは頼りなさげに頭の中のカレンダーをめくってみた。しかし、このところ舞踏会やパーティーに招待されても断ってばかりだったので、クライン城で催されることにも心当たりが無かった。言われてみればここ二、三日城内が騒がしかったような……という程度である。
「それで、頼みがあるの」
 レウカディアは急に真顔に戻って、彼の手をいきなり握り締めた。バーネットも無意識のうちに身構える。手を握られたことにも狼狽したが、外そうとはしなかった。
「明日のダンスパーティーで、私と踊ってくれないかしら。いくら貴方だってワルツやカドリールくらい踊れるでしょう?」
 バーネットはそれと知らずうろたえていた。
「俺に……っと、私に? 何でまた。それこそ私の父の専売特許ですよ。私には向いてません。それに、殿下になら他にもっと身分の高い……公爵、侯爵にお似合いの方もいらっしゃるでしょう。右府将軍のアストリアス殿とか、アーバイエ候シェレン閣下とか。子爵の私程度では殿下の相手はつとまりません」
 彼はうろたえて、彼の手を握っているレウカディアの手に、もう一方の手を重ねて外した。レウカディアは一瞬考え込むような顔をした。
「どうしてそんな事を言うの、バーネット」
 彼女は初めて彼を名前で呼んだ。
「謙遜だというならいいけれど、本気でそんなことを言っているのなら皇女として許しませんよ。貴方はまだ若いんだし、いずれローレイン伯爵になってローレイン州を治める身ではないの。それに、ルデュラン家は押しも押されぬ大貴族じゃない? ダンスの相手くらい何が悪いというの」
「しかし……」
 バーネットは答えに詰まってしまった。

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